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 [[浄土真宗]]では、[[阿弥陀如来]]にむかって「お願いする」「<kana>請(こ)</kana>い求める」という<kana>祈願請求(きがんしょうぐ)</kana>の意ではなく、阿弥陀如来の[[本願力]]を「たのみにする」という<kana>[[依憑]](えひょう)</kana>(よりたのむ)の意味で、[[信順]]・[[帰命]]の[[exc:和訓|和訓]]であり、本願の[[信楽]]にあたる。[[親鸞聖人]]は「よりたのむ」「よりかかる」「本願他力をたのみて、[[自力]]をはなれたる、これを唯信といふ」といわれている。([[唯文#P--699|唯文 P.699]])
  
 
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現代語では、たのむは「依頼する」の意で用いられるが、古語では「まかせる」「たよる」の意が主である。 椅子に座ったときは椅子を[[たのむ]]と身をまかせるようなものであり仏・菩薩へ[[祈願請求]]の意ではない。<br />
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『御文章』「電光朝露・死出の山路」には、
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:まことに死せんときは、かねて'''たのみ'''おきつる妻子も財宝も、わが身にはひとつもあひそふことあるべからず。([[御文一#P--1100|御文章 P.1100]])
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なお。漢字で表記する場合は「<kana>憑(たの)</kana>む」と書く。
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*「<kana>憑(たの)</kana>む」の語源の一つは、田の実(田で獲れる米)であるという([https://kotobank.jp/word/%E7%94%B0%E3%81%AE%E5%AE%9F%E3%83%BB%E6%86%91-321725 大辞林])、([[トーク:たのむ]])。たしかに御開山が引文された『涅槃経』には→「[[命を説きて食とす]]」([[真巻#P--349|真巻 P.349]])という語もあり、生命は食べることによって維持されるものであるから食はタノミである。その意味で田の実である米が自らの存在をゆだねるというタノミ、タノムの語源という説はうなづける。飽食の現代人には理解しがたいのだが10日くらい断食し、体内脂肪を燃焼し尽くして飢餓を経験してみれば食が「タノミ」という事実を領解できるかもである。
 
*よりたのむ →行巻六字釈の[[帰説]]の説明。
 
*よりたのむ →行巻六字釈の[[帰説]]の説明。
 
*本願他力をたのみて、自力をはなれたる…。 →[[唯信鈔文意#P--699]]
 
*本願他力をたのみて、自力をはなれたる…。 →[[唯信鈔文意#P--699]]
*なお、「たのむ」を漢字で書くときは、必ず<kana>憑(たの)</kana>むと書き表して頼むとは書かない。
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*なお、「たのむ」を漢字で書くときは、必ず<kana>憑(たの)</kana>むと書き表して祈願請求の意味である頼むとは書かない。
*「弥陀仏の御ちかひの、もとより行者のはからひにあらずして、'''南無阿弥陀仏とたのませたまひて'''迎へんと、はからはせたまひたるによりて、行者のよからんとも、あしからんともおもはぬを、自然とは申すぞとききて候ふ」([[親鸞聖人御消息_(上)#no14|御消息(14)]])、([[正像末和讃#P--621|正像 P.621]])
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*「弥陀仏の御ちかひの、もとより行者のはからひにあらずして、'''南無阿弥陀仏とたのませたまひて'''迎へんと、はからはせたまひたるによりて、行者のよからんとも、あしからんともおもはぬを、自然とは申すぞとききて候ふ」([[親鸞聖人御消息_(上)#no14|御消息(14)]])、([[正像末和讃#P--621|正像 P.621]])、(『[[獲得名号自然法爾]]』)
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たのむの漢字の同訓異義(角川 新字源 <K>昭和44年 十九版</K>)
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【怙】
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:自身の堅固な要塞のように、たよりにすること。
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【恃】
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:手に物を持っているように、心のたよりにすること。
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:向こうへもたれかかる。→よる
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:元来「おう」と読む字で、うしろだてにする。
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:味方としてたよりにする。
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[[Category:追記]] <p id="page-top">[[#|▲]]</p>

2024年11月21日 (木) 15:48時点における最新版

たのむ

 浄土真宗では、阿弥陀如来にむかって「お願いする」「()い求める」という祈願請求(きがんしょうぐ)の意ではなく、阿弥陀如来の本願力を「たのみにする」という依憑(えひょう)(よりたのむ)の意味で、信順帰命和訓であり、本願の信楽にあたる。親鸞聖人は「よりたのむ」「よりかかる」「本願他力をたのみて、自力をはなれたる、これを唯信といふ」といわれている。(唯文 P.699)

出典(教学伝道研究センター編『浄土真宗聖典(注釈版)第二版』本願寺出版社
『浄土真宗聖典(注釈版)七祖篇』本願寺出版社

区切り線以下の文章は各投稿者の意見であり本願寺派の見解ではありません。

現代語では、たのむは「依頼する」の意で用いられるが、古語では「まかせる」「たよる」の意が主である。 椅子に座ったときは椅子をたのむと身をまかせるようなものであり仏・菩薩へ祈願請求の意ではない。
『御文章』「電光朝露・死出の山路」には、

まことに死せんときは、かねてたのみおきつる妻子も財宝も、わが身にはひとつもあひそふことあるべからず。(御文章 P.1100)

とある。 なお。漢字で表記する場合は「(たの)む」と書く。

たすけたまへとおもへば
  • (たの)む」の語源の一つは、田の実(田で獲れる米)であるという(大辞林)、(トーク:たのむ)。たしかに御開山が引文された『涅槃経』には→「命を説きて食とす」(真巻 P.349)という語もあり、生命は食べることによって維持されるものであるから食はタノミである。その意味で田の実である米が自らの存在をゆだねるというタノミ、タノムの語源という説はうなづける。飽食の現代人には理解しがたいのだが10日くらい断食し、体内脂肪を燃焼し尽くして飢餓を経験してみれば食が「タノミ」という事実を領解できるかもである。
  • よりたのむ →行巻六字釈の帰説の説明。
  • 本願他力をたのみて、自力をはなれたる…。 →唯信鈔文意#P--699
  • なお、「たのむ」を漢字で書くときは、必ず(たの)むと書き表して祈願請求の意味である頼むとは書かない。
  • 「弥陀仏の御ちかひの、もとより行者のはからひにあらずして、南無阿弥陀仏とたのませたまひて迎へんと、はからはせたまひたるによりて、行者のよからんとも、あしからんともおもはぬを、自然とは申すぞとききて候ふ」(御消息(14))、(正像 P.621)、(『獲得名号自然法爾』)

たのむの漢字の同訓異義(角川 新字源 昭和44年 十九版

たのむ

【怙】

自身の堅固な要塞のように、たよりにすること。

【恃】

手に物を持っているように、心のたよりにすること。

【憑】

向こうへもたれかかる。→よる

【負】

元来「おう」と読む字で、うしろだてにする。

【頼】

味方としてたよりにする。
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