「親鸞」の版間の差分
提供: WikiArc
(同じ利用者による、間の2版が非表示) | |||
2行目: | 2行目: | ||
[[画像:Aal.sized.jpg|thumb|300px|親鸞聖人 熊皮の御影 ]] | [[画像:Aal.sized.jpg|thumb|300px|親鸞聖人 熊皮の御影 ]] | ||
− | (1173- | + | (1173-1262)浄土真宗の開祖。日野<kana>有範(ありのり)</kana>の長子。『御伝鈔』によれば、九歳の時に<kana>慈鎮(じちん)</kana><kana>和尚(かしょう)</kana>([[慈円]])について出家し、<kana>範宴(はんねん)</kana>と名のられたという。 |
− | + | ||
以後二十年間、[[比叡山]]で修学されたが、その間には<kana>[[常行三昧]]堂(じょうぎょうざんまいどう)</kana>の[[堂僧]]をつとめておられたとみられている。 | 以後二十年間、[[比叡山]]で修学されたが、その間には<kana>[[常行三昧]]堂(じょうぎょうざんまいどう)</kana>の[[堂僧]]をつとめておられたとみられている。 | ||
15行目: | 14行目: | ||
建長初年の頃から、関東の門弟中に法義の混乱が生じたため、息男<kana>[[慈信]]房(じしんぼう)</kana><kana>善鸞(ぜんらん)</kana>を遣わされたが、かえって異義を生じ、建長八年(1256)善鸞を義絶された。 | 建長初年の頃から、関東の門弟中に法義の混乱が生じたため、息男<kana>[[慈信]]房(じしんぼう)</kana><kana>善鸞(ぜんらん)</kana>を遣わされたが、かえって異義を生じ、建長八年(1256)善鸞を義絶された。 | ||
− | 弘長二年(1262)十一月二十八日、弟<kana>尋有(じんう)</kana> | + | 弘長二年(1262)十一月二十八日、弟<kana>尋有(じんう)</kana>の坊舎で、九十年の生涯を終えられた。なお、弘長二年の十一月二十八日は、新暦では一月十六日になるので、西暦一二六三年とする説もある<ref>親鸞聖人が入滅された日は、弘長二年十一月二十八日(グレゴリオ暦換算 1263年1月16日)である。明治五年(1872)11月9日に天保暦(太陰太陽暦、いわゆる旧暦)から新暦(グレゴリオ暦、後にユリウス暦)に移行したので、宗派により、[[報恩講]]を旧暦の日付で行われる場合(11月28日)と新暦に換算した1月16日に営まれる場合がある。(明治六年(1973)の十一月二十八日は、新暦に換算すれば1月16日に当たる)<br /> |
+ | このため、御開山の入滅を旧暦で1262年と表記する場合と1263年と表記する場合がある。</ref>。その撰述は、主著『教行信証』をはじめとして、『<kana>文類聚鈔(もんるいじゅしょう)</kana>』『<kana>愚禿鈔(ぐとくしょう)</kana>』『二門偈』『三帖和讃』『三経往生文類』『銘文』『一多証文』『唯信鈔文意』など数多い。 | ||
{{Copyright}} | {{Copyright}} | ||
+ | ---- | ||
+ | '''<kana>御開山(ごかいさん)</kana>'''とは、宗派の開祖を敬って言う呼び方で、特に浄土真宗では開祖である親鸞聖人のことを指す。<br /> | ||
+ | ただ、親鸞聖人自身は自らが開祖といふ意識はなく、浄土真宗を開かれた開祖は法然聖人であると思われておられた。<br /> | ||
+ | (99)<br /> | ||
+ | 智慧光のちからより<br /> | ||
+ | 本師源空あらはれて<br /> | ||
+ | 浄土真宗をひらきつつ<br /> | ||
+ | 選択本願のべたまふ ([[高僧和讃#no99|高僧 P.595]])<br /> | ||
+ | |||
+ | と、讃詠されておられた。 | ||
+ | :→[[トーク:浄土真宗]] | ||
---- | ---- |
2024年2月27日 (火) 18:19時点における最新版
しんらん
(1173-1262)浄土真宗の開祖。日野
以後二十年間、比叡山で修学されたが、その間には
建仁元年(1201)二十九歳の時、比叡山を下り、六角堂に参篭し、九十五日の暁、聖徳太子の夢告をうけて、吉水に法然上人を訪ね、その門弟となられた。元久元年(1204)比叡山の圧力に対して法然上人が提出された「
翌元久二年(1205)『
建永二年(承元元年・1207)念仏弾圧によって、法然上人や同輩数名とともに罪せられ、越後(現在の新潟県)に流された。恵信尼公と結ばれたのはこの地であったといわれる。建暦元年(1211)
建長初年の頃から、関東の門弟中に法義の混乱が生じたため、息男
弘長二年(1262)十一月二十八日、弟
『浄土真宗聖典(注釈版)七祖篇』本願寺出版社
区切り線以下の文章は各投稿者の意見であり本願寺派の見解ではありません。
ただ、親鸞聖人自身は自らが開祖といふ意識はなく、浄土真宗を開かれた開祖は法然聖人であると思われておられた。
(99)
智慧光のちからより
本師源空あらはれて
浄土真宗をひらきつつ
選択本願のべたまふ (高僧 P.595)
と、讃詠されておられた。