「「如来」と申すは…」の版間の差分
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− | + | 『無量寿経』で[[禅定]](弥陀三昧)に入られている釈尊のお姿が光り輝き、あまりにも気高いので従者の[[阿難]]が、「今日世尊、[[諸根悦予]]し、姿色清浄にして[[光顔巍々]]とまします」[[仏説_無量寿経_(巻上)#no3|(*)]]と、釈尊は今日は<ref>日本語の「こんにちは」の出拠であるともいわれている。</ref>どうしてこのような勝れたお姿を現されるのでしょうか、という問いに答えられた釈尊の応答の文が、 | |
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− | + | 御開山は、この文で、釈迦という固有名詞ではなく如来という一般名詞が使われているから、この一段は釈尊だけでなくあらゆる諸仏を指す意とみられた。すべての仏(如来)の出世の本懐は阿弥陀仏の本願を説くことである。釈尊はその本願を説くために、この[[娑婆]]世界において阿弥陀仏の本願を説く『大無量寿経』を説かれたとみられたのである。大利である名号と小利である諸善を対判し、 | |
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:大利といふは小利に対せるの言なり。無上といふは有上に対せるの言なり。まことに知んぬ、大利無上は一乗真実の利益なり。小利有上はすなはちこれ八万四千の仮門なり。([[行巻#no77|行巻 P.188]]) | :大利といふは小利に対せるの言なり。無上といふは有上に対せるの言なり。まことに知んぬ、大利無上は一乗真実の利益なり。小利有上はすなはちこれ八万四千の仮門なり。([[行巻#no77|行巻 P.188]]) | ||
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− | + | と、八万四千の法門は仮門であるとされた所以である。→[[八万四千の法門]]<br /> | |
+ | 浄土教を非難した『興福寺奏状』には「第三に釈尊を軽んずる失」([[興福寺奏状]])が挙げられているが、この難に対する御開山の応答でもあろう。 | ||
「正信念仏偈」の「如来所以興出世 唯説弥陀本願海(如来、世に興出したまふゆゑは、ただ弥陀の本願海を説かんとなり)」の如来の二字は、当初は釈迦とされていたが如来と書き改められたのもその意である。(原典版校異p.120)<br /> | 「正信念仏偈」の「如来所以興出世 唯説弥陀本願海(如来、世に興出したまふゆゑは、ただ弥陀の本願海を説かんとなり)」の如来の二字は、当初は釈迦とされていたが如来と書き改められたのもその意である。(原典版校異p.120)<br /> | ||
− | + | 近代の仏教では二千五百年前にインドに誕生された釈尊を、仏教の開祖として重視する。しかし御開山の意では、釈尊は阿弥陀仏の[[第十七願]]に応じて出現され[[阿弥陀仏]]の[[本願]]を説かれた諸仏のひとりであるとみられていたのであった。『尊号真像銘文』([[尊号真像銘文#P--671|尊号 P.671]])や『一念多念証文』([[一多#no18|一多 P.689]])で釈尊を「如来と申すは諸仏を申すなり」、とされた所以である。『歎異抄』では「弥陀の本願まことにおはしまさば、釈尊の説教虚言なるべからず」とあるように、阿弥陀仏の本願が浄土真宗の淵源であった。<ref>御開山は『浄土和讃』の「諸経讃」で、<br /> | |
+ | 久遠実成阿弥陀仏<br /> | ||
+ | 五濁の凡愚をあはれみて<br /> | ||
+ | 釈迦牟尼仏としめしてぞ<br /> | ||
+ | 迦耶城には応現する ([[浄土和讃#no88|浄土 P.572]])<br /> | ||
+ | とされて釈尊を阿弥陀仏がこの世界に顕現した如来とみられている場合もある。</ref> | ||
なお、『大経』の文は「所以出興於世 光闡道教 欲拯群萌 恵以真実之利(世に出興するゆゑは、道教を光闡して群萌を拯ひ、恵むに真実の利をもつてせんと欲してなり)」であるが、『一念多念証文』での引文では「光闡道教」の文を省略されておられる。これは、道教は仏道全体をあらわす語であり、八万四千の法門の余に説かれた、なんまんだぶの真実の利を示すには、ふさわしくないとみられたからであろう。 | なお、『大経』の文は「所以出興於世 光闡道教 欲拯群萌 恵以真実之利(世に出興するゆゑは、道教を光闡して群萌を拯ひ、恵むに真実の利をもつてせんと欲してなり)」であるが、『一念多念証文』での引文では「光闡道教」の文を省略されておられる。これは、道教は仏道全体をあらわす語であり、八万四千の法門の余に説かれた、なんまんだぶの真実の利を示すには、ふさわしくないとみられたからであろう。 | ||
+ | :→[[五徳瑞現]] | ||
:→[[八万四千の法門]] | :→[[八万四千の法門]] | ||
:→[[誓願一仏乗]] | :→[[誓願一仏乗]] |
2024年9月21日 (土) 20:49時点における最新版
「にょらい」と もうすは 諸仏を申すなり。
阿弥陀仏の本願の救いを説くのは、釈尊だけでなく、すべての仏の出世の本意であるということを示す。 (尊号 P.671,一多 P.689)
『浄土真宗聖典(注釈版)七祖篇』本願寺出版社
区切り線以下の文章は各投稿者の意見であり本願寺派の見解ではありません。
『無量寿経』で禅定(弥陀三昧)に入られている釈尊のお姿が光り輝き、あまりにも気高いので従者の阿難が、「今日世尊、諸根悦予し、姿色清浄にして光顔巍々とまします」(*)と、釈尊は今日は[1]どうしてこのような勝れたお姿を現されるのでしょうか、という問いに答えられた釈尊の応答の文が、
- 如来所以 興出於世 欲拯群萌 恵以真実之利
- 如来、世に興出したまふゆゑは群萌を
拯 ひ、恵むに真実の利をもつてせんと欲してなり。(大経 P.9,教巻で引文 P.136)
- 如来、世に興出したまふゆゑは群萌を
である。 御開山は、この文で、釈迦という固有名詞ではなく如来という一般名詞が使われているから、この一段は釈尊だけでなくあらゆる諸仏を指す意とみられた。すべての仏(如来)の出世の本懐は阿弥陀仏の本願を説くことである。釈尊はその本願を説くために、この娑婆世界において阿弥陀仏の本願を説く『大無量寿経』を説かれたとみられたのである。大利である名号と小利である諸善を対判し、
- 大利といふは小利に対せるの言なり。無上といふは有上に対せるの言なり。まことに知んぬ、大利無上は一乗真実の利益なり。小利有上はすなはちこれ八万四千の仮門なり。(行巻 P.188)
と、八万四千の法門は仮門であるとされた所以である。→八万四千の法門
浄土教を非難した『興福寺奏状』には「第三に釈尊を軽んずる失」(興福寺奏状)が挙げられているが、この難に対する御開山の応答でもあろう。
「正信念仏偈」の「如来所以興出世 唯説弥陀本願海(如来、世に興出したまふゆゑは、ただ弥陀の本願海を説かんとなり)」の如来の二字は、当初は釈迦とされていたが如来と書き改められたのもその意である。(原典版校異p.120)
近代の仏教では二千五百年前にインドに誕生された釈尊を、仏教の開祖として重視する。しかし御開山の意では、釈尊は阿弥陀仏の第十七願に応じて出現され阿弥陀仏の本願を説かれた諸仏のひとりであるとみられていたのであった。『尊号真像銘文』(尊号 P.671)や『一念多念証文』(一多 P.689)で釈尊を「如来と申すは諸仏を申すなり」、とされた所以である。『歎異抄』では「弥陀の本願まことにおはしまさば、釈尊の説教虚言なるべからず」とあるように、阿弥陀仏の本願が浄土真宗の淵源であった。[2]
なお、『大経』の文は「所以出興於世 光闡道教 欲拯群萌 恵以真実之利(世に出興するゆゑは、道教を光闡して群萌を拯ひ、恵むに真実の利をもつてせんと欲してなり)」であるが、『一念多念証文』での引文では「光闡道教」の文を省略されておられる。これは、道教は仏道全体をあらわす語であり、八万四千の法門の余に説かれた、なんまんだぶの真実の利を示すには、ふさわしくないとみられたからであろう。