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<kana>[[阿毘跋致]](あびばっち)</kana>・<kana>[[阿惟越致]](あゆいおっち)</kana>などともいう。菩薩の修道が進んで仏になることが定まり、再び[[悪趣]]や二乗や凡夫の位に退歩したり、さとったところの菩薩の地位や法を失わないこと、また、その位をいう。
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<kana>[[阿毘跋致]](あびばっち)</kana>・<kana>[[阿惟越致]](あゆいおっち)</kana>などともいう。菩薩の修道が進んで仏になることが定まり、再び[[悪趣]]や[[二乗]]や[[凡夫]]の位に退歩したり、さとったところの菩薩の地位や法を失わないこと、また、その位をいう。<br />
一般には、位、行、念の三不退説、信、位、証、行の四不退説が説かれるが、源信は『往生要集』([[往生要集下巻 (七祖)#P--1122|要集 P.1122]]) において、往生の階位を論じるなか、三不退に[[処不退]]を加え、西方浄土を[[処不退]](仏道修行より退転する悪縁のないところ)としている。<br />
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一般には、位、行、念の[[三不退]]説、信、位、証、行の[[JDS:四不退|四不退]]説が説かれるが、源信は『往生要集』([[往生要集下巻 (七祖)#P--1122|要集 P.1122]]) において、往生の階位を論じるなか、三不退に[[処不退]]を加え、西方浄土を[[処不退]](仏道修行より退転する悪縁のないところ)としている。<br />
 
親鸞は、第十八願成就文の「すなはち往生を得、不退転に住せん([[即得往生|即得往生住不退転]])」([[大経下#P--41|大経 P.41]])を、真実信心の念仏者が現生において得る[[正定聚]]の利益とみている。 →[[正定聚]]、→[[阿毘跋致]](浄土真宗辞典)
 
親鸞は、第十八願成就文の「すなはち往生を得、不退転に住せん([[即得往生|即得往生住不退転]])」([[大経下#P--41|大経 P.41]])を、真実信心の念仏者が現生において得る[[正定聚]]の利益とみている。 →[[正定聚]]、→[[阿毘跋致]](浄土真宗辞典)
 
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#証不退 初地以上の菩薩が証った法を退失しないこと。
 
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#行不退 八地以上の菩薩が有為と無為の行をみなよく修めて退転しないこと。
 
#行不退 八地以上の菩薩が有為と無為の行をみなよく修めて退転しないこと。
などの三不退説や四不退説などを説く。源信僧都は『西方要決』の説によって、浄土は仏道修行から退転する悪縁のない処であるとして、「[[処不退]]」をあかした。([[往生要集下巻 (七祖)#P--1122|要集 P.1122]])
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などの三不退説や四不退説などを説く。源信僧都は『[[西方要決]]』の説によって、浄土は仏道修行から退転する悪縁のない処であるとして、「[[処不退]]」をあかした。([[往生要集下巻 (七祖)#P--1122|要集 P.1122]])
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浄土真宗では、真実の信心を得た者は現生(此の世)において正定聚の位について、必ず仏果に至ることに定まると説き、これを現生不退(現生正定聚)という。<br />
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浄土真宗では、真実の信心を得た者は現生(此の世)において[[正定聚]]の位について、必ず仏果に至ることに定まると説き、これを現生不退([[現生正定聚]])という。<br />
  
御開山の不退説の根拠となった釈文は、『讃阿弥陀仏偈』の、
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御開山の不退説の根拠となった釈文は、『[[讃阿弥陀仏偈]]』の、
 
:聞阿弥陀不復退 是故至心稽首礼
 
:聞阿弥陀不復退 是故至心稽首礼
::阿弥陀を聞けば、また退かず。このゆゑに心を至して稽首し礼したてまつる。([[讃阿弥陀仏偈 (七祖)#P--170|讃弥陀偈 P.170]])
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::阿弥陀を聞けば、また'''退かず'''。このゆゑに心を至して稽首し礼したてまつる。([[讃阿弥陀仏偈 (七祖)#P--170|讃弥陀偈 P.170]])
 
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や、往生礼讃の、
 
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:真形光明遍法界 蒙光触者心不退
::真形の光明法界にあまねし、光触を蒙るものは心退せず。 ([[往生礼讃 (七祖)#P--701|往生礼讃 P.701]])
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の「心不退説」であるといわれている。すなわち、
 
の「心不退説」であるといわれている。すなわち、
:真実信心の行人は、摂取不捨のゆゑに正定聚の位に住す。([[消息上#P--735|御消息 P.735]])
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:真実信心の'''行人'''は、摂取不捨のゆゑに正定聚の位に住す。([[消息上#P--735|御消息 P.735]])
という、阿弥陀如来の摂取不捨による「信心不退転」である。
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という、阿弥陀如来の[[念仏衆生摂取不捨]]による「信心不退転」である。
  
 
:→[[正定聚]]
 
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2024年7月4日 (木) 05:44時点における最新版

ふたいてん

 【左訓】「ほとけになるまでといふ」→阿毘跋致 (あびばっち) (一多 P.680)

出典(教学伝道研究センター編『浄土真宗聖典(注釈版)第二版』本願寺出版社
『浄土真宗聖典(注釈版)七祖篇』本願寺出版社

区切り線以下の文章は各投稿者の意見であり本願寺派の見解ではありません。

不退転

阿毘跋致(あびばっち)阿惟越致(あゆいおっち)などともいう。菩薩の修道が進んで仏になることが定まり、再び悪趣二乗凡夫の位に退歩したり、さとったところの菩薩の地位や法を失わないこと、また、その位をいう。
一般には、位、行、念の三不退説、信、位、証、行の四不退説が説かれるが、源信は『往生要集』(要集 P.1122) において、往生の階位を論じるなか、三不退に処不退を加え、西方浄土を処不退(仏道修行より退転する悪縁のないところ)としている。
親鸞は、第十八願成就文の「すなはち往生を得、不退転に住せん(即得往生住不退転)」(大経 P.41)を、真実信心の念仏者が現生において得る正定聚の利益とみている。 →正定聚、→阿毘跋致(浄土真宗辞典)

聖道門では、不退転(正定聚)の階位を菩薩の修道階梯の種々に配当するのだが、御開山の用いられる三定聚説は「願海真仮論」によるのであって聖道門の五十二位説と混同してはならない。→「願海真仮論
以下の画像は『菩薩瓔珞本業経』の菩薩の五十二位説を示す。

『菩薩瓔珞本業経』の菩薩の階位
三不退説

吉蔵の法華義疏巻二の説

  1. 位不退 十住位の第七住以上の菩薩が二乘地へ退転しないこと。
  2. 行不退 十地のうち、第七地の菩薩が修行した行から退転しないこと。
  3. 念不退 第八地以上の菩薩が無功用の道に入り念が不動であること。
四不退説

法相唯識の祖、窺基(慈恩大師)法華玄賛巻二の説

  1. 信不退 十信位のうち、第六信以上の菩薩が再び邪見を起こさないこと。
  2. 位不退 十住位の第七住以上の菩薩が二乘地へ退転しないこと。
  3. 証不退 初地以上の菩薩が証った法を退失しないこと。
  4. 行不退 八地以上の菩薩が有為と無為の行をみなよく修めて退転しないこと。

などの三不退説や四不退説などを説く。源信僧都は『西方要決』の説によって、浄土は仏道修行から退転する悪縁のない処であるとして、「処不退」をあかした。(要集 P.1122)

現生正定聚

浄土真宗では、真実の信心を得た者は現生(此の世)において正定聚の位について、必ず仏果に至ることに定まると説き、これを現生不退(現生正定聚)という。

御開山の不退説の根拠となった釈文は、『讃阿弥陀仏偈』の、

聞阿弥陀不復退 是故至心稽首礼
阿弥陀を聞けば、また退かず。このゆゑに心を至して稽首し礼したてまつる。(讃弥陀偈 P.170)

や、往生礼讃の、

真形光明遍法界 蒙光触者心不退
真形の光明法界にあまねし、光触を蒙るものは心退せず。 (往生礼讃 P.701)

の「心不退説」であるといわれている。すなわち、

真実信心の行人は、摂取不捨のゆゑに正定聚の位に住す。(御消息 P.735)

という、阿弥陀如来の念仏衆生摂取不捨による「信心不退転」である。

正定聚
位行念の三不退