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念観両宗(ねんかん-りょうしゅう)。
 
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:いまこの『観経』はすなはち[[観仏三昧]]をもつて宗とす、また[[念仏三昧]]をもつて宗とす。([[化巻本#念観両宗|化巻 P.383]])
  
 
 一つの経典に「[[観仏三昧]]をもつて宗とす」、「[[念仏三昧]]をもつて宗とす」、という一経両宗の説相から『観経』に[[隠顕]]をみられたのではなかろうか、と聴いた。 ([[化巻本#念観両宗|化巻 P.383]])
 
 一つの経典に「[[観仏三昧]]をもつて宗とす」、「[[念仏三昧]]をもつて宗とす」、という一経両宗の説相から『観経』に[[隠顕]]をみられたのではなかろうか、と聴いた。 ([[化巻本#念観両宗|化巻 P.383]])
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しかるに、この「観仏三昧為宗 亦以念仏三昧為宗」の文を「観」という観仏と「念」という念仏(なんまんだぶ)の法門が示されているとみられたのは法然聖人であった。それは散善義で『観経』の結論を、
 
しかるに、この「観仏三昧為宗 亦以念仏三昧為宗」の文を「観」という観仏と「念」という念仏(なんまんだぶ)の法門が示されているとみられたのは法然聖人であった。それは散善義で『観経』の結論を、
 
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:上来定散両門の益を説くといへども、仏の本願に望むるに、意、衆生をして一向にもつぱら弥陀仏の名を称せしむるにあり。([[観経疏 散善義 (七祖)#P--500|散善義 P.500]])
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と「観」を廃し称名一行を付属されたとする善導大師の釈によって、玄義分の文を理解されたから、一経に二宗が説かれているとみられたのであった。その意を『選択本願念仏集』で、
 
と「観」を廃し称名一行を付属されたとする善導大師の釈によって、玄義分の文を理解されたから、一経に二宗が説かれているとみられたのであった。その意を『選択本願念仏集』で、
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と『大経』の第十八願に拠って『観経』の「念仏三昧為宗」を解釈されておられた。
 
と『大経』の第十八願に拠って『観経』の「念仏三昧為宗」を解釈されておられた。
  
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2023年8月7日 (月) 20:38時点における最新版

いまこのかんぎょうは…

念観両宗(ねんかん-りょうしゅう)。

いまこの『観経』はすなはち観仏三昧をもつて宗とす、また念仏三昧をもつて宗とす。(化巻 P.383)

 一つの経典に「観仏三昧をもつて宗とす」、「念仏三昧をもつて宗とす」、という一経両宗の説相から『観経』に隠顕をみられたのではなかろうか、と聴いた。 (化巻 P.383)

『観経疏』玄義分に、

今此『観経』即以観仏三昧為宗亦以念仏三昧為宗。
いまこの『観経』はすなはち観仏三昧をもつて宗とし、念仏三昧をもつて宗となす。
一心回願 往生浄土 為体。
一心に回願して浄土に往生するを体となす。(玄義分P.305)

とあり、善導大師の当分では観仏三昧をまた念仏三昧とも云うの意で同じ法門とみておられた。一経に二宗が説かれることはないからである。
しかるに、この「観仏三昧為宗 亦以念仏三昧為宗」の文を「観」という観仏と「念」という念仏(なんまんだぶ)の法門が示されているとみられたのは法然聖人であった。それは散善義で『観経』の結論を、

上来定散両門の益を説くといへども、仏の本願に望むるに、意、衆生をして一向にもつぱら弥陀仏の名を称せしむるにあり。(散善義 P.500)

と「観」を廃し称名一行を付属されたとする善導大師の釈によって、玄義分の文を理解されたから、一経に二宗が説かれているとみられたのであった。その意を『選択本願念仏集』で、

就中同疏の「玄義分」のなかにいはく、「この経は観仏三昧を宗となし、または念仏三昧を宗となす」と。すでに二行をもつて一経の宗となす。なんぞ観仏三昧を廃して念仏三昧を付属するや。
答へていはく、「仏の本願に望むるに、意、衆生をして一向にもつぱら弥陀仏の名を称せしむるにあり」(散善義)といふ。定散の諸行は本願にあらず。ゆゑにこれを付属せず。
またそのなかにおいて、観仏三昧は殊勝の行といへども、仏の本願にあらず。ゆゑに付属せず。念仏三昧はこれ仏の本願なるがゆゑに、もつてこれを付属す。
「仏の本願に望む」といふは、『双巻経』(大経)の四十八願のなかの第十八の願を指す。選択集P.1270
と『大経』の第十八願に拠って『観経』の「念仏三昧為宗」を解釈されておられた。