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がんじょう
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がんじょう (1048-1116)
  
 (1048-1116)北宋代、<kana>余杭(よこう)</kana>(現在の浙江省杭州)の人。<kana>字(あざな)</kana>は<kana>湛然(たんねん)</kana>、<kana>大智律師(だいちりっし)</kana>と呼ばれる。
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 北宋代、<kana>余杭(よこう)</kana> (現在の浙江省杭州) の人。<kana>字(あざな)</kana>は<kana>湛然(たんねん)</kana>、<kana>大智律師(だいちりっし)</kana>と呼ばれる。
  
 
はじめ天台を学び、のち律宗に帰して『行事鈔資持記』十六巻を著したが、晩年病にかかり自らの微力を知って深く浄土教に帰依した。『観無量寿経義疏』三巻『[[阿弥陀経義疏]]』一巻を著し、[[念仏往生]]をすすめた。
 
はじめ天台を学び、のち律宗に帰して『行事鈔資持記』十六巻を著したが、晩年病にかかり自らの微力を知って深く浄土教に帰依した。『観無量寿経義疏』三巻『[[阿弥陀経義疏]]』一巻を著し、[[念仏往生]]をすすめた。
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 元照律師は、死後の安楽を願わず、何度も苦の娑婆へ生まれ変わって衆生を救済したいとの大乗菩薩の願いをもっており、当初は浄土教を見下していた。
 
 元照律師は、死後の安楽を願わず、何度も苦の娑婆へ生まれ変わって衆生を救済したいとの大乗菩薩の願いをもっており、当初は浄土教を見下していた。
 
しかし、自分が病に倒れてから、このまま死んでは全てを忘れてしまう「[[分段生死]]」でしかない己の現実に気付いて浄土教に帰したといわれる。<br />
 
しかし、自分が病に倒れてから、このまま死んでは全てを忘れてしまう「[[分段生死]]」でしかない己の現実に気付いて浄土教に帰したといわれる。<br />
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浄土往生を願うのは、自らの往生だけを願うのではなく、衆生済度の為に浄土を願生するのである意を『淨土十疑論』の以下の文に触発されたのであった。
 
浄土往生を願うのは、自らの往生だけを願うのではなく、衆生済度の為に浄土を願生するのである意を『淨土十疑論』の以下の文に触発されたのであった。
 
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凡夫無力、唯得專念阿彌陀佛、使成三昧。以業成故、臨終斂念得生、決定不疑。見彌陀佛、證無生忍已、還來三界、乘無生忍船、救苦衆生、廣施佛事、任意自在。
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明往生意者、所以求生浄土、為欲救抜一切衆生苦故。
:凡夫は力無し、唯だ専ら阿弥陀仏を念ずるを得て、三昧を成ぜしめ、業成ずるをもっての故に、臨終に念を斂(おさ)めて生を得ん。決定して疑わず。弥陀仏を見たてまつり、無生忍を証し已りて、三界に還来し、無生忍の船に乗じて、苦の衆生を救ふ。広く仏事を施すこと、意に任せて自在なり。
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故論云、遊戲地獄、行者生彼國、得無生忍已、還入生死國、教化地獄、救苦衆生、以是因縁、求生淨土、願識其教、故『十住婆沙論』、名易行道也。
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:往生の意をあかすとは、浄土に生れんと求むる所以は一切衆生の苦を救抜せんと欲ふがゆゑなり。
:故に論に云く、地獄に遊戯する行者とは、彼の国に生れて無生忍を得已り、還りて生死国に入りて、地獄の苦の衆生を教化し救う。この因縁をもって、浄土に生を求む、願くばその教を識らん、故に『十住婆沙論』に、易行道と名づく也。([[hwiki:淨土十疑論#淨土十疑論|淨土十疑論]])
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即自思忖、我今無力、若在悪世、煩悩境強自為業縛、淪溺三塗動経劫数、如此輪転、無始已来未曽休息、何時能得救苦衆生?
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:すなはちみづから思忖すらく、〈われいま力なし。 もし悪世に在りて、煩悩の境強く、みづから業縛せられて三塗に淪溺し、ややもすれば数劫を経ん。 かくのごとく輪転して、無始よりこのかたいまだかつて休息せず。 いづれの時にか、よく衆生の苦を救ふことを得ん〉と。
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為此求生浄土親近諸仏、若証無生忍、方能於悪世中救苦衆生。
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:これがために、浄土に生れて諸仏に親近し、無生忍を証して、まさによく悪世のなかにして、衆生の苦を救はんことを求むるなり」と。
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故『往生論』云。言発菩提心者、正是願作仏心、願作仏心者、則是度衆生心、度衆生心者、則是摂衆生生仏国心。
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:故に『往生論』に云く、菩提心者を発すと言ふは、正しくこれ願作仏心なり、願作仏心とは、則ちこれ度衆生心なり、度衆生心とは、則ちこれ衆生を摂して仏国に生ぜしむる心なり。([[hwiki:淨土十疑論#淨土十疑論|淨土十疑論]])
 
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その意を痛み述懐を『阿弥陀経義疏』に、
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その浄土教を見下していた意を痛み『阿弥陀経義疏』に、
 
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:嗟乎 識昏障厚信寡疑多。貶淨業爲權乘。嗤誦持爲麁行。豈非耽湎朽宅 自甘永劫之沈迷。悖戻慈親 深痛一生之虚喪。須信非憑他力 截業惑以無期。不遇此門脱生死而無路。<br>
 
:嗟乎 識昏障厚信寡疑多。貶淨業爲權乘。嗤誦持爲麁行。豈非耽湎朽宅 自甘永劫之沈迷。悖戻慈親 深痛一生之虚喪。須信非憑他力 截業惑以無期。不遇此門脱生死而無路。<br>
::ああ、識昏く障り厚く信寡く疑多きは、浄業を貶しめて権乗となし。誦持を嗤いて麁行となす。あに朽宅に耽湎し自から永劫の沈迷に甘んずること非らんや。慈親に戻り悖(そむ)き深く痛むこと一生の虚喪なり。信ずべし、'''他力'''を憑みて、業惑を截(き)るに非ざれば以って期すること無し。この門に遇わざれば生死を脱するに路無し。([[hwiki:阿弥陀經義疏|阿弥陀經義疏]])
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::ああ、識昏く障り厚く信<kana>寡(すくな)</kana>く疑多きは、[[浄業]]を貶しめて権乗となし。誦持を嗤いて麁行となす。あに朽宅に耽湎し自から永劫の沈迷に甘んずること非らんや。慈親に[[EXC:悖戻|悖戻]]し深く痛むこと一生の虚喪なり。信ずべし、'''他力'''を憑みて、業惑を截(き)るに非ざれば以って期すること無し。この門に遇わざれば生死を脱するに路無し。([[阿弥陀經義疏]])
 
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[[Category:巻末註]]
 
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2024年3月26日 (火) 17:57時点における最新版

がんじょう (1048-1116)

 北宋代、余杭(よこう) (現在の浙江省杭州) の人。(あざな)湛然(たんねん)大智律師(だいちりっし)と呼ばれる。

はじめ天台を学び、のち律宗に帰して『行事鈔資持記』十六巻を著したが、晩年病にかかり自らの微力を知って深く浄土教に帰依した。『観無量寿経義疏』三巻『阿弥陀経義疏』一巻を著し、念仏往生をすすめた。

出典(教学伝道研究センター編『浄土真宗聖典(注釈版)第二版』本願寺出版社
『浄土真宗聖典(注釈版)七祖篇』本願寺出版社

区切り線以下の文章は各投稿者の意見であり本願寺派の見解ではありません。

◆ 参照読み込み (transclusion) JDS:元照

がんじょう/元照

宋・慶暦八年(一〇四八)—政和六年(一一一六)。大智律師。余杭銭塘(浙江省杭州市)の人。杭州の西湖東岸の霊芝れいし崇福寺に三〇年間居住。父の唐氏、母の竺氏ともに奉仏者。幼年で杭州祥符寺の慧(恵)鑑律師に師事して律蔵を学ぶ。その後、桐江択瑛とともに神悟処謙に師事して天台教学を学ぶも、再び戒律の研究に専心し、道宣の南山律を再興し南山律宗の一六祖と仰がれる。若い頃には浄土教に否定的であったが、三〇代半ば、重病にかかり死後の不安を感じて浄土教帰依した。以来、戒律浄土教の研鑽と教化に励んだ。戒律浄土教を中心に仏教関係、さらには儒教関係、また出家僧の行業記・墓塔銘、在家信者の墓誌銘など多数の長短の著作があり、そのうち一〇〇篇前後が現存する。元照の基本的な立場は、戒律浄土教の双修・融合であり、常にそれを意識して教化していた。その浄土教の特色としては、天台智顗に仮託される『十疑論』の所説を重視するが、それと並行して善導の『観経疏』玄義分と『往生礼讃』の所説を受容して、阿弥陀仏本願による易行の称名念仏凡夫に勧めている。宋代において善導に注目しその思想を受容した点は中国浄土教史の上で注目される。元照戒律思想は鎌倉期以後の律学に大きな影響を与え、その浄土教は、凝然『三国仏法伝通縁起』上によると、入宋した俊芿しゅんじょう(一一六六—一二二七)が日本に伝えたという。そして法然の門流の諸師に注目され、証空聖光良忠に引用があり、とくに長西親鸞に影響が顕著である。


【参考】高雄義堅『宋代仏教史の研究』(百華苑、一九七五)、石田充之「親鸞における浄土の問題」(印仏研究二四—一、一九七五)、日置孝彦「霊芝元照の浄土教思想」(印仏研究二四—二、一九七六)、佐藤成順『宋代仏教の研究—元照の浄土教』(山喜房仏書林、二〇〇一)


【参照項目】➡阿弥陀経義疏観無量寿仏経義疏芝園集


【執筆者:佐藤成順】


 元照律師は、死後の安楽を願わず、何度も苦の娑婆へ生まれ変わって衆生を救済したいとの大乗菩薩の願いをもっており、当初は浄土教を見下していた。 しかし、自分が病に倒れてから、このまま死んでは全てを忘れてしまう「分段生死」でしかない己の現実に気付いて浄土教に帰したといわれる。
それには、伝智顗撰(伝とは智顗撰として伝えられているという意で真撰ではないということ)とされる『淨土十疑論』が多大な影響を及ぼしたのであろう。 浄土往生を願うのは、自らの往生だけを願うのではなく、衆生済度の為に浄土を願生するのである意を『淨土十疑論』の以下の文に触発されたのであった。

明往生意者、所以求生浄土、為欲救抜一切衆生苦故。

往生の意をあかすとは、浄土に生れんと求むる所以は一切衆生の苦を救抜せんと欲ふがゆゑなり。

即自思忖、我今無力、若在悪世、煩悩境強自為業縛、淪溺三塗動経劫数、如此輪転、無始已来未曽休息、何時能得救苦衆生?

すなはちみづから思忖すらく、〈われいま力なし。 もし悪世に在りて、煩悩の境強く、みづから業縛せられて三塗に淪溺し、ややもすれば数劫を経ん。 かくのごとく輪転して、無始よりこのかたいまだかつて休息せず。 いづれの時にか、よく衆生の苦を救ふことを得ん〉と。

為此求生浄土親近諸仏、若証無生忍、方能於悪世中救苦衆生。

これがために、浄土に生れて諸仏に親近し、無生忍を証して、まさによく悪世のなかにして、衆生の苦を救はんことを求むるなり」と。

故『往生論』云。言発菩提心者、正是願作仏心、願作仏心者、則是度衆生心、度衆生心者、則是摂衆生生仏国心。

故に『往生論』に云く、菩提心者を発すと言ふは、正しくこれ願作仏心なり、願作仏心とは、則ちこれ度衆生心なり、度衆生心とは、則ちこれ衆生を摂して仏国に生ぜしむる心なり。(淨土十疑論)

その浄土教を見下していた意を痛み『阿弥陀経義疏』に、

嗟乎 識昏障厚信寡疑多。貶淨業爲權乘。嗤誦持爲麁行。豈非耽湎朽宅 自甘永劫之沈迷。悖戻慈親 深痛一生之虚喪。須信非憑他力 截業惑以無期。不遇此門脱生死而無路。
ああ、識昏く障り厚く信(すくな)く疑多きは、浄業を貶しめて権乗となし。誦持を嗤いて麁行となす。あに朽宅に耽湎し自から永劫の沈迷に甘んずること非らんや。慈親に悖戻し深く痛むこと一生の虚喪なり。信ずべし、他力を憑みて、業惑を截(き)るに非ざれば以って期すること無し。この門に遇わざれば生死を脱するに路無し。(阿弥陀經義疏)

と、述懐されていたのである。

浄土十疑論
阿弥陀經義疏