「『大乗起信論』」の版間の差分
提供: WikiArc
(同じ利用者による、間の1版が非表示) | |||
1行目: | 1行目: | ||
<font color="#ff8888">作業中</font> | <font color="#ff8888">作業中</font> | ||
{{Kaisetu|『起信論』ともいう。インドの馬鳴菩薩造と伝えられているが、同名異人の作とも、中国で馬鳴に仮託されて作られたものともいわれる。漢訳に梁の真諦訳一巻、唐の実叉難陀訳二巻がある。大乗仏教の中心思想を理論と実践の両面から説き真如縁起を主張する。短編ではあるが、仏教史上極めて重要な書物で、華厳・天台・禅・浄土・真言等の大乗仏教の主要な宗派に大きな影響を与えた。(「浄土真宗辞典」より)。<br /> | {{Kaisetu|『起信論』ともいう。インドの馬鳴菩薩造と伝えられているが、同名異人の作とも、中国で馬鳴に仮託されて作られたものともいわれる。漢訳に梁の真諦訳一巻、唐の実叉難陀訳二巻がある。大乗仏教の中心思想を理論と実践の両面から説き真如縁起を主張する。短編ではあるが、仏教史上極めて重要な書物で、華厳・天台・禅・浄土・真言等の大乗仏教の主要な宗派に大きな影響を与えた。(「浄土真宗辞典」より)。<br /> | ||
− | 漢文はSATから、読下し文は従来の説ではなく論の著者がいいたいことをすなおに読み解くとされる『現代語訳- | + | 漢文はSATから、読下し文は従来の説ではなく論の著者がいいたいことをすなおに読み解くとされる『現代語訳-大乗起信論』池田魯参著に依った。御開山は「真巻」で飛錫の『念仏三昧宝王論』を通して引文され「化巻末」でも『大乗起信論』の引文がある。脚注の◇以降は林游が追記した。2013-12-16 初稿 |
}} | }} | ||
2023年3月10日 (金) 23:49時点における最新版
作業中
漢文はSATから、読下し文は従来の説ではなく論の著者がいいたいことをすなおに読み解くとされる『現代語訳-大乗起信論』池田魯参著に依った。御開山は「真巻」で飛錫の『念仏三昧宝王論』を通して引文され「化巻末」でも『大乗起信論』の引文がある。脚注の◇以降は林游が追記した。2013-12-16 初稿
大乗起信論
大乗起信論序
揚州僧智愷作
- 大乗起信論一巻
馬鳴菩薩造
梁西印度三蔵法師真諦訳
帰敬頌
- 帰命尽十方 最勝業遍知
- 尽十方の、最勝業の遍知にして、
- 色無礙自在 救世大悲者
- 色の無礙自在なる、救世大悲者と、
- 及彼身体相 法性真如海
- 及び、彼の身の体と相なる、法性真如の海にして、
- 無量功徳蔵 如実修行等。
- 無量の功徳の蔵と、如実の修行等に帰命したてまつる。
- 為欲令衆生 除疑捨耶執
- 衆生をして、疑いを除き、邪執を捨て、
- 起大乗正信 仏種不断故。
- 大乗の正信を起こして、仏種を断ぜざらしめんと欲するがための故なり。
論曰、有法[1]能起摩訶衍[2]信根[3]。是故応説。説有五分。云何為五。
- 論じていわく、法の能く
摩訶衍 の信根を起こすあり。是の故に応に説くべし。説くに五分あり。云何んが五となすや。
一者因縁分、二者立義分、三者解釈分、四者修行信心分、五者勧修利益分。
- 一には
因縁 分、二には立義 分、三には解釈 分、四には修行信心 分、五には勧修利益 分なり。
因縁分
初説因縁分。
- 初めに因縁分を説かん。
問曰、有何因縁而造此論。
- 問うて曰わく、何の因縁あって此の論を造るや。
答曰、是因縁有八種。云何為八。
- 答えて曰わく、是の因縁に八種有り。云何んが八となすや。
一者 因縁総相。所謂、為令衆生離一切苦得究竟楽[4]、非求世間名利恭敬故。
- 一には、因縁の総相なり。
所謂 、衆生をして一切の苦を離れ究竟の楽を得しめんがためにして、世間の名利と恭敬を求めるにあらざるが故なり。
二者、為欲解釈如来根本之義[5]、令諸衆生正解不謬故。
- 二には、如来の根本の義を解釈して、
諸 の衆生をして正しく解して謬 らざらしめんと欲するがための故なり。
三者、為令善根成熟[6]衆生、於摩訶衍法堪任不退[7]信故。
- 三には、善根の成熟せる衆生をして、摩訶衍の法に於いて不退の信に
堪任 ならしめんがための故なり。
四者、為令善根微少衆生、修習信心故。
- 四には、善根の微小なる衆生をして、信心を修習せしめんがための故なり。
五者、為示方便消悪業障[8]、善護其心、遠離痴慢出邪網故。
- 五には、方便を示して悪業の障りを消し、
善 く其の心を護り、癡・慢を遠離して邪網を出でんがための故なり。
六者、為示修習止観、対治凡夫二乗心過故。
- 六には、
止観 を修習することを示して、凡夫と二乗の心の過ちを対治せんがための故なり。
七者、為示専念方便、生於仏前必定不退信心故。
- 七には、専念の方便を示して、仏前に生じ必定して信心を退せざらんがための故なり。
八者、為示利益 勧修行故。
- 八には、利益を示して、修行を勧めんがための故なり。
有如是等因縁、所以造論。
- 是の如き等の因縁あり、
所以 に論を造る。
問曰、修多羅中具有此法 何須重説。
- 問うて曰わく、
修多羅 の中に具 さに此の法あるに、何ぞ重ねて説くを須 うるや。
答曰、修多羅中雖有此法、以衆生根行不等 受解縁別。
- 答えて曰わく、修多羅の中に此の法有りと
雖 も、衆生の根・行は等しからざると、受解の縁の別なるを以ってなり。
所謂 如来在世衆生利根、能説之人色心業勝、円音一演異類等解、則不須論。
所謂 、如来の在世には、衆生は利根にして、能説の人は、色心の業勝れたれば、円音を一たび演 ぶれば、異類等しく解して、則ち論を須 いず。
若如来滅後、或有衆生能以自力広聞而取解者、或有衆生亦以自力少聞而多解者、或有衆生無自心力 因於広論而得解者、自有衆生復以広論文多為煩、心楽総持少文而摂多義能取解者。
- 如来の滅後の
若 きは、或いは衆生の能く自力を以って広く聞いて、解を取る者あり、或いは衆生の亦た自力を以って少し聞いて多く解する者あり、或いは衆生の自らに心力なく、広論に因 って解を得る者あり、自ずから衆生のまた広論の文の多きを以って煩となし、心に総持 の少文にして多義を摂するものを楽 って能く解を取る者あり。
如是、此論、為欲総摂如来広大深法無辺義故、応説此論。
- 是の如くなれば、此の論は、如来の広大の深法の無辺の義を
総摂 せんと欲するがための故に、応に此の論を説くべし。
已説因縁分。
- 已に因縁分を説けり。
立義分
次説立義分。
- 次に立義分を説かん。
摩訶衍者、総説有二種。云何為二。一者法、二者義。
摩訶衍 とは、総説するに二種有り。云何んが二となすや。一には法、二には義なり。
所言法者、謂衆生心。是心則摂一切世間法出世間法[9]。
所言 、法とは、謂わく衆生心なり。是の心は則ち一切の世間の法と出世間の法とを摂す。
依於此心顕示摩訶衍義。何以故、是心真如相[10]、即示摩訶衍体故。
- 此の心に依って摩訶衍の義を顕示するなり。何を以っての故に、是の心の真如の相は、即ち摩訶衍の体を示すが故なり。
是心[11]生滅因縁相、能示摩訶衍自体相用故。
- 是の心の生滅の因縁の相は、能く摩訶衍の自の体と相と用を示すが故なり。
所言義者、則有三種。云何為三。
所言 、義には、則ち三種有り。 云何んが三となすや。
一者体大、謂一切法真如平等不増減故。
- 一には体が大なり、謂わく、一切の法の真如は平等にして増減せざるが故なり。
二者相大、謂如来蔵[12]具足無量性功徳故。
- 二には相が大なり、謂わく、如来の蔵にして、無量の性功徳を具足するが故なり。
三者用大、能生一切世間出世間善因果故。
- 三には用が大なり、能く一切の世間と出世間の善の因果を生ずるが故なり。
一切諸仏本所乗故。一切菩薩皆乗此法到如来地故。
- 一切の諸仏が
本 乗ぜし所なるが故なり。一切の菩薩も皆此の法に乗じて如来地に到るが故なり。
已説立義分。
- 已に立義分を説けり。
解釈分
次説解釈分。
- 次に解釈分を説かん。
解釈分有三種。云何為三。一者顕示正義[13]、二者対治邪執、三者分別発趣道相。
- 解釈分に三種あり。云何んが三となすや。一には正義を顕示す。二には邪執を対治す。三には道に発趣する相を示す。
顕示正義
顕示正義者、依一心法[14]、有二種門、云何為二、
- 正義を顕示すれば、一心の法に依って二種の門あり。云何が二となすや。
一者心真如門、二者心生滅門。是二種門皆各総摂一切法。
此義云何。以是二門不相離故。
- 一には心の真如の門、二には心の生滅の門なり。是の二種の門は、皆
各 一切法を総摂す。此の義は云何ん。是の二の門は相い離れざるを以っての故なり。
衆生心の真如の門
心真如者、即是一法界、大総相、法門体。
- 心の真如とは即ち是れ一の法界にして、大総相、法門の体なり。
所謂心性不生不滅。一切諸法唯依妄念而有差別、若離妄[心]念則無一切境界之相。
所謂 、心性は不生不滅なり。一切の諸法は唯だ妄念に依ってのみ差別あり、もし心念を離れれば、即ち一切の境界の相なし。
是故一切法、従本已来、離言説相、離名字相、離心縁相[15]、畢竟平等、無有変異 [16]、不可破壊、唯是一心。故名真如。
- 是の故に、一切の法は
本 より已来 、言説 の相を離れ、名字 の相を離れ、心縁 の相を離れ、畢竟平等にして、変異あることなく、破壊すべからず、唯だ是れ一心なり。故に真如と名づく。
以一切言説仮名[17]無実、但随妄念不可得故、言真如者亦無有相。謂言説之極因言遣言。
- 一切の言説は
仮名 にして実なく、但だ妄念に随うのみにして、不可得なるを以つての故に、真如と言うも亦た相あることなし。謂わく、言説の極みは言に因つて言を遣 るなり[18]。
此真如体、無有可遣。以一切法悉皆真[19]故。
- 此の真如の体は、遣るべきものあることなし。一切の法は悉く皆真なるを以っての故なり。
亦無可立、以一切法皆同如故。当知、一切法不可説不可念故、名為真如。
- 亦た立つべきものなし、一切の法は皆同じく如なるを以っての故なり。当に知るべし、一切の法は説くべからず、念ずべからざるが故に、名づけて真如となす。
問曰、若如是義者、諸衆生等云何随順、而能得入。
- 問うて曰く、もし是の如きの義ならば、諸の衆生等は云何んが随順し、しかも能く入るを得るや。
答曰、若知一切法雖説無有能説可説、雖念亦無能念可念、是名随順、若離於念名為得入。
- 答えて曰く、もし一切法は説くと雖も能説と可説とあることなく、念ずと雖も亦た能念と可念となしと知らば、是れを随順と名づけ、もし念を離れれば、名づけて入ることを得たりとなす。[20]
復次真如者、依言説分別、有二種義。云何為二。
- 復た次に、真如は、言説に依って分別すれば二種の義あり。云何が二と為すや。
一者如実空、以能究竟顕実故。二者如実不空、以有自体具足無漏性功徳故。
- 一には如実空、
能 く究竟して実を顕わすを以っての故なり。二には如実不空、自の体に無漏の性功徳を具足することあるを以っての故なり。
所言空者、従本已来、一切染法不相応故。謂、離一切法差別之相、以無虚妄心念故。
所言 空とは、本 より已来 、一切の染法と相応せざるが故に、謂わく、一切の法の差別の相を離れたれば、虚妄の心念 無きを以っての故なり。
当知真如自性非有相、非無相、非非有相、非非無相、非有無倶相、非一相、非異相、非非一相、非非異相、非一異倶相、乃至総説、依一切衆生以有妄心、念念分別皆不相応故、説為空。若離妄心実無可空故。
- 当に知るべし、真如の自性は有相にもあらず、無相にもあらず、非有相にもあらず、非無相にもあらず、有無倶相にもあらず、一相にもあらず、異相にもあらず、非一相にもあらず、非異相にもあらず、一異倶相にもあらず、乃至、総説せば、一切の衆生は妄心あるを以って念々に分別して皆相応せざるに依るが故に、説いて空となす。もし妄心を離れれば、実には空ずべきものなきが故なり。
所言不空者、已顕法体空無妄故、即是真心、常恒不変浄法満足故名不空、亦無有相可取。
所言 不空とは、已 に法の体は空にして妄なきを顕わすが故に、即ち是れ真心にして常恒・不変の浄法を満足するが故に不空と名づくも、亦た相の取べきものあることなし。
以離念境界唯証相応故。
- 離念の境界は唯だ証とのみ相応するを以っての故なり。
衆生心の生滅の門
心生滅者、依如来蔵故有生滅心。所謂、不生不滅与生滅和合非一非異、名為阿梨耶識[21]。
- 心の生滅とは、如来の蔵に依るが故に生滅の心あり。所謂、不生不滅と生滅と和合して一にあらず異にあらざるを、名づけて
阿梨 耶識 となす。
此識有二種義、能摂一切法生一切法。云何為二、一者覚義、二者不覚義。
- 此の識に二種の義の有り、能く一切の法を摂し、一切の法を生ず。云何んが二となすや。一には覚の義、二には不覚の義なり。
覚──本覚と始覚
所言覚義者、謂心体離念。離念相者等虚空界、無所不遍、法界一相。即是如来平等法身、依此法身説名本覚[22]。
所言 覚の義とは、心の体が念を離れるをいう。念を離れる相は虚空界の遍ぜざる所なきに等しく、法界と一の相なり。即ち是れ如来の平等の法身なり。此の法身に依って説いて本覚 と名づく。
何以故、本覚義者対始覚[23]義説、以始覚者即同本覚。
- 何を以っての故に、本覚の義は
始覚 の義に対して説き、始覚は即ち本覚に同ずるを以ってなり。
始覚義者、依本覚故而有不覚、依不覚故説有始覚。又、以覚心源故名究竟覚、不覚心源故非究竟覚。
- 始覚の義とは、本覚に依るが故に不覚あり、不覚に依るが故に、始覚ありと説く。又、心原を覚するを以っての故に究竟覚と名づけ、心原を覚せざるが故に、究竟覚にはあらず。[24]
此義云何[25]、如凡夫人覚知前念起悪故[26]、能止後念令其不起、雖復名覚、即是不覚故。
- 此の義は云何ん。凡夫人の如きは前念の起悪を覚知するが故に、能く後念を止め其れをして起こさざらしむれば、復た覚と名づくと雖も、即ち其れ不覚なり。
如二乗[27]観智初発意菩薩[28]等、覚於念異。念無異相、以捨麁分別執著相故、名相似覚[29]。
- 二乗の智観と初発意の菩薩等の如きは、念の異を覚して、念に異相なく、
麁 [30]の分別に執着する相を捨てるを以っての故に、相似覚 と名づく。
如法身菩薩[31]等 覚於念住、念無住相、以離分別麁念相故、名随分覚[32]。
- 法身の菩薩等の如きは念の住を覚して、念に住相なく、分別の麁の念を相離れるを以っての故に、
随分覚 と名づく。
如菩薩地尽[33]、満足方便、一念相応、覚心初起、心無初相、以遠離微細念故、得見心性、心即常住、名究竟覚。
- 菩薩地が尽きたるが如きは方便を満足し、一念に相応して、心の初起を覚し、心に初相なく、微細の念を遠離するを以っての故に、心性を見るを得て、心即ち常住なれば
究竟覚 と名づく。
是故修多羅説[34]、若有衆生能観無念者、則為向仏智故。
- 是の故に修多羅に「もし衆生ありて能く無念を観ずる者は則ち仏智に向かうとなす」と説くが故なり。
又心起者、無有初相可知、而言知初相者、即謂無念。
- 又、心が起こるとは、初相の知るべきものあることなきに、しかも初相を知ると言うは、即ち、無念をいう。
是故、一切衆生不名為覚。以従本来念念相続、未曽離念故、説無始無明[35]。
- 是の故に、一切の衆生を名づけて覚となさず、本より
来 念々に相続して、未だ曾 て念を離れざるを以っての故に、無始の無明と説く。
若得無念者、則知心相生住異滅[36]、以無念等故。而実無有始覚之異。
以四相倶時而有、皆無自立、本来平等、同一覚[37]故。
- もし無念を得れば、則ち心相の生・住・異・滅を知る、無念と等しを以っての故なり。しかも実には始覚の異あることなし。四相は
倶時 にしてあり、皆自立することなく、本来平等にして、同一覚なるを以っての故なり。
復次本覚随染分別[38]、生二種相。与彼本覚不相捨離。云何為二。一者智浄相、二者不思議業相。
- 復た次に本覚が染に随うを分別すれば、二種の相を生ず。彼の本覚と相い捨離せず。云何んが二と為すや。一には智浄相、二には不思議業相なり。
智浄相者、謂依法力熏習[39]、如実修行、満足方便故、破和合識相、滅相続心相、顕現法身智淳(清)浄故。
- 智浄相とは、謂わく、法力の
熏習 に依って如実に修行し、方便を満足するが故に、和合識の相を破し、相続の心の相を滅して、法身の智の清浄なるを顕現するなり。
此義云何。以一切心識之相皆是無明、無明之相不離覚性、非可壊、非不可壊。
- 此の義は云何。一切の心識の相は皆是れ無明にして、無明の相は覚性を離れざるを以って、壊すべきに非ず、壊すべからざるにあらず。
如大海水因風波動[40]、水相風相不相捨離、而水非動性、若風止滅、動相則滅、湿性不壊(故)。
- 大海の水が風に因って波動するとき、水相と風相とは相い捨離せざるも、しかも水は動相にあらざれば、もし風が止滅するときは、動相は則ち滅するも、湿性は壊せざるが如し。
如是、衆生自性清浄心、因無明風動、心与無明倶無形相、不相捨離、而心非動性、若無明滅、相続則滅、智性不壊故。
- 是の如く、衆生の自性清浄心も無明の風に因って動ずるとき、心と無明とは倶に形相のなく、相い捨離せざるも、しかも心は動相にあらざれば、もし無明が滅すれば、相続は則ち滅するも、智性は壊せざるが故なり。
不思議業相者、以依智浄、能作一切勝妙境界[41]。所謂、無量功徳之相常無断絶、随衆生根自然相応、種種而見[現]得利益故。
- 不思議業相とは、智の浄に依って、能く一切の勝妙の境界を作すを以ってなり。所謂、無量の功徳の相は常に断絶することなく、衆生の根に随って自然に相応し、種々にして現じて利益を得しむるが故なり。
復次覚体相者、有四種大義[42]、与虚空等、猶如浄鏡[43]。云何為四。
- 復た次に覚の体・相は、四種の大の義有り。虚空と等しくして、なお浄鏡の如し。云何んが四と為すや。
一者如実空鏡[44]。遠離一切心境界相、無法可現、非覚照義故。
- 一には如実空鏡。一切の心と境界の相を遠離して、法の現ずべきものなく、覚照の義にはあらざるなり。
二者因熏習鏡[45]、謂如実不空、一切世間境界悉於中現、不出不入、不失不壊、常住一心、以一切法即真実性故。又一切染法所不能染、智体不動、具足無漏、熏衆生故。
- 二には因熏習鏡。謂わく、如実不空にして、一切の世間の境界は悉く中に於いて現じ、出でず入らず、失せず壊せずして、常住の一心なり、一切の法は即ち真実性なるを以っての故なり。又、一切の染法の染する能わざる所にして、智体は動ぜずして無漏を具足し、衆生に熏ずるが故なり。
三者法出離鏡。謂、不空法、出煩悩礙智礙、離和合相、淳(清)浄明故。
- 三には法出離鏡。謂わく、不空の法は煩悩礙と智礙を出て、和合の相を離れ、清浄の明なるが故なり。
四者縁熏習鏡。謂、依法出離故、遍照衆生之心、令修善根。随念示現故。
- 四には縁熏習鏡。謂わく、法出離に依るが故に、遍ねく衆生の心を照らして、善根を修せしめ、念に随って示現するが故なり。
不覚──三種相
所言不覚義者、謂不如実知真如法一故、不覚心起而有其念、念無自相、不離本覚、猶如迷人依方故迷[46]、若離於方則無有迷。衆生亦爾。依覚故迷、若離覚性、則無不覚。以有不覚妄想心故、能知名義、為説真覚、若離不覚之心、則無真覚自相可説。
所言 不覚の義とは、謂わく、如実に真如の法は一なるを知らざるが故に、不覚の心が起こって其の念があるも、念に自相なく、本覚を離れざるなり。なお迷う人は方に依るが故に迷うも、もし方を離れれば即ち迷うことあることなきが如し。衆生も亦た爾り、覚に依るが故に迷うも、もし覚性を離れれば、即ち不覚なし。不覚の妄想の心あるを以っての故に、能く名と義を知って、ために真覚と説くも、もし不覚の心を離れれば、即ち真覚の説くべきものなし。
復次、依不覚故、生三種相[47]、与彼不覚相応不離。云何為三。
- 複た次に、不覚に依るが故に、三種の相を生じ、彼の不覚と相応して離れず。云何んが三と為すや。
一者無明業相、以依不覚故心動、説名為業。覚則不動、動則有苦。果不離因故。
- 一には
無明業相 、不覚に依るを以っての故に心が動ずるを、説いて名づけて業となす。覚するときは則ち動ぜず、動ずるときは則ち苦あり。果は因を離れざるが故なり。
二者能見相。以依動故、能見。不動則無見。
- 二には
能見相 、動ずるに依るを以っての故に、能見あり。動ぜざれば則ち見なし。
三者境界相。以依能見故、境界妄現。離見則無境界。
- 三には
境界相 、能見に依るを以っての故に、境界は妄りに現ず。見を離れれば則ち境界なし。
以有境界縁故、復生六種相。云何為六。
- 境界の縁あるを以っての故に、複た六種の相を生ず。云何んが六となすや。
一者智相[48]。依於境界心起、分別愛与不愛故。
- 一には智相。境界に依って心が起こり、愛と不愛とを分別するが故なり。
二者相続相。依於智故、生其苦楽覚、心起念相応不断故。
- 二には相続相。智に依るが故に、其の苦楽を覚する心を生じ、念を起こして相応し断ぜざるが故なり。
三者執取相。依於相続、縁念境界、住持苦楽、心起著故。
- 三には執取相。相続に依って、境界を縁念し、苦楽を住持して、心に著を起こすが故なり。
四者計名字相。依於妄執、分別仮名言相故。
- 四には計名字相。妄執に依って、仮の名言の相を分別するが故なり。
五者起業相。依於名字、尋名取著、造種種業故。
- 五には起業相。名字に依って、名を尋ねて取著し、種々の業を造るが故なり。
六者業繋苦相。以依業受果、不自在故。
- 六には業繋苦相。業に依って果を受け、自在ならざるを以っての故なり。
当知、無明能生一切染法、以一切染法皆是不覚相故。
- 当に知るべし、無明は能く一切の染法を生ず。一切の染法は皆是れ不覚の相なるを以っての故なり。
覚と不覚の同相と異相
復次、覚与不覚、有二種相、云何為二、一者同相、二者異相。
- 復た次に、覚と不覚に二種の相あり。云何が二となすや。一には同相、二には異相なり。
(言)同相者、譬如種種瓦器皆同微塵性相、如是、無漏無明種種業幻[49]、皆同真如性相。
是故、修多羅中、依於此[真如]義故説、一切衆生本来常、住入於涅槃。
菩提之法、非可修相、非可作相、畢竟無得。亦無色相可見、而有見色相者、唯是随染業幻所作。非是智色不空之性。以智相無可見故。
- 同相と言うは、譬えば種種なる瓦器が皆同じく徴塵の性と相なるが如く、是の如く、無漏と無明の種種の業幻は、皆同じく真如の性と相なり。
- 是の故に、修多羅の中に、此の義に依って、「一切の衆生は本来常住にして、涅槃に入れり。菩提の法は修すべき相にあらず、作すべき相にあらず、畢竟して無得なり」と説く。亦た色相の見るべきものなきも、しかも色相を見ることあるは、唯だ是れ随染の業幻の所作のみにして、是れ智に色不空の性あるにあらず。智相は見るべきものなきを以っての故なり。
(言)異相者、如種種瓦器各各不同、如是、無漏無明随染幻差別、性染幻差別故。
- 異相と言うは、種種なる瓦器が各各同じからざるが如く、是の如く、無漏と無明に随染の幻の差別と性染の幻の差別あるが故なり。
復次、生滅因縁者、所謂衆生。依心意意識[50]転故。此義云何。以依阿梨耶識、説有無明、不覚而起、能見、能現、能取境界、起念相続、故説為意。
此意復有五種名。云何為五。
- 復た次に、生滅の因縁とは、所謂衆生が、心に依って意と意識を転ずるが故なり。此の義は云何ん。阿梨耶識に依って無明ありと説くを以って、不覚にして起こり、能く見、能く現じ、能く境界を取り、念を起こして相続するが故に、説いて意となす。
- 此の意に復た五種の名あり。示何んが五となすや。
一者名為業識。謂無明力不覚心動故。
- 一には名づけて
業識 となす。謂わく、無明の力にて不覚の心が動ずる故なり。
二者名為転識、依於動心、能見相故。
- 二には名づけて転識となす。動心に依って能見の相あるが故なり。
三者名為現識、所謂、能現一切境界。猶如明鏡現於色像、現識亦爾、随其五塵[51]対至、即現無有前後。以一切時任運而起、常在前故。
- 三には名づけて現識となす。所謂、能く一切の境界を現ずるなり。なお明鏡の色像を現ずるが如く、現識も亦た爾り、其の五塵に随って対至すれば、即ち現じ、前後あることなし。一切の時に任運にして起こり、常に前に在るを以っての故なり。
四者名為智識。謂分別染浄法故。
- 四には名づけて智識となす。謂わく、染浄の法を分別するが故なり。
五者名為相続識。以念相応不断故。住持過去無量世等善悪之業、令不失故、復能成熟現在未来苦楽等報、無差違故、能令現在已経之事忽然而念、未来之事不覚妄慮。
- 五には名づけて相続識となす。念が相応して断ぜざるを以っての故なり。過去の無量世等の善悪の業を住持して、失わざらしむるが故に、復た能く現在と未来の苦楽等の報を成熟して、差違することなきが故に、能く現在已経の事を忽然として念じ、未来の事を覚えず妄慮せしむ。
是故、三界虚偽、唯心所作[52]、離心則無六塵[53]境界。此義云何。以一切法皆従心起、妄念而生、一切分別即分別自心。心不見心、無相可得。当知、世間一切境界、皆依衆生無明妄心、而得住持。是故、一切法、如鏡中像無体可得、唯心虚妄。以心生則種種法生、心滅則種種法滅故。
- 是の故に、三界は虚偽にして、唯だ心の所作なるのみ、心を離れれば則ち六塵の境界なし。此の義は云何ん。一切の法は皆心より起こり、妄念にして生ずるを以って、一切の分別は即ち自心を分別するなり。心が心を見ざれば、相の得べきものなし。当に知るべし、世間の一切の境界は皆衆生の無明・妄心に依って住持することを得る、と。是の故に、一切の法は、鏡の中の像の体の得べきものなきが如く、唯だ心のみにして虚妄なり。心が生ずれば則ち種種の法が生じ、心が滅すれば則ち種種の法が滅するを以っての故なり。
復次、言意識者、即此相続識。依諸凡夫取著転深、計我我所[54]、種種妄執、随事攀縁[55]、分別六塵、名為意識。亦名分離識[56]、又復説名分別事識[57]。此識依見愛煩悩[58]増長義故。
- 復た次に、意識と言うは、即ち此の相続識なり。諸の凡夫は取著
転 た深くして、我と我所とを計し、種種に妄執し、事に随って攀縁 し、六塵を分別するに依って、名づけて意識となす。亦た分離識と名づけ、又復た説いて分別事識と名づく。此の識は見と愛の煩悩に依って増長する義なるが故なり。
依無明熏習所起識者、非凡夫能知、亦非二乗智慧所覚。謂、依菩薩、従初正信発心観察、若証法身、得少分知、乃至、菩薩究竟地不能知尽、唯仏窮了。何以故、是心従本已来、自性清浄、而有無明、為無明所染、有其染心、雖有染心、而常恒不変、是故、此義唯仏能知。
- 無明の熏習に依って起こす所の識は、凡夫の能く知るところにあらず、亦た二乗の智慧の覚する所にもあらず。謂わく、菩薩に依るも、初めの正信より発心し観察して、もし法身を証すれば、少分を知ることを得、乃至、菩薩の究竟地にも知り尽くすこと能わず、唯だ仏のみ窮了す。何を以っての故に、是の心は本より已来、自性清浄なるにしかも無明あり、無明のために染せられて其の染心あり、染心ありと難もしかも常恒に不変なり。是の故に、此の義は唯だ仏のみ能く知るなり。
所謂心性常無念故、名為不変[59]。以不達一法界故[60]、心不相応、忽然念起[61]、名為無明。
染心者有六種。云何為六。
- 所謂心性は常に無念なるが故に、名づけて不変となす。一の法界に達せざるを以っての故に、心は相応せず、
忽然 として念が起こるを、名づけて無明となす。 - 染心は六種あり。云何んが六となすや。
- 一には執相応染。二乗の解脱と及び信相応地に依って遠離するが故なり。
二者不断相応染。依信相応地修学方便、漸漸能捨、得浄心地、究竟離故。
- 二には不断相応染。信相応地に方便を修学するに依って漸漸に能く捨て、浄心地を得て究竟して離れるが故なり。
三者分別智相応染。依具戒地漸離、乃至、無相方便地究竟離故。
- 三には分別智相応染。具戒地に依って漸に離れ、乃至、無相方便地にて究竟して離れるが故なり。
四者現色不相応染[64]。依色自在地能離故。
- 四には現色不相応染。色自在地に依って能く離れるが故なり。
五者能見心不相応染。依心自在地能離故。
- 五には能見心不相応染。心自在地に依って能く離れるが故なり。
六者根本業不相応染。依菩薩尽地得入如来地能離故。
- 六には根本業不相応染。菩薩尽地より如来地に入るを得るに依って能く離れるが故なり。
不了一法界義[65]者、従信相応地観察学断、入浄心地、随分得離、乃至、如来地能究竟離故。
- 一の法界を了せずという義は、信相応地より観察し学断して、浄心地に入り、分に随って離れることを得、乃至、如来地に能く究寛して離れるが故なり。
言相応義者、謂心念法異[66]。依染浄差別、而知相縁相同故。
- 相応と言う義は、心の念と法が異なるを謂う。染と浄が差別するも、しかも知相と縁相と同じきに依るが故なり。
不相応義者、謂即心不覚。常無別異、不同知相縁相故。
- 不相応の義は、心に即する不覚を謂う。常に別異なく、知相と縁相と同じくせざるが故なり。
又、染心義者、名為煩悩礙、能障真如根本智故。
- 又、染心の義は、名づけて煩悩礙となす。能く真如の根本の智を障うるが故なり。
無明義者、名為智礙、能障世間自然業智[67]故。此義云何、以依染心能見能現、妄取境界、違平等性故。以一切法常静、無有起相、無明不覚、妄与法違故、不能得随順世間一切境界種種智故。
- 無明の義は名づけて智礙となす。能く世間の自然業智を障うるが故なり。此の義は云何ん。染心に依って能見と能現とあり、妄りに境界を取り、平等の性に違するを以っての故なり。一切の法は常に静にして起こる相あることなきに、無明・不覚が妄りに法と違するを以っての故に、世間の一切の境界に随順して種種に知るを得ること能わざるが故なり。
復次、分別生滅相者、有二種。云何為二。
- 復た次に、生滅の相を分別すれば二種あり。云何んが二となすや。
一者麁、与心相応故。
- 一には麁。心と相応するが故なり。
二者細、与心不相応故。
- 二には細。心と相応せざるが故なり。
又、麁中之麁凡夫境界、麁中之細及細中之麁菩薩境界、細中之細是仏境界[68]。
- 又、麁中の麁は凡夫の境界、麁中の細と及び細中の麁は菩薩の境界、細中の細は是れ仏の境界なり。
此二種生滅、依於無明熏習而有。所謂、依因依縁。
依因者、不覚義故。依縁者、妄作境界義故。若因滅則縁滅。因滅故不相応心滅、縁滅故相応心滅。
- 此の二種の生滅は、無明の熏習に依ってあり。所謂、因に依ると、縁に依るとなり。因に依るとは、不覚の義なるが故なり。縁に依るとは、妄りに境界を作る義なるが故なり。もし因が滅すれば則ち縁は滅す。因が滅する故に不相応の心が滅し、縁が滅する故に相応の心が滅す。
問曰、若心滅者云何相続。若相続者、云何説究竟滅。
- 問うて曰わく、もし心が滅すれば、云何んが相続せん。もし相続すれば、云何んが究竟して滅すと説くや。
答曰、所言滅者、唯心相滅、非心体滅。如風依水而有動相[69]、若水滅者、則風相断絶無所依止、以水不滅風相相続、唯風滅故動相随滅非是水滅・無明亦爾、依心体而動、若心体滅、則衆生断絶無所依止、以体不滅、心得相続。唯痴滅故。心相随滅。非心智滅。
- 答えて曰わく、
所言 滅とは、唯だ心相のみの滅にして、心体の滅にはあらず。風は水に依って動相あるも、もし水が滅すれば、則ち風の相は断絶して依止する所なし、水が滅せざるを以って風の相が相続し、唯だ風が滅する故に動相は随って滅するも、是れ水が滅するにはあらざるが如し。無明も亦た爾り、心体に依って動ずるも、もし心体が滅すれば、則ち衆生は断絶して依止する所なし、体は滅せざるを以って、心は相続することを得。唯だ癡のみが滅する故に、心相は随って滅するも、心智は滅するにあらざるなり。
復次、有四種法熏習義[70]故、染法浄法起不断絶。云何為四。
- 復た次に、四種の法の熏習の義あるが故に、染法と浄法が起こり断絶せざるなり。云何んが四となすや。
一者浄法、名為真如。
- 一には浄法にして、名づけて真如となす。
二者一切染因、名為無明。
- 二には一切の染因にして、名づけて無明となす。
三者妄心、名為業識。
- 三には妄心にして、名づけて業識となす。
四者妄境界、所謂六塵。
- 四には妄境界にして、所謂六塵なり。
熏習義者、如世間衣服実無於香、若人以香而熏習故、則有香気、此亦如是。真如浄法実無於染、但以無明而熏習故、則有染相。無明染法実無浄業、但以真如而熏習故、則有浄用。
- 熏習の義は、世間の衣服は実は香りなきも、もし人が香を以って熏習する故に、則ち香気あるが如く、此れも亦た是の如し。真如の浄法は実は染なきも、但だ無明を以って熏習する故に、則ち染相あり。無明の染法は実は浄業なきも、但だ真如を以って熏習する故に、則ち浄用あり。
云何熏習起染法不断。所謂、以依真如法故、有於無明。以有無明染法因故、即熏習真如、以熏習故、則有妄心。以有妄心、即熏習無明、不了真如法故、不覚念起、現妄境界。
以有妄境界染法縁故、即熏習妄心、令其念著、造種種業、受於一切身心等苦。
- 云何んが熏習して染法を起こして断ぜざるや。所謂、真如の法に依るを以っての故に無明あり。無明の染法の因あるを以っての故に、即ち真如に熏習し、熏習するを以っての故に、則ち妄心あり。妄心あるを以って、即ち無明に熏習し、真如の法を了せざるが故に、不覚の念が起こり、妄境界を現ず。妄境界の染法の縁あるを以っての故に、即ち妄心に熏習し、其の念をして著せしめ、種種の業を造り、一切の身心等の苦を受けしむるなり。
此妄境界熏習義則有二種。云何為二。一者増長念熏習、二者増長取熏習。
- 此の妄境界の熏習の義は則ち二種あり。云何んが二となすや。一には増長念熏習、二には増長取熏習なり。
妄心熏習義則有二種。云何為二。一者業識根本熏習。能受阿羅漢辟支仏一切菩薩生滅苦故。二者増長分別事識熏習。能受凡夫業繋苦故。
- 妄心の熏習の義にも則ち二種あり。云何んが二となすや。一には業識根本熏習。能く阿羅漢・辟支仏一切の菩薩に生滅の苦を受けしむるが故なり。二には増長分別事識熏習。能く凡夫に業繋の苦を受けしむるが故なり。
無明熏習義有二種。云何為二。一者根本熏習、以能成就業識義故。二者所起見愛熏習、以能成
就分別事識義故。
- 無明の熏習の義にも二種あり。云何んが二となすや。一には根本熏習。能く業識を成就する義なるを以っての故なり。二には所起見愛熏習。能く分別事識を成就する義なるを以っての故なり。
云何熏習起浄法不断。所謂、以有真如法故、能熏習無明、以熏習因縁力故、則令妄心厭生死苦楽求涅槃[71]。以此妄心有厭求因縁故、即熏習真如。自信己性、知心妄動無前境界、修遠離法、以如実知無前境界故、種種方便起随順行、不取不念、乃至。久遠熏習力故、無明則滅。以無明滅故、心無有起。以無起故、境界随滅。以因縁倶滅故、心相皆尽、名得涅槃成自然業[72]。
- 云何んが熏習が浄法を起こして断ぜざるや。所謂、真如の法あるを以っての故に、能く無明に熏習し、熏習の因と縁の力を以っての故に、則ち妄心をして生死の苦を厭い涅槃を楽求せしむ。此の妄心に厭・求の因縁あるを以っての故に、即ち真如に熏習す。自から己れの性を信じ、心が妄りに動ずるも前の境界はなしと知って遠離の法を修すれば、如実に前の境界はなしと知るを以っての故に、種種に方便し随順の行を起こし、取らず念ぜず、乃至、久遠に熏習する力の故に、無明は則ち滅す。無明が滅するを以っての故に、心は起こることあることなし。起こることなきを以っての故に、境界は随って滅す。因と縁と倶に滅するを以っての故に、心の相が皆尽きれば、涅槃を得て自然の業を成ずと名づく。
妄心熏習義有二種。云何為二。
- 妄心の熏習の義に二種あり。云何んが二となすや。
一者分別事識熏習。依諸凡夫二乗人等、厭生死苦、随力所能、以漸趣向無上道故。
- 一には分別事識の熏習なり。諸の凡夫と二乗人等が生死の苦を厭うに依って、力の能う所に随って、漸に無上道に趣向するを以っての故なり。
二者意熏習、謂諸菩薩発心勇猛、速趣涅槃故。
- 二には意の熏習なり。謂わく、諸の菩薩が発心勇猛にして、速やかに涅槃に趣くが故なり。
真如熏習義有二種。云何為二。一者自体相熏習、二者用熏習。
自体相熏習者、従無始世来具無漏法、備有不思議業、作境界之性。依此二義恒常熏習、以有力故、能令衆生厭生死苦楽求涅槃、自信己身有真如法、発心修行。
- 自の体・相の熏習とは、無始の世より、
来 無漏の法を具すと、備 さに不思議の業あって境界の性と作るとなり。此の二義に依って恒常に熏習し、力あるを以っての故に、能く衆生をして生死の苦を厭い、涅槃を楽求し、自から己身に真如の法ありと信じて、発心し修行せしむるをいう。
問曰、若如是義者、一切衆生悉有真如[73]、等皆熏習、云何有信無信、無量前後差別、皆応一時自知有真如法、勤修方便、等入涅槃。
- 問うて曰わく、もし是の如きの義ならば、一切の衆生は悉く真如あって等しく皆熏習せんに、云何んぞ、有信と無信と無量に前後に差別するや、皆応に一時に自から真如の法ありと知って、勤修し方便して、等しく涅槃に入るべけんや。
答曰、真如本一、而有無量無辺無明、従本已来自性差別、厚薄不同故、過恒沙等上煩悩[74]依無明起差別、我見愛染煩悩[75]依無明起差別。如是、一切煩悩依於無明所起、前後無量差別、唯如来能知故。
- 答えて曰わく、真如は本より一なれども、しかも無量無辺の無明あって、本より已来、自性差別し、厚薄も同じからざるが故に、過恒沙等の上煩悩が無明に依って差別を起こし、我見と愛染の煩悩が無明に依って差別を起こす。是の如く、一切の煩悩が無明に依って起こされ、前後に無量に差別するを、唯だ如来のみ能く知るが故なり。
又、諸仏法有因有縁、因縁具足乃得成辦、如木中火性是火正因、若無人知、不仮方便、能自焼木、無有是処。衆生亦爾、雖有正因熏習之力、若不値遇諸仏菩薩善知識等以之為縁、能自断煩悩入涅槃者、則無是処。若雖有外縁之力、而内浄法未有熏習力者、亦不能究竟厭生死苦楽求涅槃。若因縁具足者、所謂、自有熏習之力、又為諸仏菩薩等慈悲願護故、能起厭苦[求][76]之心、信有涅槃、修習善根、以修善根成熟故、則値諸仏菩薩示教利喜、乃能進趣向涅槃道。
- 又、諸仏の法には因もあり縁もあれば、因と縁を具足すれば乃ち成辦することを得る。木中の火性は是れ火の正因なるも、もし人が知ることなくして、方便を仮らざれば能く自から木を焼くことは、是の
処 あることなきが如し。衆生も亦た爾り、正因の熏習の力ありと難も、もし諸仏・菩薩・善知識等に値遇し、之れを以って縁となさざれば、能く自ら煩悩を断じて涅槃に入ることは、則ち是の処あることなし。もし外縁の力ありと難も、しかも内の浄法に未だ熏習の力あらざれば、亦た究竟して生死の苦を厭い涅槃を楽求すること能わず。もし因と縁を具足すれば、所謂、自からに熏習の力あり、又諸仏と菩薩等の慈悲のために願い護られるが故に、能く厭い求める心を起こし、涅槃があることを信じて、善根を修習し、善根を修することが成熟するを以っての故に、則ち諸の仏と菩薩の示教利喜に値い、乃ち能く進趣して、涅槃の道に向かう。
用熏習者、即是衆生外縁之力。如是外縁有無量義、略説二種。云何為二。一者差別縁、二者平等縁。
- 用の熏習は、即ち是れ衆生の外縁の力なり。是の如き外縁には無量の義あるも、略説すれば二種なり。云何んが二となすや。一には差別の縁、二には平等の縁なり。
差別縁者、此人依於諸仏菩薩等、従初発意始求道時、乃至得仏、於中若見若念、或為眷属[77]父母諸親、或為給使、或為知友、或為怨家、或起四摂[78]、乃至、一切所作無量行縁、以起大悲熏習之力、能令衆生増長善根、若見若聞、得利益故。
- 差別の縁とは、此の人が諸の仏と菩薩等に於いて、初発意に始めて道を求める時より、乃至、仏を得るまで、中に於いてもしくは見、もしくは念ずるに依って、或いは眷属や父母や諸親となり、或いは給使となり、或いは知友となり、或いは怨家となり、或いは四摂を起こし、乃至、一切の所作と無量の行縁が、大悲の熏習の力を起こすを以って、能く衆生をして善根を増長し、もしくは見、もしくは聞いて、利益を得しむるが故なり。
此縁有二種。云何為二。一者近縁、速得度故。二者遠縁、久遠得度故。是近遠二縁分別、復有二種。云何為二。一者増長行縁、二者受道縁。
- 此の縁に二種あり。云何んが二となすや。一には近縁。速やかに度を得るが故なり。二には遠縁。久遠に度を得るが故なり。是の近と遠の二縁を分別すれば、復た二種あり。云何んが二となすや。一には増長行の縁、二には受道の縁なり。
平等縁者、一切諸仏菩薩、皆願度脱一切衆生、自然熏習恒常不捨、以同体智力[79]故、随応見聞、而現作業。所謂、衆生依於三昧、乃得平等見諸仏[80]故。
此体用熏習分別、復有二種。云何為二。
- 平等の縁とは、一切の諸仏と菩薩は皆一切の衆生を度脱することを願い、自然に熏習して恒常に捨てず、同体の智力を以っての故に、応に見聞すべきに随って、しかも作業を現ずるをいう。所謂、衆生は三味に依って、乃ち平等に諸仏を見ることを得るが故なり。
- 此の体と用の熏習を分別すれば、復た二種あり。云何んが二となすや。
一者未相応。謂、凡夫二乗初発意菩薩等、以意意識熏習[81]、依信力故而能修行、未得無分別心与体相応故、未得自在業修行与用相応故。
- 一には未相応なり。謂わく、凡夫と二乗と初発意の菩薩等は、意と意識と熏習を以って、信の力に依るが故にしかも能く修行するも、未だ無分別の心が体と相応することを得ざるが故なると、未だ自在業の修行が用と相応することを得ざるが故なり。
二者已相応、謂、法身菩薩、得無分別心、与諸仏智用相応、唯依法力、自然修行、熏習真如、滅無明故。
- 二には已相応なり。謂わく、法身の菩薩は、無分別の心を得て、諸仏の智の用に相応し、唯だ法の力に依るのみにして、自然に修行し、真如に熏習して、無明を滅するが故なり。
復次、染法、従無始已来、熏習不断、乃至、得仏後則有断。浄法熏習、則無有断、尽於未来。此義云何、以真如法常熏習故、妄心則滅、法身顕現、起用熏習、故無有断。
- 復た次に、染法は、無始より已来、熏習して断ぜず、乃至、仏を得た後は則ち断ずることあり。浄法の熏習は則ち断ずることあることなく、未来を尽くす。此の義は云何ん。真如の法は常に熏習するを以っての故に、妄心は則ち滅し、法身が顕現し、用の熏習を起こすが故に、断ずることあることなし。
復次、真如自体相者、一切凡夫声聞縁覚菩薩諸仏、無有増減、非前際生、非後際滅、畢竟常恒、従本已来、性自満足一切功徳。所謂[82]、自体有大智慧光明義故、遍照法界義故、真実識知義故、自性清浄心義故、常楽我浄義[83]故、清涼不変自在義故、具足如是過於恒沙不離不断不異不思議仏法、乃至、満足無有所少義故、名為如来蔵、亦名如来法身。
- 復た次に、真如の自の体と相は、一切の凡夫・声聞・縁覚・菩薩・諸仏に、増滅あることなく、前際に生ずるにあらず、後際に滅するにあらず、畢竟して常恒なり。本より已来、性として自ら一切の功徳を満足す。所謂、自体に大智慧光明の義あるが故に、遍照法界の義の故に、真実識知の義の故に、自性清浄心の義の故に、常楽我浄の義の故に、清涼不変自在の義の故に、是の如き恒沙に過ぎたる不離・不断・不異・不思議の仏法を具足し、乃至、満足して
少 くる所あることなき義の故に、名づけて如来の蔵となし、亦た如来の法身と名づく。
問曰、上説真如其体平等離一切相、云何復説体有如是種種功徳。
- 間うて曰わく、上には真如は其の体平等にして一切の相を離ると説くに、云何んぞ復た体に是の如き種種の功徳ありと説くや。
答曰、雖実有此諸功徳義、而無差別之相、等同一味、唯一真如。此義云何。以無分別離分別相、是故無二、復以何義得説差別。以依業識生滅相示。此云何示。以一切法本来唯心実無於念、而有妄心、不覚起念、見諸境界故説無明、心性不起、即是大智慧光明義故。若心起見則有不見之相、心性離見、即是遍照法界義故。若心有動、非真識知、無有自性、非常非楽非我非浄、熱悩衰変則不自在、乃至、具有過恒沙等妄染之義。対此義故、心性無動、則有過恒沙等諸浄功徳相義示現、若心有起、更見前法可念者、則有所少、如是浄法無量功徳、即是一心、更無所念、是故満足名為法身如来之蔵。
- 答えて曰わく、実に此の諸の功徳の義ありと難も、しかも差別の相なく、等同一味にして、唯だ一の真如なり。此の義は云何ん。
- 無分別にして分別の相を離れたるを以って、是の故に無二なればなり。復た何の義を以って差別ありと説くことを得るや。業識の生滅の相に依って示すを以ってなり。此れを云何にして示すや。一切の法は本より来 唯だ心のみにして実には念なきも、しかも妄心あり、不覚にして念を起こして諸の境界を見るが故に無明と説くも、心性にして起こらざれば、即ち是れ大智慧光明の義なるを以っての故なり。もし心が見を起こせば、則ち不見の相あるも、心性は見を離れれば、即ち是れ遍照法界の義なるが故なり。もし心が動ずることあれば、真の識知にあらず、自性あることなく、常にあらず・楽にあらず・我にあらず・浄にあらず、熱悩し衰変して則ち自在ならず、乃至、具さに過恒沙等の妄染の義あり。此の義に対するが故に、心性が動かなければ則ち過恒沙等の諸の浄功徳の相の義が示現することあるも、もし心が起こることあって、更に前法の念ずべきを見るときは、則ち少くる所あればなり。是の如き浄法の無量の功徳は、即ち是れ一心にして、更に所念なし。是の故に満足するを、名づけて法身、如来の蔵となす。
復次、真如用者、所謂、諸仏如来本在因地、発大慈悲、修諸波羅蜜[84]、摂化衆生、立大誓願、尽欲度脱等衆生界、亦不限劫数尽於未来、以取一切衆生如己身故。而亦不取衆生相。此以何義、謂、如実知一切衆生及与己身真如平等無別異故、以有如是大方便智、除滅無明見本法身、自然而有不思議業種種之用、即与真如等遍一切処、又亦無有用相可得、何以故、謂、諸仏如来、唯是法身智相之身、第一義諦、無有世諦境界、離於施作、但随衆生見聞得益故説為用。
- 復た次に、真如の用とは、所謂、諸仏如来が、本と因地に在って、大慈悲を発し、諸の波羅蜜を修して、衆生を摂化し、大誓願を立て、尽く等しく衆生界を度脱せんと欲し、亦た劫数を限らず未来を尽くし、一切の衆生を取ること己身の如くなるを以っての故に、しかも亦た衆生の相をも取らず。此れ何の義を以ってなりや。謂わく、如実に一切の衆生と及び己身とは、真如において平等にして別異なしと知るが故なり。是の如き大方便智あるを以って、無明を除滅して、本の法身を
見 わし、自然にして不思議の業の種種の用あり、即ち真如と等しく一切処に遍ずるも、又亦た用の相の得べきものあることなし。何を以っての故に、謂わく、諸仏如来は唯だ是れ法身の智相の身なり。第一義諦にして、世諦の境界あることなく、施作を離れ、但だ衆生が見聞して益を得るに随うが故に説いて用となすのみ。
此用有二種。云何為二。
- 此の用に二種あり。云何んが二となすや。
一者依分別事識、凡夫二乗心所見者、名為応身、以不知転識現故、見従外来、取色分斉、不能尽知故。
- 一には分別事識に依る。凡夫と二乗の心が見る所の者にして、名づけて応身となす。転識が現ずるを知らざるを以っての故に、外より来たると見て、色の分斉を取って、尽く知ること能わさるが故なり。
二者依於業識、謂、諸菩薩、従初発意、乃至、菩薩究竟地心所見者、名為報身、身有無量色、色有無量相[85]、相有無量好。所住依果亦有無量種種荘厳、随所示現即無有辺、不可窮尽、離分斉相、随其所応常能住持、不毀不失、如是功徳、皆因諸波羅蜜等無漏行熏、及不思議熏之所成就、具足無量楽相[86]故、説為報身。
- 二には業識に依る。謂わく、
諸 の菩薩の、初発意より、乃至、菩薩の究竟地の心が見る所の者にして、名づけて報身となす。身に無量の色あり、色に無量の相あり、相に無量の好あり、住する所の依果にも亦た無量の種種の荘厳あり。示現する所に随って即ち辺あることなく、窮尽すべからず、分斉の相を離れ、其の応ずる所に随って常に能く住持し、毀せず失せず。是の如き功徳は、皆諸の波羅蜜等の無漏の行の薫と、及び不思議の熏との成就する所に因って、無量の楽相を具足するが故に、説いて報身となす。
又、為凡夫所見者、是其麁色、随於六道[87]各見不同、種種異類、非受楽相[88]。故説為応身。
- 又、凡夫が見る所となすものは、是れ其の麁色にして、六道に随って
各 見ること同じからざれば、種種の異類あり、受楽の相にあらざるが故に、説いて応身となす。
復次、初発意菩薩等所見者、以深信真如法故、少分而見、知彼色相荘厳等事、無来無去、離於分斉、唯依心現、不離真如、然此菩薩、猶自分別、以未入法身位故。若得浄心、所見微妙、其用転勝、乃至、菩薩地尽、見之究竟。若離業識、則無見相。以諸仏法身無有彼此色相迭相見故。
- 復た次に、初発意の菩薩等の見る所は、深く真如の法を信ずるを以っての故に、少分を見て彼の色相と荘厳等の事は、来もなく、去もなく、分斉を離れ、唯だ心に依ってのみ現ずるも、真如を離れずと知る。然れども此の菩薩はなお自から分別す、未だ法身の位に入らざるを以っての故なり。もし浄心を得れば、見る所は徴妙にして、其の用は転た勝り、乃至、菩薩地尽きれば、之れを見ること究竟す。もし業識を離れれば、則ち見相なし。諸仏の法身は彼此の色相を
迭 いに相い見ることあることなきを以っての故なり。
問曰、若諸仏法身離於色相者、云何能現色相。
- 間うて曰わく、もし諸仏の法身が色の相を離れれば、云何んが能く色の相を現ずるや。
答曰、即此法身、是色体故、能現於色。所謂、従本已来、色心不二。以色性即智故、色体無形、説名智身、以智性即色故、説名法身遍一切処、所現之色、無有分斉、随心能示十方世界無量菩薩、無量報身、無量荘厳、各各差別、皆無分斉、而不相妨、此非心識分別能知、以真如自在用義故。
- 答えて曰わく、即ち此の法身は、是れ色の体なるが故に、能く色を現ずるなり。所謂、本より已来、色と心とは不二にして、色の性は即ち智なるを以っての故に、色の体の形なきを、説いて智身と名づく。智の性は即ち色なるを以っての故に、説いて法身は一切処に遍ずと名づく。現ずる所の色は分斉あることなきも、心に随って能く十方世界の無量の菩薩と、無量の報身と、無量の荘厳とを示して、各各差別し、皆分斉なく、しかも相い妨げざるなり。此れは心識の分別の能く知るところにあらず、真如の自在の用の義なるを以っての故なり。
生滅門から真如門へ入る
復次、顕示従生滅門即入真如門、所謂、推求五陰[89]、色之与心、六塵境界、畢竟無念、以心無形相、十方求之、終不可得、如人迷故謂東為西、方実不転、衆生亦爾、無明迷故謂心為念[90]、心実不動、若能観察、知心無念、即得随順入真如門故。
- 復た次に、生滅門より即ち真如門に入ることを顕示せん。所謂、五陰を推求するに、色と心とのみにして、六塵の境界は畢竟して無念なり。心に形相なければ、十方に之れを求むるも、終に不可得なるを以ってなり。人が迷う故に東を謂って西となすも、方は実には転ぜさるが如し。衆生も亦た爾り、無明の迷の故に心を謂って念となすも、心は実には動ぜざるなり。もし能く観察して、心は無念なりと知れば、即ち随順して真如門に入ることを得るが故なり。
対治邪執
対治邪執者、一切邪執、皆依我見、若離於我、則無邪執、是我見有二種、云何為二。一者人我見[91]、二者法我見[92]。
- 邪執を対治するとは、一切の邪執は皆我見に依る、もし我を離れれば、則ち邪執なし。是の我見に二種あり。云何んが二となすや。一には人我見、二には法我見なり。
人我見(五種の誤解を正す)
人我見者、依諸凡夫、説有五種、云何為五。
- 人我見とは、諸の凡夫に依って説くに五種あり。云何んが五となすや。
一者、聞修多羅説、如来法身畢竟寂寞猶如虚空、以不知為破著故、即謂虚空是如来性。云何対治、明虚空相是其妄法、体無不実、以対色故有、是可見相、令心生滅、以一切色法本来是心、実無外色、若無色者、則無虚空之相、所謂、一初境界唯心、妄起故有、若心離於妄動、則一切境界滅、唯一真心、無所不遍、此謂如来広大性智究竟之義。非如虚空相故。
- 一には、修多羅に「如来の法身は畢竟して寂莫なることなお虚空の如し」と説くを聞いて、著を破せんがためなるを知らざるを以っての故に、即ち虚空は是れ如来の性なりと謂う。云何んが対治せん。虚空の相は是れ其れ妄法にして、体は無にして実ならず、色に対するを以っての故にあり、是の可見の相が心をして生滅せしむるも、一切の色法は本来是れ心なるを以って、実には外の色なし。もし色なければ、則ち虚空の相もなしと明かす。所謂、一切の境界は唯だ心が妄りに起こるが故に有なるも、もし心が妄動を離れれば、則ち一切の境界は滅す。唯だ一の真心のみにして、遍ぜざる所なし。此れを如来の広大なる性智の究竟の義と謂う。虚空の相の如きにはあらざるが故なり。
二者、聞修多羅説、世間諸法畢竟体空、乃至、涅槃真如之法亦畢竟空、従本已来、自空離一切相、以不知為破著故、即謂真如涅槃之性唯是其空、云何対治、明真如法身自体不空。
具足無量性功徳故。
- 二には、修多羅に「世間の諸法は畢竟して体は空なり、乃至、涅槃や真如の法も亦た畢竟して空なり、本より已来、自ずから空にして一切の相を離れたり」と説くを聞いて、著を破せんがためなるを知らざるを以っての故に、即ち真如や涅槃の性は唯だ是れ其れ空なりと謂う。云何んが対治せん。真如や法身の自体は不空なりと明かす。無量の性功徳を具足するが故なり。
三者、聞修多羅説、如来之蔵無有増減、体備一切功徳之法、以不解故、即謂如来之蔵有色心法自相差別、云何対治、以唯依真如義説故、因生滅染義示現説差別故。
- 三には、修多羅に「如来の蔵は増減あることなく、体に一切の功徳の法を備う」と説くを聞いて、解せざるを以っての故に、即ち如来の蔵に色心の法の自相や差別ありと謂う。云何んが対治せん。唯だ真如の義に依ってのみ説くが故なると、生滅の染の義に因って示現せるを差別と説くが故なるとを以ってす。
四者、聞修多羅説、一切世間生死染法、皆依如来蔵而有、一切諸法不離真如、以不解故、謂如来蔵自体具有一切世間生死等法、云何対治、以如来蔵、従本已来、唯有過恒沙等諸浄功徳、不離不断不異真如義故。以過恒沙等煩悩染法、唯是妄有、性自本無、従無始世来、未曽与如来蔵相応故、若如来蔵体有妄法、而使証会永息妄者、則無是処故。
- 四には、修多羅に「一切の世間の生死の染法は皆如来の蔵に依ってあり、一切の諸法は真如を離れず」と説くを聞いて、解せざるを以っての故に、如来の蔵の自体に一切の世間の生死等の法を具有すと謂う。云何んが対治せん。如来の蔵には本より已来、唯だ過恒沙等の諸の浄功徳の、真如を離れず、断ぜず、異ならざる義あるが故なるを以ってす。過恒沙等の煩悩の染法は唯だ是れ妄有にして、性は自から本より無く、無始世より来未だ曾て如来の蔵と相応せざるを以っての故なり。もし如来の蔵の体に妄法あり、しかも証会して永く妄を息めしむるは、則ち是の処あることなきが故なり。
五者、聞修多羅説、依如来蔵故有生死、依如来蔵故得涅槃、以不解故、謂衆生有始、以見始故、復謂如来所得涅槃、有其終尽、還作衆生、云何対治、以如来蔵無前際故、無明之相亦無有始、若説、三界外更有衆生始起者、即是外道経説[93]、又如来蔵無有後際、諸仏所得涅槃与之相応、則無後際故。
- 五には、修多羅に「如来の蔵に依るが故に生死あり、如来の蔵に依るが故に涅槃を得る」と説くを聞いて、解せざるを以っての故に。衆生に始ありと謂い、始を見るを以っての故に、復た如来の得し所の涅槃に其の終尽あって、還って衆生と作ると謂う。云何んが対治せん。如来の蔵には前際なきを以っての故に、無明の相も亦た始あることなし。もし「三界の外に更に衆生あって始めて起こる」と説かば即ち是れ外道の経の説なり。又、如来の蔵には後際あることなければ、諸仏の得し所の涅槃と之れと相応して、則ち後際なきが故なり。
法我見(二乗の誤解を正す)
法我見者、依二乗鈍根故、如来但為説人無我、以説不究竟、見有五陰生滅之法、怖畏生死、妄取涅槃、云何対治、以五陰法自性不生、則無有滅、本来涅槃故。
- 法我見とは、二乗の鈍根に依るが故に、如来は但だために人の無我を説くに、説を究竟せざるを以って、五陰の生滅の法ありと見て生死を怖畏し、妄に涅槃を取る。云何んが対治せん。五陰の法の性は不生なるを以って、則ち滅あることなく、本来涅槃なるが故なり。
復次、究竟離妄執者、当知染法浄法皆悉相待、無有自相可説、是故、一切法従本已来、非色非心、非智非識、非有非無、畢竟不可説相、而有言説者、当知、如来善巧方便、仮以言説引導衆生。其旨趣者、皆為離念帰於真如。以念一切法、令心生滅、不入実智故。
- 復た次に、究竟して妄執を離るとは、当に知るべし、染法と浄法とは皆悉く相待にして、自相の説くべきものあることなし。是の故に、一切の法は本より已来、色にもあらず、心にもあらず、智にもあらず、識にもあらず、有にもあらず、無にもあらず、畢竟して不可説の相なり。しかも言説あるは、当に知るべし、如来の善巧方便にして、仮りに言説を以って衆生を引導するのみ。其の旨趣は、皆念を離れて真如に帰せしめんがためなり。一切の法を念ずれば、心をして生滅せしめ、実智に入らざらしむるを以っての故なり。
分別発趣道相
分別発趣道相[94]者、謂一切諸仏所証之道、一切菩薩発心修行趣向義故、略説発心有三種。云何為三。一者信成就発心、二者解行発心、三者証発心。
- 道に発趣する相を分別すとは、謂わく、一切の諸仏の所証の道に、一切の菩薩が発心し、修行し、趣向する義なるが故なり。発心を略説すれば三種あり。云何んが三となすや。一には信成就発心、二には解行発心、三には証発心なり。
信成就発心─三心(直心・深信・大悲心)
信成就発心者[95]、依何等人、修何等行、得信成就堪能発心、所謂、依不定聚衆生[96]、有熏習善根力故、信業果報[97]、能起十善[98]、厭生死苦、欲求無上菩提、得値諸仏、親承供養、修行信心、経一万劫信心成就故、諸仏菩薩教令発心、或以大悲故能自発心、或因正法欲滅以護法因縁能自発心、如是信心成就得発心者、入正定聚畢竟不退、名住如来種[99]中正因相応。
- 信成就発心とは、何等の人に依り、何等の行を修し、信の成就するを得て能く発心するに堪うるや。所謂、不定聚の衆生に依るなり。熏習と善根の力がある故に、業の果報を信じて能く十善を起こし、生死の苦を厭うて無上の菩提を欲求し、諸仏に値うことを得て、親承し供養して、信心を修行す。一万劫を経て信心が成就するが故に、諸仏と菩薩が教えて発心せしめ、或いは大悲を以っての故に能く自から発心し、或いは正法が滅せんとするに因って護法の因縁を以って能く自から発心す。是の如く信心が成就して発心を得たる者は、正定聚に入って、畢竟して退せざるを、如来種の中に住して正因と相応すと名づく。
若有衆生、善根微少、久遠已来煩悩深厚、雖値於仏亦得供養、然起人天種子、或起二乗種子、設有求大乗者、根則不定、若進若退、或有供養諸仏、未経一万劫、於中遇縁亦有発心、所謂、見仏色相而発其心、或因供養衆僧而発其心、或因二乗之人教令発心、或学他発心、如是等発心、悉皆不定、遇悪因縁、或便退失、堕二乗地。
- もし衆生あって、善根が微少にして、久遠より已来、煩悩が深厚なれば、仏に値って亦た供養することを得ると雖も、然も人天の種子を起こし、或いは二乗の種子を起こす。設い大乗を求むる者あるも、根は則ち不定にして、もしくは進みもしくは退く。或いは諸仏を供養することあって、未だ一万劫を経ざるも、中に於いて縁に遇って亦た発心することあり。所謂、仏の色相を見て其の心を発こし、或いは衆僧を供養するに因って其の心を発こし、或いは二乗の人の教令に因って発心し、或いは他に学んで発心す。是の如き等の発心は、悉く皆不定にして、悪の因縁に遇えば、或いは便ち退失し、二乗地に堕す。
復次、信成就発心者、発何等心、略説有三種、云何為三、一者直心、正念真如法故、二者深心、楽集一切諸善行故、三者大悲心、欲抜一切衆生苦故。
- 復た次に、信成就発心とは何等の心を発こすや。略説するに三種あり。云何んが三となすや。一には直心なり。正しく真如の法を念ずるが故なり。二には深心なり。
楽 って一切の諸善の行を集めるが故なり。三には大悲心なり。一切の衆生の苦を抜かんと欲するが故なり。
問曰、上説法界一相[100]仏体無二、何故不唯念真如、復仮求学諸善之行[101]。
- 間うて日わく、上には法界は一相にして仏体は無二なりと説きたるに、何の故に唯だ真如を念ずるのみならず、復た諸善の行を求学することを仮るや。
答曰、譬如大摩尼[102]宝体性明浄、而有鉱穢之垢、若人雖念宝性、不以方便種種磨治、終無得浄。如是、衆生真如之法体性空浄、而有無量煩悩染垢、若人雖念真如、不以方便種種熏修、亦無得浄。以垢無量遍一切法故、修一切善行、以為対治。若人修行一切善法、自然帰順真如法故。
- 答えて曰わく、譬えば大摩尼宝の体性は明浄なるも、しかも鉱穢の垢あり、もし人が宝の性を念ずと雖も、方便を以って種種に磨治せざれば、終に浄なることを得ることなきが如し。是の如く、衆生の真如の法も体性は空浄なるも、しかも無量の煩悩の染垢あれば、もし人が真如を念ずと雖も、方便を以って種種に熏修せざれば、亦た浄なることを得ることなし。垢は無量にして一切の法に遍ずるを以っての故に、一切の善行を修して、以って対治をなすなり。もし人が一切の善法を修行すれは、自然に真如の法に帰順するが故なり。
略説方便[103]有四種。云何為四。
- 方便を略説すれば四種あり。云何んが四となすや。
一者行根本方便。謂、観一切法自性無生、離於妄見、不住生死、観一切法因縁和合業果不失、起於大悲、修諸福徳、摂化衆生、不住涅槃。以随順法性無住故。
- 一には行の根本の方便なり。謂わく、一切の法の自性は無生なりと観じ、妄見を離れて生死に住せず、一切の法は因縁が和合して業果は失せずと観じ、大悲を起こし、諸の福徳を修し、衆生を摂化して、涅槃に住せず。法性の無住に随順するを以っての故なり。
二者能止方便。謂、慚愧悔過[104]、能止一切悪法、不令増長。以随順法性離諸過故。
- 二には能止の方便なり。謂わく、慚愧し悔過し、能く一切の悪法を止めて、増長せしめざるなり。法性の諸過を離れるに随順するを以っての故なり。
三者発起善根増長方便。謂、勤供養礼拝三宝[105]、讃歎随喜勧請諸仏。以愛敬三宝淳厚心故、信得増長、乃能志求無上之道。又因仏法僧力所護故、能消業障、善根不退、以随順法性離痴障故。
- 三には善根を発起して増長する方便なり。謂わく、勤めて三宝を供養し、礼拝し、諸仏を讃歎し、随喜し、勧請す。三宝を愛敬する淳厚の心を以っての故に、信が増長することを得て、乃ち能く無上の道を志求す。又、仏・法・僧の力に護られるに因るが故に、能く業障を消して、善根は退せず。法性の癡障を離れるに随順するを以っての故なり。
四者大願平等方便。所謂、発願、尽於未来、化度一切衆生、使無有余、皆令究竟無余涅槃[106]。以随順法性無断絶故、法性広大遍一切衆生、平等無二、不念彼此、究竟寂滅故。
- 四には大願平等の方便なり。所謂、発願して、未来を尽くして一切の衆生を化度するに、余りあることなからしめて、皆無余涅槃を究竟せしむ。法性の断絶なきに随順するを以っての故なり。法性は広大にして一切の衆生に遍じ、平等無二にして、彼此を念ぜず、究竟して寂滅なるが故なり。
菩薩発是心故、則得少分見於法身、以見法身故、随其願力、能現八種[107]利益衆生。所謂、従兜率天[108]退、入胎、住胎、出胎、出家、成道、転法輪、入於涅槃。然是菩薩、未名法身、以其過去無量世来有漏之業未能決断。随其所生与微苦相応、亦非業繋。以有大願自在力故。如修多羅中或説、有退堕悪趣[109]者、非其実退、但為初学菩薩未入正位、而懈怠者恐怖、令使勇猛故。又是菩薩一発心後、遠離怯弱、畢竟不畏堕二乗地、若聞無量無辺阿僧祇劫[110]勤苦難行乃得涅槃、亦不怯弱、以信知一切法従本已来自涅槃故。
- 菩薩は是の心を発こすが故に、則ち少分に法身を見ることを得る。法身を見るを以っての故に、其の願力に随って、能く八種を現じて衆生を利益す。所謂、兜率天より退くと、入胎と、住胎と、出胎と、出家と、成道と、転法輪と、涅槃に入るとなり。然るに是の菩薩を、未だ法身とは名づけず。其の過去無量世より
来 の有漏の業の未だ決断すること能わざるを以ってなり。其の生ずる所に随って徴苦と相応するも、亦た業繋にはあらず。大願自在力あるを以っての故なり。修多羅の中に或いは「悪趣に退堕する者あり」と説くが如きは、其れは実に退するにはあらず、但だ初学の菩薩が未だ正位に入らず、しかも解怠する者を恐怖せしめ勇猛ならしめんがための故なり。又、是の菩薩は、一たび発心して後は、怯弱を遠離し、畢竟して二乗地に堕することも畏れず、もし無量無辺阿僧祗劫に勤苦難行して、乃ち涅槃を得んと聞くも、亦た怯弱ならず。一切の法は本より已来、自ずから涅槃なりと信知するを以っての故なり。
解行発心─六波羅蜜
解行発心者、当知、転勝、以是菩薩、従初正信已来、於第一阿僧祇劫将欲満故、於真如法中深解現前、所修離相、以知法性体無慳貪故、随順修行檀波羅蜜[111]、以知法性無染離五欲[112]過故、随順修行尸波羅蜜、以知法性無苦離瞋悩故、随順修行羼提波羅蜜、以知法性無身心相離懈怠故、随順修行毘梨耶波羅蜜、以知法性常定体無乱故、随順修行禅波羅蜜、以知法性体明離無明故、随順修行般若波羅蜜。
- 解行発心とは、当に転た勝れたりと知るべし。是の菩薩は、初めの正信より已来、第一の阿僧祇劫に於いて将に満ぜんと欲するを以っての故に、真如の法の中に於いて深解が現前し、修する所に相を離れたればなり。法性の体は慳貪なしと知るを以っての故に、随順して檀波羅蜜を修行す。法性は染なくして五欲の過を離れたりと知るを以っての故に、随順して尸波羅蜜を修行す。法性は苦なくして瞋悩を離れたりと知るを以っての故に、随順して羼提波羅蜜を修行す。法性は身心の相なくして懈怠を離れたりと知るを以っての故に、随順して毘梨耶波羅蜜を修行す。法性は常に定まり体に乱れなしと知るを以っての故に、随順して禅波羅蜜を修行す。法性の体は明にして無明を離れたりと知るを以っての故に、随順して般若波羅蜜を修行す。
証発心─繊細な三種の心(真心・方便心・業識心)
証発心者、従浄心地[113]乃至菩薩究竟地[114]、証何境界、所謂真如、以依転識説為境界、而此証者無有境界、唯真如智、名為法身。
- 証発心とは、浄心地より、乃至、菩薩究竟地なり。何れの境界を証するや。所謂真如なり。転識に依るを以って説いて境界となすも、しかも此の証には境界あることなし。唯だ真如の智のみなれば、名づけて法身となす。
是菩薩、於一念頃、能至十方無余世界、供養諸仏、請転法輪、唯為開導利益衆生、不依文字[115]、或示超地速成正覚、以為怯弱衆生故、或説我於無量阿僧祇劫当成仏道、以為懈慢[116]衆生故、能示如是無数方便不可思議、而実菩薩種性根等、発心則等、所証亦等、無有超過之法[117]、以一切菩薩皆経三阿僧祇劫故、但随衆生世界不同、所見所聞根欲性異故、示所行亦有差別。
- 是の菩薩は、一念の頃に於いて、能く十方の無余の世界に至りて、諸仏を供養し、転法輪を請するは、唯だ衆生を開導し利益せんがためのみにして、文字に依らず、或いは地を超えて速やかに正覚を成ずと示すは、怯弱の衆生のためなるを以っての故なり。或いは我れは無量阿僧祗劫に於いて当に仏道を成ずべしと説くは、懈慢の衆生のためなるを以っての故なり。能く是の如き無数の方便を示すこと不可思議なり。しかも実には菩薩の種性は根等しく、発心則ち等しく、証る所も亦た等しくして、超過の法あることなし。一切の菩薩は皆三阿僧祗劫を経るを以っての故なり。但だ衆生の世界は同じからず、見る所と聞く所と根・欲・性が異なるに随うが故に、行ずる所を示すことも亦た差別あり。
又、是菩薩発心相者、有三種心微細之相。云何為三。
一者真心。無分別故。二者方便心。自然遍行利益衆生故。三者業識心。微細起滅故。
- 又、是の菩薩の発心の相は、三種の心の微細の相あり。云何んが三となすや。一には真心。分別なきが故なり。二には方便心。自然に遍ねく衆生を利益するが故なり。三には業識心。微細に起滅するが故なり。
又、是菩薩功徳成満、於色究竟処[118]、示一切世間最高大身。謂、以一念相応慧、無明頓尽、名一切種智[119]。自然而有不思議業、能現十方利益衆生。
- 又、是の菩薩は、功徳が成満するとき、色究竟処に於いて、一切世間の最高大の身を示す。謂わく、一念相応の慧を以って、無明が頓に尽くるを一切種智と名づく。自然にして不思議の業あり、能く十方に現じて、衆生を利益す。
問曰、虚空無辺故、世界無辺。世界無辺故、衆生無辺。衆生無辺故、心行差別、亦復無辺。如是境界、不可分斉。難知難解。若無明断、無有心想、云何能了名一切種智。
- 間うて曰わく、虚空は無辺なるが故に、世界は無辺なり。世界は無辺なるが故に、衆生は無辺なり。衆生は無辺なるが故に、心行の差別も、亦た復た無辺なり。是の如く、境界は分斉すべからず、知り難く解し難し。もし無明が断ぜば、心想あることなきを、云何んが能く了するを一切種智と名つくるや。
答曰、一切境界、本来一心、離於想念。以衆生妄見境界故、心有分斉。以妄起想念不称法性故、不能決了。諸仏如来離於見想[120]、無所不遍。心真実故、即是諸法之性。
自体顕照一切妄法、有大智用、無量方便、随諸衆生所応得解、皆能開示種種法義。是故得名一切種智。
- 答えて曰わく、一切の境界は、本来一心にして、想念を離れたり。衆生は妄りに境界を見るを以っての故に、心に分斉あり。妄りに想念を起こして法性に称わざるを以っての故に、決了すること能わず。諸仏如来は見と想を離れたれば、遍ぜざる所なし。心は真実なるが故に、却ち是れ諸法の性なり。自体は、一切の妄法を顕照し、大智の用の無量の方便あって、諸の衆生の応に解を得べき所に随って、皆能く種種の法と義を開示す。是の故に一切種智と名づけることを得るなり。
又問曰、若諸仏有自然業、能現一切処利益衆生者、一切衆生、若見其身若覩神変[121]、若聞其説、無不得利。云何世間多不能見。
- 又間うて曰わく、もし諸仏に自然の業あって、能く一切処に現じて衆生を利益せば、一切衆生は、もしくは其の身を見、もしくは神変を
覩 、もしくは其の説を聞いて、利を得ざることなけん。云何んぞ世間は多く見ること能わざるや。
答曰、諸仏如来法身、平等遍一切処、無有作意故、而説自然、但依衆生心現。衆生心者、猶如於鏡。鏡若有垢、色像不現。如是、衆生心若有垢、法身不現故。
- 答えて曰わく、諸仏如来の法身は平等にして一切処に遍じ、作意あることなきが故に、しかも自然と説くも、但だ衆生の心に依ってのみ現ず。衆生の心はなお鏡の如し。鏡にもし垢あれば、色像は現ぜず。是の如く、衆生の心にもし垢あれば、法身は現ぜざるが故なり。
已説解釈分。
- 已に解釈分を説けり。
修行信心分
次説修行信心分。
- 次に修行信心分を説かん。
是中、依未入正定(聚)衆生[122]故、説修行信心。何等信心、云何修行。
- 是の中には、未だ正定聚に入らざる衆生に依るが故に、信心を修行することを説くなり。何等の信心を、云何んが修行するや。
略説信心有四種[123]。云何為四。
- 信心を略説すれば四種あり。云何んが四となすや。
信心の四種(信根本・信仏・信法・信僧)
一者、信根本。所謂、楽念真如法故。
- 一には、根本を信ず。所謂、真如の法を楽念するが故なり。
二者、信仏有無量功徳。常念親近、供養、恭敬、発起善根、願求一切智故。
- 二には、仏に無量の功徳ありと信ず。常に念じて親近し、供養し、恭敬して、善根を発起し、一切智を願求するが故なり。
三者、信法有大利益。常念修行諸波羅蜜故。
- 三には、法に大利益ありと信ず。常に念じて諸の波羅蜜を修行するが故なり。
四者、信僧能正修行自利利他。常楽親近諸菩薩衆[124]、求学如実行故。
- 四には、僧は能く正しく自利と利他を修行すと信ず。常に楽って諸の菩薩衆に親近し、如実の行を求学するが故なり。
修業の五門(施・戒・忍・進・止観)
修行有五門[125]、能成此信。云何為五。一者施門、二者戒門、三者忍門、四者進門、五者止観門。
- 修行に五門あって、能く此の信を成ず。云何んが五となすや。一には施門、二には戒門、三には忍門、四には進門、五には止観門なり。
云何修行施門。若見一切来求索者、所有財物随力施与、以自捨慳貪、令彼歓喜。若見厄難恐怖危逼、随己堪任、施与無畏[126]。若有衆生来求法者、随己能解、方便為説。不応貪求名利恭敬[127]。唯念自利利他、迴向菩提故。
- 云何んが施門を修行するや。もし一切の来たって求索する者を見れば、所有財物を力に随って施与し、慳貪を捨てるを以って、彼をして歓喜せしむ。もし厄難や恐怖や危逼を見れば、己れが堪任するところに随って、無畏を施与す。もし衆生の来たって法を求むる者あれば、己れの能く解するところに随って、方便してために説く。応に名利と恭敬を貪求すべからず。唯だ自利と利他を念じて、菩提に廻向するが故なり。
云何修行戒門。所謂、不殺[128]、不盗、不婬、不両舌、不悪口、不妄言、不綺語、遠離貪嫉、欺詐諂曲瞋恚邪見。若出家者[129]、為折伏煩悩故、亦応遠離憒閙、常処寂静、修習少欲知足頭陀[130]等行、乃至、小罪心生怖畏、慚愧改悔、不得軽於如来所制禁戒[131]。当護譏嫌[132]、不令衆生妄起過罪故。
- 云何んが戒門を修行するや。所謂、殺さず、盗まず、婬せず、両舌せず、悪口せず、妄言せず、綺語せず、貪嫉や欺詐や諂曲や瞋恚や邪見を遠離す。もし出家ならば、煩悩を折伏せんがための故に、亦た応に憒閙を遠離し、常に寂静に処し、少欲知足の頭陀等の行を修習し、乃至、小罪にも心に怖畏を生じて、慚愧し改悔し、如来が制する所の禁戒を軽んずることを得ざるべし。当に機嫌を護って、衆生をして妄りに過罪を起こさしめざるべきが故なり。
云何修行忍門。所謂、応忍他人之悩、心不懐報。亦当忍於利・衰・毀・誉・称・譏・苦・楽等法故[133]。
- 云何んが忍門を修行するや。所謂、応に他人の悩ますを忍んで、心に報いを懐かざるべし。亦た、当に利・衰や毀・誉や称・譏や苦・楽等の法を忍ぶべきが故なり。
云何修行進門、所謂、於諸善事心不懈退、立志堅強、遠離怯弱。当念過去久遠已来、虚受一切身心大苦、無有利益。是故、応勤修諸功徳、自利利他、速離衆苦。
- 云何んが進門を修行するや。所謂、諸の善事に於いて心を懈退させず、志を立てること堅強にして、怯弱を遠離す。当に過去久遠より已来、虚しく一切の身心の大苦を受けて、利益あることなきを念ずべし。是の故に、応に勤めて諸の功徳を修め、自利利他して、速やかに衆苦を離るべし。
復次、若人雖修行信心、以従先世来多有重罪悪業障故、為魔邪諸鬼之所悩乱[134]、或為世間事務種種牽纒、或為病苦所悩、有如是等衆多障礙。是故、応当勇猛精勤、昼夜六時礼拝諸仏[135]、誠心懺悔[136]、勧請、随喜、迴向菩提、常不休廃、得免諸障、善根増長故。
- 復た次に、もし人が信心を修行すと雖も、先世より来、多く重罪や悪業の障あるを以っての故に、魔邪や諸鬼のために悩乱せられ、或いは世間の事務のために種種に
牽纒 せられ、或いは病苦のために悩まさる、是の如き等の衆多の障礙あり。是の故に、応当に勇猛に精勤して、昼夜六時に諸仏を礼拝し、誠心に懺悔し、勧請し、随喜し、菩提に廻向すべし。常に休廃せざれば、諸障を免れることを得て、善根が増長するが故なり。
云何修行止観門[137]。所言止者、謂止一切境界相。随順奢摩他観[138]義故。所言観者、謂分別因縁生滅相。随順毘鉢舎那観[139]義故。云何随順。以此二義漸漸修習、不相捨離、双現前故。
- 云何んが止観門を修行するや。所言止とは、一切の境界の相を
止 めるを謂う。奢摩他 の観に随順する義なるが故なり。所言観とは、因縁生滅の相を分別するを謂う。毘鉢舎那 の観に随順する義なるが故なり。云何んが随順するや。此の二義を以って漸漸に修習すれば、相い捨離せず、双 に現前するが故なり。
若修止者、住於静処、端坐正意[140]。不依気息、不依形色[141]、不依於空、不依地水火風、乃至、不依見聞覚知、一切諸想、随念皆除、亦遣除想。以一切法本来無相、念念不生、念念不滅。亦不得随心外念境界後以心除心。
- もし止を修する者は、静処に住し、端坐して意を正す。気息に依らず、形色に依らず、空に依らず、地・水・火・風に依らず、乃至、見聞覚知にも依らず、一切の諸想を念に随って皆除き、亦た除く想も遣る。一切の法は本来無相なるを以って、念念に生ぜず、念念に滅せず。亦た心外に随って境界を念じて後に、心を以って心を除くことを得ず。
心若馳散、即当摂来住於正念。是正念者、当知、唯心無外境界。
既復此心亦無自相、念念不可得。若従坐起[142]、去来進止有所施作、於一切時、常念方便、随順観察。久習淳熟、其心得住。以心住故、漸漸猛利、随順得入真如三昧[143]、深伏煩悩、信心増長、速成不退。唯除疑惑[144]、不信、誹謗、重罪業障、我慢、懈怠、如是等人所不能入。
- 心がもし馳散すれば、即ち当に摂め来たって正念に住すべし。是の正念とは、当に知るべし、唯だ心のみにして外の境界なしと。即ち復た此の心も亦た自相なくして、念念に不可得なり。もし坐より起って、去来進止に施作する所あれば、一切時に於いて、常に方便を念じ、随順して観察すべし。久しく習して淳熟すれば、其の心は住することを得る。心が住するを以っての故に、漸漸に猛利にして、随順して真如三昧に入ることを得て、深く煩悩を伏し、信心が増長し、速やかに不退を成ず。唯だ疑惑と、不信と、誹謗と、重き罪業の障りと、我慢と、懈怠とを除く。是の如き等の人は入ること能わざる所なり。
復次、依如是三昧故、則知法界一相。謂、一切諸仏法身与衆生身平等無二。即名一行三昧[145]。当知、真如是三昧根本。若人修行、漸漸能生無量三昧。
- 復た次に、是の如き三味に依るが故に、則ち法界は一相なりと知る。謂わく、一切の諸仏の法身と衆生の身とは平等にして無二なり。即ち一行三味と名づく。当に知るべし、真如は是れ三味の根本なりと。もし人が修行すれば、漸漸に能く無量の三味を生ず。
仮巻(104)
- 或いは衆生あって、善根の力なければ、則ち諸魔や外道や鬼神のために惑乱される。もしくは坐の中に於いて形を現わして恐怖せしめ、或いは端正なる男女等の相を現わす。当に唯だ心のみなることを念ずべし。境界は則ち滅し、終に悩をなさざらん。
或現天像菩薩像、亦作如来像相好具足、若説陀羅尼[148]、若説布施・持戒・忍辱・精進・禅定・智慧、或説平等・空・無相・無願・無怨・無親・無因・無果・畢竟空寂是真涅槃。或令人知宿命過去之事、亦知未来之事、得他心智、弁才無礙、能令衆生貪著世間名利之事。
- 或いは天の像や菩薩の像を現わし、亦た如来の像が相好を具足するを作し、もしくは陀羅尼を説き、もしくは布施・持戒・忍辱・精進・禅定・智慧を説き、或いは平等、空、無相・無願、無怨・無親、無因・無果、畢竟の空寂が是れ真の涅槃なりと説く。或いは人をして宿命の過去の事を知らしめ、亦た未来の事を知らしめ、他心智を得て弁才無礙ならしめ、能く衆生をして世間の名利の事に貪著せしむ。
又、令使人数瞋数喜、性無常准、或多慈愛多睡多病、其心懈怠、或卒起精進、後便休廃、生於不信、多疑多慮、或捨本勝行、更修雑業、若著世事、種種牽纒。亦能使人得諸三昧少分相似、皆是外道所得、非真三昧。或復令人若一日、若二日、若三日、乃至、七日、住於定中、得自然香美飲食、身心適悦不飢不渇、使人愛著。或亦令人食無分斉、乍多乍少顔色変異。以是義故、行者常応智慧観察、勿令此心堕於邪網。当勤正念不取不著、則能遠離是諸業障。
- 又、人をして
数 瞋り数 喜び、性に常準なからしめ、或いは多く慈愛し、多く睡り、多病にして、其の心を懈怠ならしめ、或いは卒 かに精進を起こし、後に便ち休廃し、不信を生じ、多く疑い多く慮 らしめ、或いは本の勝行を捨てて、更に雑業を修せしめ、もしくは世事に著して、種種に牽纒せしむ。亦た、能く人をして諸の三味の少分の相似を得しむるも、皆是れ外道の得る所にして、真の三味にはあらず。或いは復た、人をしてもしくは一日、もしくは二日、もしくは三日、乃至、七日、定の中に住して、自然の香美の飲食を得て、身心は適悦して飢えず渇せず、人をして愛著せしむ。或いは亦た、人をして食に分斉なく、乍 に多く乍に少なくして、顔色をして変異せしむ。是の義を以っての故に、行者は常に応に智慧にて観察し、此の心をして邪網に堕せしむること勿るべし。当に正念に勤めて取らず著せざれば、則ち能く是の諸の業障を遠離すべし。
応知、外道所有三昧[149]、皆不離見・愛・我・慢之心。貪著世間名利恭敬故。
- 応に知るべし、外道の
所有 三味は、皆、見・愛・我・慢の心を離れず。世間の名利と恭敬に貪著するが故なり。
真如三昧者、不住見相、不住得相、乃至、出定亦無懈・慢、所有煩悩漸漸微薄。若諸凡夫、不習此三昧法、得入如来種性、無有是処。
以修世間諸禅三昧[150]多起味著、依於我見繋属三界、与外道共。若離善知識所護、則起外道見故。
- 真如三味は、見る相に住せず、得る相に住せず、乃至、定を出ても亦た解・慢なければ、所有煩悩は漸漸に微薄なり。もし諸の凡夫が此の三昧の法を習わずに、如来の種性に入ることを得ることは、是の
処 あることなし。世間の諸禅の三味を修すれば多く味著を起こし、我見に依って三界に繋属し、外道と共なるを以ってなり。もし善知識の護る所を離れれば、則ち外道の見を起こすが故なり。
復次、精勤専心修学此三昧者、現世当得十種利益。云何為十。
- 復た次に、精勤して専心に此の三味を修学する者は、現世に当に十種の利益を得べし。云何んが十となすや。
十種の利益
一者、常為十方諸仏菩薩之所護念。
- 一には、常に十方の諸仏や菩薩のために護念せらる。
二者、不為諸魔悪鬼所能恐怖。
- 二には、諸魔や悪鬼のために能く恐怖されず。
三者、不為九十五種外道[151]鬼神之所惑乱。
- 三には、九十五種の外道と鬼神のために惑乱されず。
四者、遠離誹謗甚深之法、重罪業障漸漸微薄。
- 四には、甚深の法を誹謗することを遠離し、重き罪業の障りも漸漸に微薄す。
五者、滅一切疑諸悪覚観。
- 五には、一切の疑いと諸の悪の覚観を滅す。
六者、於如来境界信得増長。
- 六には、如来の境界に於いて信が増長することを得る。
七者、遠離憂悔、於生死中勇猛不怯。
- 七には、憂悔を遠離し、生死の中に於いて勇猛にして怯ならず。
八者、其心柔和、捨於憍慢、不為他人所悩。
- 八には、其の心は柔和にして、驕慢を捨て、他人のために悩まされず。
九者、雖未得定[152]、於一切時一切境界処、則能減損煩悩、不楽世間。
- 九には、未だ定を得ずと雖も、一切の時、一切の境界の処に於いて、則ち能く煩悩を減損して、世間を楽わず。
十者、若得三昧、不為外縁一切音声之所驚動。
- 十には、もし三味を得れば、外縁の一切の音声のために驚動せられず。
復次、若人唯修於止[153]、則心沈没、或起懈怠、不楽衆善、遠離大悲。是故修観。
- 復た次に、もし人唯だ止を修するのみなれば、則ち心は沈没し、或いは解怠を起こし、衆善を楽わず、大悲を遠離す。是の故に観を修す。
修習観者[154]、当観一切世間有為之法無得久停、
- 観を修習する者は、当に一切の世間の有為の法は久しく停まることを得ることなく、須臾に変壊し、一切の心行は念念に生滅す、是れを以っての故に苦なりと観ずべし。応に過去に念ぜし所の諸法は、恍惚として夢の如しと観ずべし。応に現在念ずる所の諸法は、なお電光の如しと観ずべし。応に未来に念ずる所の諸法は、なお雲の忽爾として起こるが如しと観ずべし。応に世間の一切の身あるものは悉く皆不浄にして、種種の穢汚あり、一として楽うべきものなしと観ずべし。
如是当念、一切衆生従無始世来、皆因無明所熏習故、令心生滅、已受一切身心大苦、現在即有無量逼迫、未来所苦亦無分斉、難捨難離、而不覚知、衆生如是、甚為可愍。
- 是の如く当に念ずべし、一切の衆生は無始の世より来、皆無明に因って熏習されるが故に、心を生滅せしめ、已に一切の身心の大苦を受け、現在に即ち無量の逼迫あり、未来の所苦も亦た分斉なく、捨て難く離れ難きを、しかも覚知せず、衆生は、是の如く、甚だ愍むべしとなす。
作此思惟、即応勇猛立大誓願。願令我心離分別故、遍於十方修行一切諸善功徳、尽其未来、以無量方便、救抜一切苦悩衆生、令得涅槃第一義楽。 以起如是願故、於一切時一切処、所有衆善、随已堪能、不捨修学、心無懈怠。
- 此の思惟を作して、即ち応に勇猛に大誓願を立つべし。「願わくは、我が心をして分別を離れしむるが故に、十方に遍じて一切の諸善の功徳を修行し、其の未来を尽くして、無量の方便を以って、一切の苦悩の衆生を救抜し、涅槃の第一義の楽を得しめん」と。是の如き願いを起こすを以っての故に、一切の時、一切の処に於いて、所有衆善を、己れが堪能するところに随って、捨てずに修学し、心に僻怠なし。
唯除坐時専念於止[156]、若余一切、悉当観察応作不応作[157]。若行、若住、若臥、若起[158]、皆応止観倶行。所謂、雖念諸法自性不生[159]、而復即念因縁和合善悪之業苦楽等報不失不壊[160]。雖念因縁善悪業報、而亦即念性不可得。若修止者、対治凡夫住著世間、能捨二乗怯弱之見。 若修観者、対治二乗不起大悲狭劣心過、遠離凡夫不修善根。以此義故、是止観二門、共相助成、不相捨離。若止観不具、則無能入菩提之道。
- 唯だ坐する時に止に専念するを除いて、余の一切の若きは、悉く当に応作と不応作とを観察すべし。もしくは行、もしくは住、もしくは臥、もしくは起に、皆応に止観を倶に行ずべし。所謂、諸法の自性は不生なりと念ずと難も、しかも復た即ち因縁が和合する善悪の業と苦楽等の報は失せず壊せずと念ず。因縁と善悪の業と報を念ずと雖も、しかも亦た即ち性は不可得なりと念ず。もし止を修すれば、凡夫が世間に住著するを対治し、能く二乗の怯弱の見を捨つ。もし観を修すれば、二乗の大悲を起こさざる狭劣な心の過を対治し、凡夫が善根を修せざるを遠離す。此の義を以っての故に、是の止と観の二門は、共に相い助成し、相い捨離せず。もし止と観を具せざれば、則ち能く菩提の道に入ることなし。
専念阿弥陀仏
復次、衆生初学是法、欲求正信、其心怯弱、以住於此娑婆世界[161]、自畏不能常値諸仏親承供養、懼謂信心難可成就、意欲退者、当知、如来有勝方便、摂護信心。
謂、以専意念仏因縁、随願得生他方仏土、常見於仏、永離悪道。
如修多羅説、若人専念西方極楽世界阿弥陀仏[162]、所修善根迴向、願求生彼世界、即得往生[163]。
常見仏故、終無有退。若観彼仏真如法身、常勤修習、畢竟得生、住正定故。
- 復た次に、衆生が初めて是の法を学び正信を欲求するに、其の心が怯弱にして、此の娑婆世界に住するを以って、自ら常に諸仏に値い親承し供養すること能わざるを畏れ、懼れて信心を成就すべきこと難しと謂い、意が退せんと欲する者は、当に知るべし、如来に勝方便ありて、信心を摂護したもう。謂わく、意を専らにして仏を念ずる因縁を以って、願いに随って他方の仏土に生ずることを得て、常に仏を見て、永く悪道を離れるなり。修多羅に説くが如し、「もし人、専ら西方極楽世界の阿弥陀仏を念じ、修する所の善根を廻向して、彼の世界に生ぜんと願い求めれば、即ち往生することを得る」と。常に仏を見るが故に、終に退することあることなし。もし彼の仏の真如・法身を観じて、常に勤めて修習せば、畢竟して生ずることを得て、正定に住するが故なり。
已説修行信心分。
- すでに修行信心分を説けり。
勧修利益分
次説勧修利益分。如是摩訶衍諸仏秘蔵、我已総説。
- 次に勧修利益分を説かん。是の如き摩訶衍は諸仏の秘蔵なり、我れ已に総説せり。
若有衆生、欲於如来甚深境界、得生正信、遠離誹謗、入大乗道、当持此論、思量修習。
究竟能至無上之道。若人聞是法已不生怯弱、当知、此人定紹仏種、必為諸仏之所授記[164]。
仮使有人、能化三千大千世界[165]満中衆生、令行十善、不如有人於一食頃[166]正思此法。
過前功徳、不可為喩。復次、若人受持此論、観察修行、若一日一夜、所有功徳無量無辺、不可得説。仮令十方一切諸仏、各於無量無辺阿僧祇劫歎其功徳、亦不能尽。
何以故、謂、法性功徳無有尽故、此人功徳亦復如是、無有辺際。
- もし衆生あって、如来の甚深の境界に於いて、正信を生ずることを得て、誹謗を遠離し、大乗の道に入らんと欲せば、当に此の論を持って、思量し修習すべし。究竟して能く無上の道に至るべし。もし人が、是の法を聞き已って怯弱を生ぜざれば、当に知るべし、此の人は定んで仏種を紹ぎ、必ず諸仏のために授記せらる。仮使い、人あって能く三千大千世界の中に満つる衆生を化して、十善を行ぜしむとも、人あって一食の頃に於いて正しく此の法を思うには如かず。前の功徳に過ぎること譬えをなすべからず。復た次に、もし人が此の論を受持して観察し修行すること、もしくは一日一夜ならんに、所有の功徳は無量無辺にして、説くことを得べからず。仮令い、十方の一切の諸仏が、 各無量無辺の阿僧祗劫に於いて其の功徳を歎ずるも、亦た尽くすこと能わず。何を以っての故に、謂わく、法性の功徳は尽きることあることなきが故に、此の人の功徳も亦復た是の如く、辺際あることなし。
其有衆生、於此論中毀謗不信、所獲罪報、経無量劫受大苦悩。是故、衆生但応仰信。不応誹謗、以深自害、亦害他人、断絶一切三宝之種。以一切如来皆依此法得涅槃故、一切菩薩因之修行入仏智故。
- 其れ衆生あって、此の論の中に於いて毀謗して信ぜざれば、獲る所の罪報は、無量劫を経て大苦悩を受けん。是の故に、衆生は、但だ応に仰いで信ずべし。応に誹謗すべからず、深く自からを害し、亦た他人を害し、一切の三宝の種を断絶するを以ってなり。一切の如来は皆此の法に依って、涅槃を得たるを以っての故に、一切の菩薩も之れに因って修行して、仏智に入るが故なり。
当知、過去菩薩、已依此法、得成浄信。現在菩薩、今依此法、得成浄信。未来菩薩、当依此法、得成浄信、是故、衆生応勤修学。
- 当に知るべし、過去の菩薩は、已に此の法に依って、浄信を成ずることを得たり。現在の菩薩は、今此の法に依って、浄信を成ずることを得る。未来の菩薩は、当に此の法に依って、浄信を成ずることを得べし。是の故に、衆生は、応に勤めて修学すべし。
回向偈
- 諸仏甚深広大義
- 諸仏の甚深にして広大なる義を、
- 我今随分総持[167]説。
- 我れは今、分に随って総持して説けり。
- 迴此功徳如法性
- 此の功徳の法性の如きを廻らして、
- 普利一切衆生界。
- 普ねく一切の衆生界を利せん。
- 大乗起信論一巻
脚注:(『現代語訳-大乗起信論』池田魯参著によった。)
適宜WikiArcへのリンクと◇マーク以下への追加の書込みを行った。
- ↑ 法。人々の理解を正しく導く根拠。
任持自性 軌生物解 の義。立義分において、それは衆生心であると明示する。◇任持自性、軌生物解(自性を任持して、軌となって物(人々)に解を生ぜしめる)という意。すべての存在もまた法というので文脈によって読むこと。 - ↑ 摩訶衍(まかえん)。梵語マハーヤーナ(mahāyāna)の音写。大乗と漢訳する。一般には大きな乗り物という意で開かれた仏教理解というほどの意味で使われるているが、諭では、立義分で示すように、大乗とは衆生心であるとする。
- ↑ 信根(しんこん)。 信は心が浄められ澄むこと。それは正しい理解にもとずく。根は、ものを成長させる力。信根によって、努力する力(精進根)、記憶して忘れない能力(念根)、集中力を高める力(定根)、理解力を高める力(慧根)などの諸根が形成される。◇浄土真宗で信とは、本願力によって回向される阿弥陀如来の信といい、本願に疑いのあることない状態(無有疑心)を信という。それは阿弥陀如来の信を受け容れた浄信(プラサーダ、prasaada)である。親鸞聖人は法然聖人が行の一念(一声の称名)とみられた『無量寿経』(魏訳)の「聞其名号、信心歓喜、乃至一念」の一念を異訳の『無量寿如来会』の「聞、無量寿如来名号。乃至能発一念浄信歓喜愛楽」の浄信の語によって信の一念とみられた。
- ↑ 究竟楽(くきょうらく)。 人間界や、天上界や、三乗(声聞乗、縁覚乗、菩薩乗)の楽しみとは異なる、究極の仏にさとり(智慧と慈悲)にそなわる楽しみ。◇大乗経典の『涅槃経』では、涅槃の徳を、大浄・大楽・大我・大浄と煩悩の寂滅を目指す原始仏教を否定するような説き方がされる。このような大乗経典は、既存の説を批判的媒介項として止揚してきた大乗仏教運動から生まれたのであった。なお、楽は、楽(ラク)と読めば楽しみであり、楽(ギョウ)と読めば願うという意味である。第十八願の三心の信楽をラクの意ととれば本願に乗託した安堵の楽の意であり、ギョウととれば、阿弥陀如来の信を受容れて往生成仏を願うという意味であろう。もちろんこの両義があるのが阿弥陀如来から回向された信楽である。
- ↑ 如来根本之義(にょらい-こんぽんの-ぎ) 。仏教の根本の教えの意味。如来は真理を具現した人の意。仏と同義語。ここの第二の理由は、立義分や、解脱分の顕示正義・対治邪執でしめすようなことを説きたかったからという意。
- ↑ 善根成熟(ぜんこん-じょうじゅく)。善根は善を生ずる力。 善根は善を生ずる力が熟して決して壊れないという意。
- ↑ 堪任不退(かんにん-ふたい) 。前の善根成熟と同義。どんなことも堪え忍び、正しい理解が確立して決して後退することがないという意。◇堪には、こらえる、こたえる、という意味がある。ここでは忍辱の意。
- ↑ 悪業障(あく-ごっしょう)。過去になした悪い行為(業)が、現在やろうとしている修行を様々に妨害すること。第五の理由は、修行信心分の止観門に入る直前で説いている。「六時礼拝諸仏」の説を説きたかったからであるという意。
- ↑ 摂一切世間法出世間法。世間法は、迷いの世界(界内)の教え、出世間法は、悟りの世界(界外)の教え。世間の因果を出世間の因(修)果(証)へ転回するよう教えるのが仏教の原型である。世間の因果は、
苦諦 (果)・集諦 (因)として示され、出世間の因果は、滅諦 (果)・道諦 (因)として示される。『勝鬘経』(大正蔵2巻219頁中・675頁上)に「摩訶衍者 出生一切声聞縁覚 世間出世善法」と出る。 →四諦 - ↑ 「是心真如相」「是心生滅因縁相」。衆生心に真如(体)の出世間法と、生滅(体・相・用)の世間法の、両面の意味があることを示す。解釈分の「顕示正義」では、心真如と心生滅の両面の意味を明らかにし、心生滅から心真如へ人々を誘導する。
- ↑ 「是の心は則ち」、「 此の心に依って」、「是の心の」、「是の心の」、の四箇所すべて前の「衆生心」を承ける。
- ↑ 如来蔵。如来にそなわる無量の功徳の意。
『仏性論』(大正蔵31巻795頁以下)では、如来蔵には、
所摂蔵 衆生が如来に蔵せられている意。隠覆蔵 衆生が如来を蔵している意。能摂蔵 衆生が如来の果徳をすべて蔵している意、
- ↑ 顕示正義。立義分の「顕示摩訶衍義」を承ける。大乗の根拠(法)は衆生心であるとして、大乗の意義(義)を心真如(体)と心生滅(体・相・用)に開き、その意義を体と相と用の「大」義と、仏・菩薩が立っている「乗」義にまとめた意味をここで真正面から論証しようとするのである。
- ↑ 一心法。根拠(法)としての衆生心は本来分けることができないものであるが、衆生心の意義を解明するために、真如と生滅の両面に開いて説くという意。
- ↑ 「言説相」言葉で説かれる姿形。「名字相」文字で表現される形象。「心縁相」あれこれと心の中で想像すること。
- ↑ 畢竟平等、無有変異。次の「不可破壊、唯是一心」の二句の意と同じ。どんな迷妄の心によって汚されても何の変化も生ぜず、変わることがないという意。平等は不可破壊の義、無有変異が一心の意。
- ↑ 仮名。かりの表現。左右・長短・善悪というように、言語表現や概念はどこまでも相対的なものであり、真実、名ざされているようなものが限定的にあるわけではない。
- ↑ ◇言説之極因言遣言(言説の極みは言に因つて言を遣る)。 言葉の所詮は、言葉を使って誤った考えを正すものだということ。そして次下で真如という言葉の指している体そのものは、否定しようとしても否定できないものであるとする。
- ↑ 一切法悉皆真。すぐ後に出る「一切法皆同如」と一組の表現で、「真如」を二字に分けて説明している。こういう表現法は中国語の表現法としてはめずらしくないが、翻訳としてみるときには問題になろう。「この部分は訳者の附加であると見るべきであろう」「ちなみに新訳の『大乗起信論』では、この部分に相当する訳文はない」(平川彰著『大乗起信論』75-80頁参照)◇原語のタタター(tathatā)は如と翻訳されるのだが、ここでは「真」と「如」に分けて考察しているのでインド伝来の書ではなく中国撰述の書ではないかという意見がある。
- ↑ ◇親鸞聖人はこの一段を飛錫の『念仏三昧宝王論』を通して「真仏土巻」の決釈p.371で引文されておられる。そして、仏の説かれた言葉により、言葉を超えた世界に入り、仏を念じることにより、すべての念を超えた世界に入るとされ、それが阿弥陀如来の大悲の本願をもって真仏土で仏性を開顕することとされた。「安養浄刹は真の報土なることを顕す。惑染の衆生、ここにして性を見ることあたはず、煩悩に覆はるるがゆゑに」p.371である。
- ↑ 不生不滅与生滅和合非一非異、名為阿梨耶識(不生不滅と生滅と和合して一にあらず異にあらざるを、名づけて阿梨耶識となす)。 不生不滅(真如)と生滅の同一性と差異性の関係を、総体的に説明しようとすると阿梨耶識の概念は便利で都合がよいというのである。阿梨耶識は、アーラヤ・ヴィジュニャナーナ(ālaya-vijñāna)の音写語で、玄奘訳の阿頼耶識と同じ原語。ただし、阿梨耶識は不生不滅(真如・覚)と生滅(不覚)の二義を和合する義と規定されているから、阿梨耶識を妄識と規定する唯識教学とは、教理の立て方が異なるので注意を要する。
- ↑ 本覚(ほんがく)。衆生心に本来そなわっている覚証の智慧。◇『涅槃経』では「一切衆生悉有仏性 (いっさいしゅじょう-しつうぶっしょう)」と説く。親鸞聖人はこの語を「信巻」と「真巻」に引文されておられ、名号の全徳を受け容れた浄信を仏性とされ、その開覚は浄土であるとされたのであろう。
- ↑ 始覚(しかく)。修行が進展する過程で折々の機縁にふれて現れるさとりのこと。
- ↑ ◇ここは判りにくいので参考にした『現代語訳-大乗起信論』より現代語を付す。「まよいからさとるという意味(始覚)は、根本のさとり(本覚)によってまよい(不覚)があり、このまよいによって、まよいからさとるということ(始覚)があることを説きたいのである。また、心の根源を悟るという意味で究極のさとり(究竟覚)というのであるが、心の根源をさとらない限り、究極のさとり(究竟覚)とはいえないのである。」 ()括弧内は追記。
- ↑ 「此義云何」。前文の「心原をさとるなら究竟覚であるが、心原(源)をさとらないうちは究寛覚でない」という意味を一歩踏み込んで明らかにする。不覚が覚へと転換する始覚の道程を、相似覚・随分覚・究竟覚の三段に開いて説く。このような「始覚之異」は一応の説明で、初めから終りまで「同一覚」であり、さとりに優劣があるわけではないと、この一段を結んでいる文意は重要である。天台智顗の六即(理即・名字即・観行即・相似即・分真即・究寛即)義との関連で注目される。『摩訶止観』 (大正蔵46巻10頁中)参照。
- ↑ 「覚知前念起悪故、能止後念令其不起」 。前にしたことは悪いことだと知って、その後に二度と同じことをしないという意で、これが滅相の覚(凡夫)の意。以下に、「覚於念異」の異相の覚 (二乗・初発意菩薩)、「覚於念住」の住相の覚(法身菩薩)、「覚心初起」の生相の覚(菩薩地尽)の意が説かれる。減する煩悩の位層に配して生・住・異・減の四相説を使っており独特の解釈が示されている。有為法が一刹那に生・住・異・滅の四相を遷流するという、刹那無常の意味を説く一般的な用例とは異なるので注意を要する。
- ↑ 「二乗」。 声聞乗と縁覚(独覚)乗。仏の教えを聞く人(仏弟子)と、独力で縁起の理法をさとる人。共に自分の問題を処理するだけで利他行の必要性を認めない立場として小乗(狭小な仏教理解の立場)とされる。
- ↑ 「初発意菩薩」。 初めて仏のさとり(智慧と慈悲)の心を起こした人。菩薩は菩提薩唾(ボディ・サットゥヴァ bodhisattva)の音訳語で、仏のさとり(智慧と慈悲)を求める心ある人の意。 ◇仏教は智慧と慈悲の宗教である。一見慈悲を強調するようにみえる浄土真宗においても大悲の必然としての阿弥陀如来の智慧を聞信するのである。これを仏願の生起本末という。智慧の念仏とも智慧の信心ともいわれる所以である。
- ↑ 「相似覚」。 仏のさとりに似たさとり。本当のさとりではない。
- ↑ ◇麁、異体字は麤。粗と同じで、微細でないこと。あらあらしく雑であること。
- ↑ 「法身菩薩」。 真如をさとった菩薩。
- ↑ 「随分覚」。 仏のさとりの一部分を共有するさとり。
- ↑ 「菩薩地尽」。 菩薩の境地が極まること。すなわち仏の境界。
- ↑ 「修多羅説」。 不明。論が経説を引用する場合は、すべて経名を明示することがなく、引用文に相当する説も、既存の漢訳経典と一致することがないのが、一つの特徴となっている。柏木弘雄著『大乗起信論の研究』(四四三-四六六頁)参照。
- ↑ 「無始無明」。 無始は、その始源が知られない意。「無始は時間的の意味でなくして、何時でもあるの意味」(宇井伯爵訳注『大乗起信論』125頁注)。無明は、生存に巣食う根本的な無知、おろかしさ。◇
- ↑ [心相生住異滅」。 前に分説した、凡夫・二乗・初発意菩薩・ 法身菩薩・菩薩地尽の覚が処理した心をまとめる。
- ↑ 「同一覚」。 前述した、凡夫の覚も、二乗・初発意菩薩の覚も、法身菩薩の覚も、菩薩地尽の覚も、さとりという意味では違いはないというのである。
- ↑ [随染分別」。本覚を単独に説明してもわかりにくいので、迷妄の現実と対比させて智慧(智浄相)と、そのはたらき(不思議業相)の両面を説き示すというのである。
- ↑ [熏習」。はたらきかけること。後の文で詳説する。◇熏は、くす-べる、いぶ-すの意で、香をたいて衣(ころも)に香りを薫習させることで香りが衣に染み付いて残ることをいう。善き行いが行ずる者を変革させるという意。
- ↑ 「如大海水因風波動」。論の風・波・水の瞼えとして有名。後の「生滅の相」を説明する個所でも使われている。水・波・風の喩えは、『楞伽経』の諸処に散説している。柏木著『研究』454頁参照。◇浄土真宗では行と信の関係を説く場合にこの風・波・水の譬えを説くことがある。いわゆる信には体というものはなく、信の体はそのまま永遠なる救いの名号であって水に喩え、その水面(みなも)に大悲の風によって波が発こった状態を信に喩えて、名号の他に信はないということを表現する。波というものが水によって存在するように、信とは名号を称える上で論じることがらである。行からいえば「大行とはすなはち無碍光如来の名を称するなり」であり、信からいえば「仏性は大信心」p.236と『涅槃経』を引文され「真実の信心はかならず名号を具す」p.245といわれる所以である。
- ↑ 「勝妙境界」。仏が三十二相・八十種好と数えるような勝れた姿形を現わして、人々から礼拝され供養される対象となること。
- ↑ 「四種大義」。本覚(根本のさとり)には四種にまとめられるような大きな意味が含まれるという意。
- ↑ 「猶如浄鏡」。 それはちょうど一点の汚れも曇り(煩悩や無明)もない澄明な鏡のようであるという意。以下の四義の鏡字はいずれも、根本のさとり(本覚)はいずれにおいてもその澄明さを曇らせることはないという意で使われているので、一般的に「~の鏡」というふうに実体的に読むのは誤読である。
- ↑ 「如実空鏡」。根本のさとり(本覚)の本然の姿を表わす。如実は、あるがままに、そのままに、の意。空は、直前の「与虚空等」の句を承け、煩悩が空無であるという意。鏡は、それを一点の汚れや曇りがない澄明な鏡に瞼える。
- ↑ 「因熏習」「縁熏習」。本覚の真如が内から人々にはたらきかけるのが因の熏習(内熏)、本覚の真如が外から縁となって人々にはたらきかけるのが縁の熏習(外熏)。
- ↑ [如迷人依方故迷」。 方角に迷う喩えは、顕示正義の結びの段でも使われている。
- ↑ 「三種相」「六種相」。 この一段は、従来「三細・六麁」の不覚義として有名。三細(無明業相・能見相・境界相)、六麁(智相・相続相・執取相・計名字相・起業相・業繋苦相)の説は、不覚の意味構造を明らかにしようとしているのであり、不覚が展開する時間の前後関係を示そうとしているのではない。なぜなら、無明が動き出す最初を指し示すことはできないからである。すなわち、不覚は無明業相と呼ばれるようなものとして現われるというのであり、それは能見相と境界相として具体化しているというふうに読むのが正しい。
- ↑ 「智相」。対象の好悪を判断する知覚の意で、一般的な智慧の相の意ではない。
- ↑ [無漏無明種種業幻」。無漏と無明と種々の業幻。異相の段には、無漏と無明と随染幻と性染幻と出、種々の業幻を随染幻と性染幻の二種に開く。無漏が覚、無明以下が不覚であり、覚と不覚の同一性と差異性を明らかにする。随染幻は六麓の差異を示し、性染幻は三細の差異を示す。
- ↑ [依心意意識」。 衆生の心によって、意と意識が展開する。意を五種(業識・転識・現識・智識・相続識)で示し、意識は最後の相続識であると定義し、迷妄の識のはたらきを説く。
- ↑ [五塵」。 色・声・香・味・触の五塵・五境。
- ↑ [三界虚偽唯心所作」。欲界(欲望の世界)・色界(物質の世界)・無色界(精神の世界)の三界は、本当は思っているようなものではなく、みな心が作り出したものであるという意。『十地経論』(大正蔵26巻168頁上)には、「三界は虚妄にして但是れ一心の作なり。十二因縁分は是れ皆、心に依る」と出る。『大智度論』(大正蔵25巻276頁中)にも「三界所有皆心所作」と出る。
- ↑ 「六塵」。 六境。色塵・声塵・香塵・味塵・触塵・法塵。それぞれ視覚・聴覚・嗅覚・味覚・触覚・意識の対象世界のこと。
- ↑ 「我我所」。 我は、私という自我の意識、我所は、私のものとする所有物化する意識。
- ↑ 「攀縁」。 縁によずと読む。眼の前のものに執着すること。
- ↑ [分離識」。 眼識・耳識・鼻識・舌識・身識・意識の六識がそれぞれ異なったはたらきを示す意。
- ↑ 「分別事識」。 心の内外の事物を判断するという意。
- ↑ 「見愛煩悩」 見惑と思惑(修惑)の煩悩の意。道理に迷う知的な煩悩と、愛着や貪欲のように習慣化した情的な煩悩。
- ↑ 「不変」 前文の「難有染心而常恒不変」の文意を説明する。
- ↑ 「不達一法界」 後の文で「不了一法界義者」として、この句 の意味を再点検している。
- ↑ 「忽念念起」。忽念とは、初めがわからないという意。偶然という意ではない。仏教では偶然論は説かない。気がついてみたらそういうふうに無明であったということである。現に無明である様子を示すので、無明が起こった時間をいおうとしているのではない。
- ↑ 「執相応染」[不断相応染」[分別智相応染」。 前の三種の染心は、それぞれ執取相・相続相(相続識)・智相(智識)と相応し、対応して生ずる煩悩であることを示す。
- ↑ 「二乗解脱」[信相応地」[浄心地」[具戒地」[無相方便地」[色自在地」[心自在地」[菩薩尽地」[如来地」。論で行位説が一番詳しく示されている個所である。従来は、信相応地を初住以上十住・十行・十回向に比定し、浄心地を初歓喜地(初地)、具戒地を第二離垢地、無相方便地を第七遠行地、色自在地を第八地、心自在地を第九地、菩薩尽地を第十地の満心に比定してきた。しかし、論では信相応地から浄心地に至る間にどのような修行の段階があるのか何も説かないだけでなく、浄心地がはたして『華厳経』「十地品」で説く初地の歓喜地と同じであるのかどうかという点も全く明言するところはな.い。論の作者はあるいはこういう行位の体系にはあまりとらわれず、あるいは批判的であったのかも知れない。したがってそういう出来合いの行位説に当てはめてどんなに詳細に説明してみても、所詮は論の作老のあずかり知らぬ一往の推定説であるというにすぎないであろう。前の本覚始覚の段では、不覚(凡夫人の覚)・相似覚(二乗観智・初発意菩薩)・随分覚(法身菩薩)・究寛覚(菩薩地尽)という説がみえていたが、後には生減の相を分別する段に、凡夫の境界・菩薩の境界・仏の境界の説がみえ、体用熏習の段に、凡夫と二乗と初発意の菩薩等、法身の菩薩の説がみえ、真如の用の段で、凡夫と二乗の心がみる応身、諸々の菩薩の初発意より乃至菩薩の究寛地の心がみる報身、浄心を得てから乃至菩薩地が尽きてみる法身の説がみえ、不定聚・正定聚(信心成就)・解行発心(初めの正信より第一の阿僧祗劫の満)・証発心(浄心地より乃至菩薩究寛地)の説が散説されているのが、論の行位説のすべて である。
- ↑ 「現色不相応染」[能見心不相応染」[根本業不相応染」。 後の三種の染心は、順次、境界相(現識)・能見相(転識)・無明業相(業識)に対応している。この三種の染心は潜在的に微妙なはたらきのものとして単独に生じている煩悩であるという意味で不相応染という。後の文で、「相応義」と「不相応義」が定義される。
- ↑ 「不了一法界義」[相応義」[不相応義」[染心義」[無明義」いずれも前文中で使った語義を再確認する。
- ↑ 「心念法異」 心の念と心の法が異なる意。心の念は能縁の念 (知相)、心の法は所縁の法(縁相)。能・所が対応関係にあるの が相応の義であるという。
- ↑ 「世間自然業智」 仏が自然に不思議の業用をなし世間の人々を救済する智慧。
- ↑ 「細中之細是仏境界」 ごく微少な迷いの心は仏の境界でのみ知ることができるという意で、仏の境界でも微細な迷いの心があるという意味ではない。したがって上記の文は、最も粗野な迷いは凡夫の境界で知ることができ、それほどでない迷いからわりと微細な迷いまでは菩薩の境界で知ることができるという意である。
- ↑ 「如風依水而有動相」 前に出した風・波・水の翰えをここでもう一度使う。
- ↑ 「四種法熏習義」 これまでの文中に頻出した熏習(はたらきかける)の意味を四種にまとめて示す。一は、浄法の熏習。二~四は、染法の熏習であるが、続く説明文では、見出しとは逆に先ず染法の熏習、次いで浄法の熏習の順で示す。また、染法の熏習では、無明・妄心・妄境界の順に略説した後で、妄境界の熏習義、妄心の熏習義、無明の熏習義の順で各説する。浄法の熏習では、真如と妄心の熏習を略説し、妄心の熏習義、真如の熏習義の順で略説している。こういう順・逆の説き方で、染・浄相互の影響関係の緊密さが強調され、表現効果が増幅されることをねらっているのかも知れない。
- ↑ 「厭生死苦楽求涅槃」。 世間の因果(集諦・苦諦)を知り、出世間の因果(道諦・滅諦)を実現しようとすること
- ↑ 「得涅槃成自然業」。 煩悩が滅すると(智慧が成就し)、自然に利他行(慈悲)がそなわるという意。
- ↑ 「一切衆生悉有真如」。 『涅槃経』の「一切衆生悉有仏性」の表現形式と酷似する。
- ↑ 「上煩悩」。 高崎直道現代語訳注(227頁)では、『勝鬘経』に出る語で随煩悩の意と解する。宇井伯壽著注(136頁)、平川彰著注(226頁)は、智礙、すなわち所知障のことと解する。いずれとも解せるが、すべての煩悩の意に解した。
- ↑ 「我見愛染煩悩」。 見惑と思惑の煩悩の意。
- ↑ 「厭求」。 前の「厭生死苦、楽求浬架」の略。
- ↑ 「眷属」。伸間。
- ↑ 「四摂」。人々の心にかなう四つの実践法。相手が欲するものや教えを与える布施、相手の心を安らかにする言葉遣いの愛語、相手のためを思ってする利行、相手と一緒にする同事の四種をいう。
- ↑ [同体智力」 凡夫も聖者も本質において変わりはなく、真如において同じである、と知る仏の智慧の力のこと。
- ↑ 「衆生依於三味乃得平等見諸仏」 仏の姿を見たいと願って三昧に入るものは、誰でも同じように、調い直く定まった身心において仏を感得できるという意で、観仏三昧のことをいう。三昧は、サマーディ(samādhi)の音訳語。等持などと訳すが、調直定(ととのう、なおる、さだまる)の意。後に「真如三昧」「一行三昧」の具体名を出す。
- ↑ 「意意識熏習」。真如が業識にはたらきかけるような深部の微細な熏習が「意の熏習」。真如が分別事識にはたらきかけるような表層の粗大な熏習が「意識の熏習」。
- ↑ [所謂」以下「自体有大智慧光明義故」から、「具足如是──乃至満足無有所少義故」までの七義をもって「如来の蔵」の義とする。
- ↑ 「常楽我浄義」 『勝鬘経』に、如来蔵の性質として説き、『涅槃経』に、仏性の性質として説く。
- ↑ 「修諸波羅蜜」 修行信心分で説く、布施・持戎・忍辱・精進・禅定(止)・智慧(観)の六波羅蜜(五行)をさす。『華厳経』では、六波羅蜜の上に、方便・願・力・智の十波羅蜜を説くが、論では六波羅蜜の説で充分とし、この説は採らない。
- ↑ 「無量相」「無量好」 応身は三十二相をそなえるが、報身の相は無量であり、応身は八十種好をそなえるが、報身の好は無量であるという意。
- ↑ 「無量楽相」 ラクソウと読めば、楽しい姿、安らかな姿の意。ギョウソウと読めば、願わしい姿、理想的な姿の意になる。後に「非受楽相」と出るから、ここもラクソウの意に読んだ。
- ↑ 「六道」 六種の凡夫の世界。地獄道・餓鬼道・畜生道(三悪道)と、阿修羅道・人間道・天道(三善道)。この六凡の世界の上に、声聞・縁覚・菩薩・仏の四聖の仏法の世界が展開する。
- ↑ 「非受楽相」 応身の仏は楽しい相を受けるだけではないという意。たとえば、この世に生存した釈尊は、人間界同様、生れ、老い、病み、死ぬという四苦に甘んじなければならなかったと見るような仏身観をさす。
- ↑ 「五陰」 。五薀。色・受・想・行・識。
- ↑ 「謂心為念」 前に「忽念念起、名為毎明」とあった文意と同じ。
- ↑ 「人我見」。 仏身や如来蔵の観念を実体視する凡夫の誤った見方のことであり、単に自我を固定的に見るという、一般的な人我見の意ではない。
- ↑ 「法我見」。二乗の人が五陰の教えに対して起こす誤った見方という意味で、限定されて使われている。
- ↑ 「外道経説」。生死に始めがあり、無明に始めがあると説くのは、外道の『大有経』の説であるという(平川彰著290頁参照)。
- ↑ 「発趣道」。直後の文中に出る、仏のさとり(道)に発心し趣向する義。その様子を解説するのが「分別発趣道相」の一段である。この一段は、解釈分から修行信心分へ入る中間の問題を示す。
- ↑ 「信成就発心」「解行発心」「証発心」。 発心の課題が、信・解・行・証のそれぞれの位層で問題にされている点を銘記されたい。◇仏法を信じ、教法を理解し、行を行じて、証することをいう。
- ↑ 「不定聚衆生」。 後に出る「正定聚」(決して後退することがない菩薩)に対し、時と場合によっては、修行を断念したり、二乗のさとりに甘んじたりなどして、先でどうなるかわからない人々。後の文に、「根則不定若進若退」と出る意。論は常にこの不定聚の衆生の心に訴えかけている。
- ↑ 「信業果報」。 業の因・縁・果・報を正しく理解する。
- ↑ 「十善」。 不殺生・不倫盗・不邪婬の三種の善の身業と、不妄語・不両舌・不悪口・不綺語の四種の善のロ業と、不貪欲・不膜憲・不邪見の三種の善の意業を合わせた十種の善業。後の文にも内訳が記される。
- ↑ 「如来種」。如来の種姓、家柄の意。如来となることが約束された種子。後の文に出る「人天種子」「二乗種子」に対する。
- ↑ 「上説法界一相」。心生減門の初めのところで、覚の意味を「離念の相は虚空界等しく法界相なり」と示していた説をさす。
- ↑ 「求学諸善之行」。深心で「楽って一切の諸善の行を集める」と定義していた説。問意は、直心の他に深心を説く意義を明らかにしようとするのである。
- ↑ 「摩尼」。 マニ(maņi)の音訳語。宝珠と訳す。濁った水を浄化する力を持つ鉱石。
- ↑ 「略説方便」。 前文に「方便を以って種種に熏修せざれば、亦た浄なることを得ることなし」とあった文意を承けて、その方法をまとめて四種に示す。
- ↑ 「慚愧悔過」[随喜勧請」[発願」。 智顎の懺悔・勧請・随喜・回向・発願の五悔の作法に類する。修行信心分の精進行で再説される。
- ↑ 「三宝」。 後の文に出る「仏・法・僧」のこと。
- ↑ 「無余涅槃」。身体にまつわる苦もなくなった完全なさとり。菩提樹下のさとり(有余涅槃)に対する
- ↑ 「現八種」。 八相成道という。直後に列記している、①従兜率天退、②入胎、③住胎、④出胎、⑤出家、⑥成道、⑦転法輪、⑧入於涅槃の八種を示すこと。
- ↑ 「兜率」 ツシタ(Tuşita)の音訳語。知足と訳す。六欲天(欲界の六種の天上世界)の下から数えて四番目の天の名。次に仏 になる二生補処の菩薩」(弥勒菩薩)もこの兜率天に住してい る。釈尊はこの天から降下し、六牙の白象の形になって摩耶夫人の母胎に入ったといわれる。
- ↑ 「悪趣」。 悪道。地獄・餓鬼・畜生の三悪趣。悪業の報いによって生れる処。
- ↑ 「阿僧祗劫」。 阿僧祗の劫位を表わす。アサンクヤ(asaſkhya)の音訳語。数えきれないという意。無数と訳す。十の五十九乗ほどの数の単位。劫はカルパ(kalpa)の音訳語で、極めて長い時間を表わす単位。一説に四十里四方の巨大な岩山を、百年に一度ずつ軟らかな衣で払拭してそれが磨減したとしても、まだ一劫は尽きないといわれるほどの無限に近い時間をいう。『大智度論』巻五(大正蔵25巻100頁下)に出る。
- ↑ 「檀波羅蜜」「尸羅波羅蜜」「羼提波羅蜜」「毘梨耶波羅蜜」「禅波羅蜜」[般若波羅蜜」。 六波羅蜜という。檀は、ダーナ (dāna)の音訳語で、布施の意。尸羅は、シーラ(Śīla)の音訳語。戒の意で、持戒と訳す。羼提は、クシャーンティ(Kṣānti)の音訳語。堪忍の意で、忍辱と訳す。毘梨耶は、ヴィールヤ(Vīrya)の音訳語で、努力の意で精進と訳す。禅は、ジャーナ(Dhyāna)の音訳語。静慮の意で、禅定と訳す。般若は、プラジュニャー(prajñā)の音訳語。慧の意で、智慧と訳す。波羅蜜は、パーラミター(Pāramī)の音訳語で、到彼岸・度と訳され、完成・成就の意である。
- ↑ 「五欲」。 色・声・香・味・触の五境によって起こる欲望の意。
- ↑ 「浄心地」。 真如の理をさとる菩薩最初の境地。
- ↑ 「菩薩究寛地」。 菩薩の最後のさとりの境地。
- ↑ 「不依文字」。この一句は、後の文意にかけても読めるが、ここでは前の文意を承けるものとして読んだ。
- ↑ 「懈慢」。解怠と高慢。なまけることと調子づくこと。
- ↑ 「無有超過之法」。すべての菩薩は第一阿僧祗劫(十住・十行・十回向)・第二阿僧祗劫(初地~七地)・第三阿僧祗劫(八地~十地)を経過する発心と修行とさとりを要するので、その間の境地を飛び超えてさとったり、他を追い抜いてさとったりするようなことは決してないということ。◇
- ↑ 「色究竟処」。 色界の最高位の天で、有頂天ともいう。アカニシュタ(Akanistha)天。この天の身体は最も広大でかつ微妙で あるという。
- ↑ 「一切種智」。 自覚(一切智)と覚他(道種智)を円満にそなえる仏の智慧。
- ↑ [見想」。前文の「妄に境界を見る」ことと、「妄に想念を起こす」ことを承ける
- ↑ 「神変」。 神通変化の略。仏の不思議な行動。
- ↑ 「未入正定聚衆生」。信成就発心の段で示した「不定聚の衆生」に同じ。
- ↑ 「信心有四種」。根本・仏・法・僧の四種を信ずること(四信)は、前の信成就発心の説を承ける
- ↑ 「菩薩衆」。自利と利他を行ずる菩薩の僧(サンガ)の意。声聞の僧伽とは異なるという意。『大智度論』巻四(大正蔵二五巻85頁上-中)に、「菩薩」は在家(信士・信女)と出家(比丘・比丘尼)のいずれかに属するが、在家・出家の人がみな菩薩であるというわけではない、なぜならその中には、声聞人や辟支仏人があり、天に生れることを求める人があり、自活を求める人があるからであると解している。
- ↑ 「修行有五門」。 施・戒・忍・進・止観の五門を修行すること(五行)は、前の解行発心の説を承ける。
- ↑ [施与無畏」。 恐怖心を取り除いてやること。観音菩薩は「施無畏者」(『観音経』)と呼ばれる。
- ↑ 「不応貪求名利恭敬」。 因縁分の第一に「世間の名利と恭敬を求むるに非ず」と記していた意と同じ。
- ↑ [不殺」。 以下に身三・口四の七善業を記し、貪欲・膜志・邪見の三意を拡大して示す。[貪嫉」は貪ることと嫉妬。[欺詐」はだましたりあざむくこと。[諂曲」は人にへつらい、己れの心を曲げること。
- ↑ [若出家者」。 論の作者が、かりに伝承どおりの馬鳴造・真諦訳でないとしても、あるいは馬鳴造・真諦訳に仮託しようとした誰人かであったとしても、これらの人が出家者を装っているのだとしても、出家者の立場を表明して書こうとしている点で違いはないから、論の作者は明らかに出家者の立場から、在家者と出家者を含む菩薩衆に向かって論を書いているわけである。 そして論は常に不定聚の衆生心に視点を合わせているから、論の主張は一貫して在家の菩薩を中心にすえていたことがわかる。「若出家者」というこの句はそのことを証明するであろう。本書では論の作者・訳者の問題は敢えて保留にしたままにしているが、私はかりに馬鳴と真諦に仮託したものであるとしても、純然たる中国僧が書き下ろした書であるというふうには考えることができないと思っている。もしも生粋の中国僧が書いたのであれば、例えば偽作の『法句経』や、『肇論』にみられるような、中国の伝統思想を臭わせるような用語法が必ずまぎれ込むはずだと考える。論の中ではそういう言葉はほとんどみられないし、高崎直道著(301頁以下)にも指摘されるような文体の特徴が、翻訳文に類する生硬さをとどめているからである。もちろん、そういうふうに簡単に正体がばれるような表現法を用心深く退けて作ったのだというのなら論外であるが──。いずれにしても論の文章の整理法は翻訳書としての体裁をとどめていることが認められよう。
- ↑ 「頭陀」。 ドゥータ(dhūta)の音訳語。払撒(ふりはらう意)と訳す。衣・食・住に対する執着を徹底的に放棄する修行法で、十二種(十二頭陀行)を数える。摩訶迦葉は仏弟子の中で頭陀行第一と称された。
- ↑ 「如来所制禁戒」。 前の十善戒以外の釈尊が説示した戒律・律蔵。
- ↑ 「護譏嫌」。 息世譏嫌戒のこと。世間の人が嫌うことを敢えてしてはいけないという教え。そういうことをすると人々が仏教から遠ざかることになり、その結果人々に大きな過失を作らせることになるからである。
- ↑ 「利・衰・毀・誉・称・譏・苦・楽等」。 世間の八法、順逆の八風という。釈尊も在世中は世八法を免れなかったか否かについて『大毘婆沙論』巻四四(大正蔵二七巻229頁上-中)で論じている。
- ↑ [為魔邪賭鬼之所悩乱」。 後に「諸魔外道鬼神之所惑乱」を詳説する。修行中に種々の魔事が生ずることについては、『天台小止観』『摩訶止観』の魔事境の説でも詳説している、参照され たい。
- ↑ 「六時礼拝諸仏」。 六時礼仏。初夜・中夜・後夜・展朝・午時・哺時の六回、諸仏の名を唱えて礼拝すること。四時(初夜・後夜・展朝・哺時)の坐禅とセットで行じられる。
- ↑ 「懺悔・勧請・随喜・廻向」。 信成就発心の四慧の方便説で概説されていた。これに発願を合わせて智顎は五悔の作法にまとめた。
- ↑ 「止観門」。 禅定波羅蜜と智慧波羅蜜を合わせて止観の一行として提示する。法蔵は『義記』(大正蔵44巻283頁中・284頁中)でこの一段を解説し、具五縁を記し、調五事を記し、調身の方法で坐禅の仕方を解説し、「広くは天台顗禅師の二巻の止観の中に説くが如くなり」と結び、後の魔事を解説する段でも、『天台小止観』『摩訶止観』に詳説を譲っている。論の説は筋道を明示しただけといえよう。
- ↑ 「奢摩他観」。 シャマタ(śamatha)の音訳語。止・寂減等と訳す。禅定の観の意。
- ↑ 「毘鉢舎那観」。 ヴィパシュヤナー(vipaśyanā)の音訳語。観慧・正見などと訳す。智慧の観の意。高崎直道著注(273頁)では、「ここの「奢摩他観」「毘鉢舎那観」の観はインドの文献の直訳としては文意が通じない。そのためか、実叉難陀訳ではこの音写語を含む二旬を省いてある」と指摘する。竹村牧男著『読釈』(465頁)では、菩提流支訳『深密解脱経』に出る訳語と同じことが指摘されている。
- ↑ 「端坐正意」。 足を結跏趺坐、あるいは半跏趺坐に組んで、背筋をのばして坐る坐禅の坐法で心を調えるという意。調身・調息・調心のこと。
- ↑ 「不依気息不依形色」。呼吸が調い、身心が調うことを「不依」という。数息観などの呼吸法を用いないとか、十六特勝や不浄観などを用いないという意味ではない。最終的に「一切の諸想を念に随って皆除き、亦た除く想も遣る」というところへ方向づけていくのである。
- ↑ 「若従坐起」。この前は坐る様式について説いてきたが、その修行法はそれ以外の行(歩く)・住(立つ、とまる)・臥(横になる).言語・作務(労働).のすべての生活様式についても応用されなければいけないことを示す。後に「若行若住若臥若起」と出る。
- ↑ 「真如三味」。 心の真如について説いたことが実現すること。真実のあり方に調い直く定まること。この三床を得て、「深く煩悩を伏し、信心が増長し、速やかに不退を成ず」るのであり、不定聚から正定聚へ入ることになるのである。真如三床を得ることが不定聚と正定聚を分ける標識であり、真如三床にもとづいて漸々に無量の三味が生ずるという。したがって、真如三昧がすべてではないことを銘記すべきである。
- ↑ 「唯除疑惑」。疑惑を含めて、以下に列記している不信・誹謗・重罪業障・我慢・懈怠などは、真如三床において処理されるという意味でもある。
- ↑ 「一行三味」。前の「一切の諸仏の法身と衆生の身とは平等にして無二」(一)ということを行ずる(行)三昧という意。『文殊般若経』(大正蔵八巻731頁上ー下)にも、「法界一相、繋縁法界、是名一行三昧」と説く。論の説は経の説を敷衍したものであろう。一般的に解されている坐禅の一行、称名の一行というような、一つの修行を専ら行ずることという意味ではないので注意を要する。新訳の「一相三昧」という表現の方がそういう誤解は生じないであろう。
- ↑ 「諸魔」。『華厳経』巻四二(大正蔵九巻663頁上)には、十種の魔を数える。五陰魔・煩悩魔・業魔・心魔・死魔・天魔・失善根魔・三味魔・善知識魔・不知菩提正法魔。『摩訶止観』 (大正蔵四六巻114頁下)の「魔事境」を参照されたい。
- ↑ 「外道鬼神」。 後に「九十五種外道鬼神」と出る。
- ↑ 「陀羅尼」。ダーラニー(dhāraņī)の音訳語。総持と訳す。記憶しやすいように短い文句に凝縮し整えられた言葉。因縁分の問答の中にも、回向偈の中にも、「総持」と出ている。
- ↑ 「外道所有三味」。例えば、仏教で説く四禅八定の禅定は、外道でも用いていた禅定であった。その違いは、見・愛・我・慢の心や、名聞・利益・恭敬に貪着する心を離れているかどうかという点で決まるというのである。
- ↑ 「世間諸禅」。智顗は『次第禅門』で、四禅・四無量心・四無色定を世間禅に分類し、六妙門・十六特勝・通明観を亦世間亦出世間禅に分類し、工夫の仕方によって世間禅とも出世間禅ともなりうるものとする。九想・八念・十想・八背捨・八勝処・十一切処(以上観)・九次第定(練)・師子奮迅三床(薫)超越三床(修)を出世間禅に数えている。『摩訶止観』(大正蔵四六巻117頁上)の「禅定境」を参照されたい。
- ↑ 「九十五種外道」。 釈尊当時のインドにおける諸学派の総称。六師の外道にそれぞれ十五種の異説の思想があり、師説と合わせて九十六種外道となったという説が有力である。ここは『大智度論』や『涅槃経』などに出る九十五種外道説を承ける。これは九十六種の中に仏道におけるものも含まれるとみて、一つを減ずる考え方である。
- ↑ 「雖未得定]。 次の「若得三味」に対する。まだ真如三味が得られなかったとしても、論によって真如の所在を正しく理解することができれば、このような功徳があるというのである。
- ↑ 「若人唯修於止」。 これまでは止を説いてきたが、ここからは観を説く。
- ↑ 「修習観者」。 以下に、有為法は無常であると観る無常観、無常なるものは苦であると観る苦観、一切諸法は無我であると観る無我観、身体があるものは不浄であると観る不浄観を示す。
- ↑ [須臾]。 ムフールタ(muhūrta)の訳。一昼夜を三十等分した、一時間に満たない短い時間の意。
- ↑ 「唯除坐時専念於止」。 坐禅のときは止に専念するというここの論の説は一面的にすぎよう。天台止観もいうように、坐禅のときも止と観の工夫があるべきはずであるからである。
- ↑ 「応作不応作」。 まさになすべきことと、まさになすべからざることと読む。善いことをし、悪いことをしないという意。
- ↑ 「若行若住若臥若起」。行(歩く)・住(立つ、とまる)・臥(横になる)・起(言語・作務などの言動)のすべての行動様式をさす。
- ↑ 「諸法自性不生」。 論の心真如門の説に対応する。
- ↑ 「因縁和合善悪之業苦楽等報不失不壊」。論の心生減門の説に対応する。
- ↑ 「娑婆世界」 サバー(sabhā)の音訳語。雑念(種々様々のものがいる)の意。また、サハー(sahā)の音訳語で、忍ぶ意と解し、堪忍土・堪忍世界と解す。種々の苦悩を耐え忍ばなけれならない世界という意。
- ↑ 「阿弥陀仏」。 アミターユス(Amitāyus)の音訳語で、無量の寿命をもつ仏の意。アミターバ(Amitābhaの音訳語で、無量の光明をもつ仏の意。この仏はこの国土から西方へ十万億の仏国土を過ぎたところにある極楽と名づけられる浄土におられるという。
- ↑ 「即得往生」。阿弥陀仏の極楽世界に生れたいと願い求めると、すぐに浄土に往って生れることができるという意。
- ↑ 「授記]。 記別を与えるという意。未来に仏に成るという確かな証明を仏から与えられること。『法華経』でくり返し説かれる重要な教説である。
- ↑ 「三千大千世界」。下は地獄から上は有頂天に至るまでを一世界とし、これが縦に千個集まって小千世界となり、この小千世界が横に千個集まって中千世界となり、これがさらに千個集まって三千大千世界になるという。この三千大千世界が一仏によって教化される範囲である。
- ↑ 「一食頃」。 一回の食事をとるぐらいの短い時間。
- ↑ 「総持」。因縁分の問答の中にも出ていた語。論が「総持の小文」をねらっていたことが、始終に一貫して表明されている。