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 宗と教え、また、宗の教えの意で'''仏教'''のもろもろの教え、あるいはその中の一つを指していう。明治時代以降はレリジョン(religion)の訳語として、仏教やキリスト教などを包括的に示す意が一般的となった。 → [[宗]] → [[教]] (浄土真宗辞典)
 
 宗と教え、また、宗の教えの意で'''仏教'''のもろもろの教え、あるいはその中の一つを指していう。明治時代以降はレリジョン(religion)の訳語として、仏教やキリスト教などを包括的に示す意が一般的となった。 → [[宗]] → [[教]] (浄土真宗辞典)
 
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2024年11月5日 (火) 16:28時点における最新版

しゅう-きょう

 宗と教え、また、宗の教えの意で仏教のもろもろの教え、あるいはその中の一つを指していう。明治時代以降はレリジョン(religion)の訳語として、仏教やキリスト教などを包括的に示す意が一般的となった。 →  →  (浄土真宗辞典)

仏教は古くは、仏法仏道などと呼んだ。しかし、明治期以降に仏教語の「宗教」を、西欧語のレリジョン(religion)の翻訳語として使用することになってから、キリスト教などの影響からか仏法宗教の一つであるとして仏教といふ言葉が一般化してして用いられることになった。この影響で仏法仏道の語の使用頻度が少なくなった。そもそも「浄土門」(弥陀法)では、「聖道門」(釈迦教)では救われ難い凡夫になる阿弥陀仏を説くので仏法といふ表現がよいと思ふ。→二尊教

◆ 参照読み込み (transclusion) JDS:宗教

しゅうきょう/宗教

「文化」や「芸術」など、われわれの生活の中の他の領域と同じように、宗教もまたかなり広範にわたる事象であって、その輪郭は必ずしも一義的に明確だとは言えない。その複雑さは、要するに、それを生み出した社会的な文脈の多様さや、その歴史的な変容の結果なのである。「宗教」とは、この独特な事象を全体として捉え、また論議するために、いわば人為的に設定された概念枠組みにほかならない。したがって、その詳しい内容を明らかにするには、背景ないし基盤をなす文化環境やその変遷を念頭におきつつ、表現(ことば)とそれが指している事象との両面から検討してみる必要があろう。

[ことばと意味]

まず表現それ自体について見てみれば、「宗教」はもと仏教に由来する漢語の熟語である。しばしば言及される法蔵の『華厳五教章』では、それは教えの核心をなす「宗」とそれについてのいろいろな言説としての「教」とを含み、要するに仏教を意味したという。しかし、それが現代日本語の語彙として採用されたのは比較的新しく、明治維新の前後からであった。当時、開国とともに欧米諸国との交渉の必要に迫られたわが国で、多少の試行錯誤ののち、それが欧米語のreligionにほぼ相当する訳語として選ばれ、次第流通し定着するに至った。こうして今日では、「宗教」はふつう仏教キリスト教ヒンドゥー教神道などのすべてを含む類概念(一段高い概念)として用いられることになった。ちなみに、これとやや似た事情は欧米の側にも認められる。すなわち、religionの語源のラテン語religioは、元来は禁忌の感情や信心などを意味していたが、現代語では、日本語の場合と同じく、さまざまな諸宗教を覆うものと解されることになった。

このように、日本語と欧米語の表現には、細部の違いにも拘らず、いくつかの共通点がある。その一つは、双方ともが暗黙のうちに、ある程度まとまった教義や組織を有し、一言でいえば形の整った宗教を想定していることである。逆に、そうした要件を欠き「拡散」したものは、宗教ではなく「俗信」とか、さらには「迷信」などと呼ばれ区別される場合が少なくない。例えば、この点について一つの公式見解をしめした「宗教法人法」(昭和二六年〔一九五一〕制定)では、一定の教義礼拝対象ないし施設をもつことなどが、法人の構成要件としてあげられる。いずれにしても、「宗教」の意味とその指す範囲とを確定しようとすれば、さらに、それに対応する事象の側からの接近が求められることになる。

[特徴と類型]

こうした角度から重ねられてきた考察は、今日、宗教がいくつかの特徴的な要素からなる複合的なシステム(体系)であることを明らかにしたと言える。実際には千差万別だが、よくみると共通の性質・働きをもつそうした要素として、ここではとりあえず次の四つをあげる。①思想的・観念的な要素としての「教え」。世界や人生についての見方、この世ならぬ別世界(他界・異界)や神霊の表象などで、神話教義として説かれる。②行動にかかわる要素としての儀礼修行。教えと連動しつつ個人や集団の宗教生活の中核となる。③現実に宗教を営む人間の結びつき・組織という社会的な要素。④担い手である人間の志向に連動して、これらすべての要素が帯びる「非日常的」「究極的」という独特の質と深み。これを体験の要素と名づけてもよい。

以上が諸宗教の公分母(共通する要素)であるが、これら要素の具体的な中味やその相互関係を手がかりに、さらにいくつかの類型に分けることも可能である。総じて、「原始的」な宗教では②の儀礼が中心となる場合が多いが、古代宗教仏教キリスト教などの「普遍宗教」は、ふつうさらに加えて高度に発達した①の教えをもっている。その教えも、何らかの超越的存在(神・神々・神仏など)への信仰を説くもののほか、初期仏教のように、専ら解脱の境地への到達をめざすものもある。同じような分類は、③の宗教の組織についても数多く提示でき、この種の分析は、宗教の研究の重要かつ興味ふかいテーマをなしている。

宗教の動態]

ここでは、試みに宗教を一つのシステムとして見たが、言語や生態系など、一般にすべての生きたシステムと同じように、宗教もまたつねに流動する。すなわち、全体としての統合を保ちながらも、その中の個々の要素は絶えず変化し、また更新される。例えば、わが国でひろく行われてきた地鎮祭のように、その本来の意義の薄れた儀礼は「習俗」として周辺に押しやられる一方で、新しい要素が採り入れられてくる。近年、伝統的な宗教とは異なって不定形な「霊性」(スピリチュアリティ)が多くの関心を惹くようになったのも、その一例といえる。本項の最初にも述べたように、宗教と非宗教の境界がしばしば重なり合い、また流動するのは、本来それに具わった動態の結果である。


【参考】阿満利麿『日本人はなぜ無宗教なのか』(ちくま新書、一九九六)、田丸徳善「称名念仏の宗教学」(『現代と念仏』浄土宗総合研究所、一九九九)、関一敏他編『岩波講座 宗教』全一〇巻(岩波書店、二〇〇三~四)、島薗進他編『宗教学キーワード』(有斐閣、二〇〇六)


【執筆者:田丸徳善】