「無量光明土」の版間の差分
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− | 御開山は、この『平等覚経』の文を「真仏土巻」で下記のように引文された。他方の無数の仏の居(いま)す無量の〔諸仏の〕光明土の意味を転じ、阿弥陀仏の浄土が無量光明の土であるとされた。「行巻」の引文([[行巻#P--145|行巻 P.145]]) | + | 御開山は、この『平等覚経』の文を「真仏土巻」で下記のように引文された。他方の無数の仏の居(いま)す無量の〔諸仏の〕光明土の意味を転じ、阿弥陀仏の浄土が無量光明の土であるとされた。「行巻」の引文([[行巻#P--145|行巻 P.145]])でも |
+ | :「若し菩薩更に願を興して 国をして我が刹の如くならしめんと欲せん。また念(おも)へらく一切人を度し 各々願はくは十方に達せしめん(若菩薩更興願 欲使国如我刹。亦念度一切人 令各願達十方)」 | ||
+ | 等の文を略することによって、阿弥陀仏の安楽国の世界は、無量光明の土であるとされておられる。[[無量淸淨平等覺經#.E7.9C.9F.E5.B7.BB.E5.BC.95.E6.96.87.286.29|(平等覚経原文)]] <br /> | ||
− | + | なお、『平等覚経』に於ける浄土は | |
+ | :「無量清浄仏、作仏してより已来、凡そ十八劫なり。所居の国を'''[[須摩提]]'''と名く。正しく西方に在り」 | ||
+ | とあるように「無量清浄仏〔阿弥陀仏〕の浄土の固有名は梵語の音写である「須摩提」である。この須摩提の梵語スカーヴァティー (sukhāvatī) の「楽あるところ」の意からから[[極楽]]ともいわれる。<br /> | ||
御開山は『平等覚経』の「無量光明土」の文を、 | 御開山は『平等覚経』の「無量光明土」の文を、 | ||
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2024年6月27日 (木) 22:16時点における最新版
『平等覚経』の原文。
若菩薩更興願 欲使国如我刹
亦念度一切人 令各願達十方
速疾超便可到 安楽国之世界。
- 若し菩薩更に願を興して 国をして我が刹の如くならしめんと欲せん。
- また念(おも)へらく一切人を度し 各々願はくは十方に達せしめん。
- すみやかに疾(と)く超えて、すなはち安楽国の世界に到るべし。
至無量光明土 供養於無数仏。
其奉事億万仏 飛変化遍諸国
恭敬已歓喜去 便還於須摩提
- 〔他方の無数の仏の〕〔諸仏の〕を追記。
御開山は、この『平等覚経』の文を「真仏土巻」で下記のように引文された。他方の無数の仏の居(いま)す無量の〔諸仏の〕光明土の意味を転じ、阿弥陀仏の浄土が無量光明の土であるとされた。「行巻」の引文(行巻 P.145)でも
- 「若し菩薩更に願を興して 国をして我が刹の如くならしめんと欲せん。また念(おも)へらく一切人を度し 各々願はくは十方に達せしめん(若菩薩更興願 欲使国如我刹。亦念度一切人 令各願達十方)」
等の文を略することによって、阿弥陀仏の安楽国の世界は、無量光明の土であるとされておられる。(平等覚経原文)
なお、『平等覚経』に於ける浄土は
- 「無量清浄仏、作仏してより已来、凡そ十八劫なり。所居の国を須摩提と名く。正しく西方に在り」
とあるように「無量清浄仏〔阿弥陀仏〕の浄土の固有名は梵語の音写である「須摩提」である。この須摩提の梵語スカーヴァティー (sukhāvatī) の「楽あるところ」の意からから極楽ともいわれる。
御開山は『平等覚経』の「無量光明土」の文を、
速疾超便可到 安楽国之世界。
至無量光明土 供養於無数仏。
- すみやかに疾(と)く超えて、すなはち安楽国の世界に到るべし。
- (阿弥陀仏の)無量光明の土に至りて、無数の仏を供養す。 (真巻 P.339)
と、このように訓(よ)むことによって、『平等覚経』の当面では、他方の無量の諸仏土の意を転じ、阿弥陀如来の安楽国土が無量の光明の土であるとされた。仏教では光とは智慧の意であり、阿弥陀の名義は智慧の光を本体とした仏であるとみられた。阿弥陀仏は、あらゆる諸仏の浄土を統摂するとの意で無量光明の土とされたのであった。
『尊号真像銘文』で「帰命尽十方無碍光如来」を釈され、
- 「無碍」といふはさはることなしとなり、さはることなしと申すは、衆生の煩悩悪業にさへられざるなり。
- 「光如来」と申すは阿弥陀仏なり、この如来はすなはち不可思議光仏と申す。(尊号 P.652)
と、無碍光-如来を「無碍」と「光如来」に分節され、阿弥陀如来を「無碍」の「光如来」とされておられるのも同じ意である。阿弥陀仏とは智慧の光の如来であるとされるのである。また、浄土とは、この阿弥陀如来のさとりの智慧によって荘厳される世界であり、土もまた智慧の世界であるということが「無量光明土」の意味であった。この阿弥陀如来の智慧の領域が「誓願一仏乗」といわれる、あらゆる仏陀を仏陀たらしめる根源であり、あらゆる衆生を救済する本願力の根源であった。そして、その智慧が慈悲として「名声聞十方」(正信念仏偈)と、称えられ聞こえる「名体不二」の、なんまんだぶという言葉であったのである。凡夫の口に称えられる〔なんまんだぶ〕を「然斯行者 出於大悲願(しかるにこの行は大悲の願(第十七願)より出でたり)」(行巻 P.141)とされる所以である。なんまんだぶとは智慧の顕現なのであった。
(35)
- 智慧の念仏うることは
- 法蔵願力のなせるなり
- 信心の智慧なかりせば
- いかでか涅槃をさとらまし (正像 P.606)
なんまんだぶ なんまんだぶ