「衆生」の版間の差分
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− | + | 梵語サットヴァ(sattva)の漢訳。<kana>[[有情]](うじょう)</kana>・<kana>[[含識]](がんしき)</kana>とも漢訳する。多くの生類という意味で、<kana>[[群生]](ぐんじょう)</kana>・<kana>[[群萌]](ぐんもう)</kana>ともいう。 | |
+ | :Ⅰ 一切の迷いの生類、すなわち''生きとし生けるものすべて''を指す。[[EXC:衆多|衆多]]の<kana>[[生死]](しょうじ)</kana>をうけるものの意である。一般には<kana>凡夫(ぼんぶ)</kana>である人間を指す場合が多い。 | ||
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+ | :Ⅱ 衆生を衆縁所生<ref>衆縁所生(しゅえん-しょしょう)。衆はおおいの意で多くの縁によって生じられたといふ意。</ref>の意味とみる時は、仏・菩薩をも衆生という。→[[補註3]]。 | ||
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+ | :Ⅲ [[五陰]](ごおん)が仮に和合したものであるからこのようにいう。([[真巻#P--353|真巻 P.353]]) | ||
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2024年11月19日 (火) 06:45時点における最新版
しゅじょう
梵語サットヴァ(sattva)の漢訳。
『浄土真宗聖典(注釈版)七祖篇』本願寺出版社
区切り線以下の文章は各投稿者の意見であり本願寺派の見解ではありません。
『大阿弥陀経』には「諸天・人民・蜎飛・蠕動の類」とある。
- オンライン版 仏教辞典より転送
衆生
sattva सत्त्व,(pali)satta सत्त(skt), bahujana बहुजन(skt.)
有情とも訳される。「梵に薩埵(さった)という。ここに有情(うじょう)という。情識あがゆえに」(唯識述記 )といわれるように、感情や意識をもっているものの意味で、山河大地などの非情(ひじょう)に対して、一切の生きとし生けるもののすべてを含めていわれる。この点で、多くのものが共に生存しているという意味で「bahujana」といわれ、衆人と訳される。
衆生の中には、動物も含めてみる。その点、衆生や有情という言葉は、広い意味に用いられる。地獄、餓鬼、畜生、修羅、人間、天上、声聞、縁覚、菩薩、仏といわれる十界の中でも、一般的には前の六道にあるものをさす。
したがって、衆生は、そのまま人間ということではない。この意味で「わたくしは人間である」といういい方は、仏教では適当でなく、厳密には「わたくしは人間界の衆生である」というべきでる。
衆生の翻訳に関して
「衆生」及び「有情」と漢訳された サンスクリット原語は「サットヴァ」である。通常のサンスクリット文法に従う限り.「サットヴァ」はサットsatと抽象名詞を作るtvaが合した中性名詞であり、「存在性。有ること」を意味する。しかし仏教語「サットヴァ」は意味を異にし、「命ある生きもの」を意味し,中性名詞でなく男性名詞である。説明を補足すれば,悟りを得て輪廻転生から解放されない限り.永遠無限に輪廻を繰り返す者を指す。輪廻とは天人・人・畜生・餓鬼・地獄の住人の五種(五道輪廻)または阿修羅(戦いを繰り返す存在)を加えた六種(六道輪廻)を指す。
このように通常の「サットヴァ(存在性)」と意味の異なる仏教語「サットヴァ」について.「サットヴァsattva」でなく「サトヴァsatva」と表記する研究が増えている。とりわけサンスクリット語の写本校訂を行う研究に顕著である。
-tt-と二度繰り返さない理由は,第一に,satvaと表記する事例が実際のサンスクリット写本に多いこと.第二に,「サットヴァ」はサットsatと抽象名詞を作るtvaの合した形では仏教語の意味を説明できないことである。また第三に「サトヴァsatva」にヴェーダ語「satvanサトヴァン」からの影響を指摘する者も多い。
人間
仏教で人間は、サンスクリット語で「マヌシャ」(manuṣya मनुष)といわれ、ヨーロッパでの「マン」(en:man)「メンシュ」(de:mensch)と同じく「考えるもの」の意味である。
仏教では人間とは人間の境界のことで、単なる個人とは考えず、多くの人に接し、人びとと共にある世界のことで、主として思考を中心に生きているものの意味である。仏教の中に、われわれが自分の在り方を求める場合、衆生という表現の方が「人間」と呼ぶより本来的である。
サンスクリット語の「サットヴァ」、パーリ語の「サッタ」は、「生きているもの、存在するもの」の意味である。ところが、これを「衆生」と訳した中国人の受け取り方に、人間の在り方への深い反省がみられると同時に、そこには仏教の思想がよく言いあらわされている。
釈尊は、衆生の姿を業熟体(kamma-vipāka)と捉えている。これはきわめて重大な問題である。いったい、業熟体とはどういうことであろうか。
- 無明(avijjā)におおわれ、渇愛(taṇhā)に結ばれて、流れさまよっている衆生の、輪廻の本際(saṃsārapubbākoṭi)は知られない。〔SN., vol.II, p.178,南伝13-261〕
- 「限りない過去から、生きとし生けるもの、ありとあらゆるものと交わりつつ、生まれかわり死にかわり、死にかわり生まれかわりしながら輪廻転生し、いま、ここに現われつつある私自身の統括体であると同時に、ありとあらゆるものと交わっているが故に、宇宙共同体の結び目である。私性の極みであるとともに公性の極みである。しかもその根底は、底なく深く、無意識であり、無智であり、無明であり、暗黒であり、あくたもくた、へどろもどろである」
業熟体は、自己の全存在を集約せる自己そのものであると同時に、無限の時空における一切との交絡にあるがゆえに宇宙共同体の結び目である。私的なるものの究極であるとともに、公的なるものの極限であり、もっとも自己的でありつつ、もっとも世界的であるということができる。しかも、意識から無意識へ底なく深まりつつ、したがってわれわれの認知を遥かに越えながら、宇宙共同体にまで拡充している。認知のきわまるところ、無智であり、無明であり、黒闇であり、あくたもくたである。衆生の苦悩も、現代世界の残酷な状況も、ことごとく業熟体そのものであるということができる。
衆多之生
衆生が、「バフジャナ」と言われるのは、多くのものと一緒に生存しているものを意味し、衆多之生の意味である。輪廻転生といろいろな生をめぐる人間の姿の反省からいわれる場合で、「いろいろと多くの生死をもっているもの」の意味である。これを人間はお互いにみな各自別々の生活を営んでいるという点から「異生」(いしょう)と同じ意味とみることがある。
「異性」とはサンスクリット語のプリタグジャナ(pṛthagjana पृथग्जन)、チベットのソソル・ケボ(so-sor-skyes-bo)で、しばしば凡夫と同じ意味である。各自の担っている業(karman)、現に造りつつある業によって生きている。日々心で考え、話し、行動する。この人間の心と言葉と行為は、それぞれの人びとの生活の仕方を決定し、規定づける。これによって、幸福も不幸も、一切の生活は自己の責任において行なわれる。このように、自己の生活を自己の責任において考えてゆく生き方こそ、もっとも人間らしい生き方であるとするのが、衆生と呼んで自己を見つめた仏教徒の態度を示している。
衆縁所生
漢訳仏典で、衆生を衆縁所生(しゅうえんしょしょう)と分析する。この場合は、一般にはいろいろの原因と条件が組み合わさって、いろいろな結果を生み出すのであるから、このわたくしの生存は、単一の原因だけでなく、多くの条件によるのだと、外からの条件を重くみる考え方と思われる。
この解釈の根源は、釈迦の正覚の内容といわれる縁起そのものを意味し、縁生(えんしょう)ということである。すなわち、あらゆる存在は、自分自身に存在性をもつものではなく、他によって存在性をあたえられて存在するということである。すべての存在は、もともと空でありながら、そのままで縁起して有(う)である。
自らに即して言えば、わたくしは、独りぼっちでは生きられず、他と関係することにおいてのみ生きられるのである。歴史的には過去と未来を離れて現在のわたくしはありえないし、社会的には無限ともいうべき、多くの横とのつながりにおいて生きている。これが、衆縁所生と自己をうけとった衆生の意味である。
妄想の生起せるもの
衆生を、衆多の妄想の生起せるものとうけとった人もある。それは、本来すべてのものは一体であるのに、それぞれ差別観をもって生きる人間の妄想顛倒を反省し、自分に対する痛烈な批判をあらわしたものである。因果の道理をしらず、責任を他に転嫁しようと腐心し、他によって生かされている自己を見失って、自己を絶対視する間違った人間の生き方への批判からあらわれた人間観を示している。
- 人間は未完成の仏であり、仏は完成された人間である 〔高楠順次郎〕
修定
三種の修行のありよう(修戒・修定・修慧)の一つ。禅定を修する 修行。八聖道との関係でいえば、正念・正定を修定という。
- 三種修法、謂、修戒・修定・修慧。(中略)正念・正定、名為修定。〔瑜伽師地論15、T30-355a〕
- ↑ 衆縁所生(しゅえん-しょしょう)。衆はおおいの意で多くの縁によって生じられたといふ意。