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御開山は、『大経』<kana>往覲偈(おうごん-げ)</kana>の文([[大経下#gobutuhongwanriki|大経 P.46]])を『尊号真像銘文』で、
 
御開山は、『大経』<kana>往覲偈(おうごん-げ)</kana>の文([[大経下#gobutuhongwanriki|大経 P.46]])を『尊号真像銘文』で、
 
:「[[其仏本願力…|<kana>其仏本願力(ごぶつ-ほんがんりき)</kana> <kana>聞名欲往生(もんみょう-よくおうじょう)</kana> <kana>皆悉到彼国(かいしつ-とうひこく)</kana> <kana>自致不退転(じち-ふたいてん)</kana>]]」
 
:「[[其仏本願力…|<kana>其仏本願力(ごぶつ-ほんがんりき)</kana> <kana>聞名欲往生(もんみょう-よくおうじょう)</kana> <kana>皆悉到彼国(かいしつ-とうひこく)</kana> <kana>自致不退転(じち-ふたいてん)</kana>]]」
::「其仏本願力」といふは、弥陀の[[本願力]]と申すなり。「聞名欲往生」といふは、「聞」といふは'''如来のちかひの御なを'''信ずと申すなり、「欲往生」といふは安楽浄刹に生れんとおもへとなり。([[尊号真像銘文#P--645|尊号 P.645]])
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::「其仏本願力」といふは、弥陀の[[本願力]]と申すなり。「聞名欲往生」といふは、「聞」といふは'''如来のちかひの御なを'''信ずと申すなり、「欲往生」といふは安楽[[浄刹]]に生れんとおもへとなり。
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::「皆悉到彼国」といふは、御ちかひのみなを信じて生れんとおもふ人は、みなもれずかの浄土に到ると申す御ことなり。
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::「自致不退転」といふは、「自」はおのづからといふ、おのづからといふは衆生のはからひにあらず、しからしめて不退の位にいたらしむとなり、自然といふことばなり。「致」といふはいたるといふ、むねとすといふ、如来の本願のみなを信ずる人は、自然に不退の位にいたらしむるをむねとすべしとおもへとなり。「不退」といふは仏にかならず成るべき身と定まる位なり。これすなはち正定聚の位にいたるをむねとすべしと説きたまへる御のりなり。([[尊号真像銘文#P--645|尊号 P.645]])
  
とされておられた。また「行巻」([[行巻#no6|行巻 P.142]])、でも引文されておられた。
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とされておられた。また「行巻」([[行巻#no6|行巻 P.142]]) でも同文を引文されておられた。
 
:→[[聞名往生]]
 
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:→[[聞即信]]
 
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:→[[其仏本願力…]]
 
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:→[[称名正因]]
 
:→[[名号度生]]
 
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法然聖人は、なんまんだぶと、称えて聞こえる[[可聞可称]]の名号法を「声につきて往生の思いをなすべし」といわれていた。名というものは、耳に聞くものであり、口に称えるものであるからである。御開山が「[[六字釈]]」で「しかれば南無の言は帰命なり」とされ「ここをもつて[[帰命]]は'''[[本願招喚の勅命]]'''なり」([[行巻#P--170|行巻 P.170]]) と「浄土へ来たれと<kana>招(まね)</kana>き<kana>喚(よ)</kana>ぶ」[[招喚]]とされた所以である。→[https://www.kanjipedia.jp/kanji/0001068100 喚]<br />
 
法然聖人は、なんまんだぶと、称えて聞こえる[[可聞可称]]の名号法を「声につきて往生の思いをなすべし」といわれていた。名というものは、耳に聞くものであり、口に称えるものであるからである。御開山が「[[六字釈]]」で「しかれば南無の言は帰命なり」とされ「ここをもつて[[帰命]]は'''[[本願招喚の勅命]]'''なり」([[行巻#P--170|行巻 P.170]]) と「浄土へ来たれと<kana>招(まね)</kana>き<kana>喚(よ)</kana>ぶ」[[招喚]]とされた所以である。→[https://www.kanjipedia.jp/kanji/0001068100 喚]<br />

2024年9月21日 (土) 10:02時点における最新版

かもん-かしょう

 南無阿弥陀仏は、聞くことができて称えることができるという意。とは「」でありとは「」である。→聞即信

御開山は、『大経』往覲偈(おうごん-げ)の文(大経 P.46)を『尊号真像銘文』で、

其仏本願力(ごぶつ-ほんがんりき) 聞名欲往生(もんみょう-よくおうじょう) 皆悉到彼国(かいしつ-とうひこく) 自致不退転(じち-ふたいてん)
「其仏本願力」といふは、弥陀の本願力と申すなり。「聞名欲往生」といふは、「聞」といふは如来のちかひの御なを信ずと申すなり、「欲往生」といふは安楽浄刹に生れんとおもへとなり。
「皆悉到彼国」といふは、御ちかひのみなを信じて生れんとおもふ人は、みなもれずかの浄土に到ると申す御ことなり。
「自致不退転」といふは、「自」はおのづからといふ、おのづからといふは衆生のはからひにあらず、しからしめて不退の位にいたらしむとなり、自然といふことばなり。「致」といふはいたるといふ、むねとすといふ、如来の本願のみなを信ずる人は、自然に不退の位にいたらしむるをむねとすべしとおもへとなり。「不退」といふは仏にかならず成るべき身と定まる位なり。これすなはち正定聚の位にいたるをむねとすべしと説きたまへる御のりなり。(尊号 P.645)

とされておられた。また「行巻」(行巻 P.142) でも同文を引文されておられた。

聞名往生
聞即信
其仏本願力…
称名正因
名号度生

法然聖人は、なんまんだぶと、称えて聞こえる可聞可称の名号法を「声につきて往生の思いをなすべし」といわれていた。名というものは、耳に聞くものであり、口に称えるものであるからである。御開山が「六字釈」で「しかれば南無の言は帰命なり」とされ「ここをもつて帰命本願招喚の勅命なり」(行巻 P.170) と「浄土へ来たれと(まね)()ぶ」招喚とされた所以である。→
この、なんまんだぶと称え聞こえることを、本願招喚の勅命とされた根源は以下の法然聖人の示唆であった。

ただ心の善悪をもかへりみず、罪の軽重をもわきまへず、心に往生せんとおもひて、口に南無阿弥陀仏ととなへば、こゑについて决定往生のおもひをなすべし。その决定によりて、すなはち往生の業はさだまる也。 かく心えつればやすき也。往生は不定におもへばやがて不定なり、一定とおもへばやがて一定する事なり。 →(『和語灯録』-「往生大要鈔」)

「隠/顕」

心の善悪をもかへり見づ、つみの軽重をも沙汰せず、ただ口に南無阿弥陀仏と申せば、仏のちかひによりて、かならず往生するぞと、决定の心ををこすべき也。その決定の心によりて、往生の業はさだまる也。 往生は不定におもへば不定也。一定とおもへば一定する事也。 →(『和語灯録』-「浄土宗略抄」)


わか心のわろけれは往生はかなはじなとこそは、申あひて候めれ。そのうたかひの、やがて往生せぬ心にて候けるものを、たた心のよきわろきをも返りみず、罪のかろきをもきをも沙汰せず、心に往生せんとおもひて、口に南無阿弥陀仏ととなへて、声につきて決定往生のおもひをなすへし。その決定の心によりて、即往生の業はさだまる也。かく心うればうたがひなし。往生は不定とおもへは、やかて不定也、一定とおもへは、一定する事にて候也。 →(『拾遺語灯録』-「御消息」)


しかればたれだれも、煩悩のうすくこきおもかへりみす、罪障のかろきおもきおもさたせず、ただくちにて南無阿弥陀仏ととなえば、こゑにつきて決定往生のおもひをなすべし、決定心を、すなわち深心となづく。その信心を具しぬれば、決定して往生するなり。詮ずるところは、ただとにもかくにも、念仏して往生すといふ事をうたがはぬを、深心とはなつけて候なり。 →(『西方指南抄』「上野大胡太郎実秀への御返事」)