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武内義範師は、著『親鸞と現代』の「苦への洞察」で、
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;正覚と救い
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: [[四諦]]は苦集滅道(くじゆう-めつどう)というこの四つの真理で、原始仏教ではそれを知らないということが、この真理に対する無知が、すなわち無明だといわれている。四つの真理のうちでまず苦ということが一番初めに出てきているが、この苦ということの意味が現代人にとっては、その理解が非常にむつかしいものとなってしまっている。というのは、われわれは苦ということの意味を本当に理解しえないような時代に生きているからである。われわれにとっては快楽とか幸福とかということが、われわれの生の自明の目的とか第一の原理になっていて、苦というものの示す真理ということを深くきわめて自省するということはなくなってきている。しかし原始仏教では生老病死(四苦)、それから(五)愛するものと別れねばならない(愛別離苦)、(六)憎むものと会わなければならない(怨僧会苦)、(七)欲求するものがつねに得られない(求不得苦)と、(八)世界内存在としての人間の取着性が苦の根源である(略説五取薀苦)というもので四苦・八苦が示されている。最後のものは、さきの顕著な苦の事例に対して、全体の総括をなしている。 ([[hwiki:無明と業─親鸞と現代|無明と業─親鸞と現代]])
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七、ここで吾等は救済と[[正覚]]との区別を暫く述べなければならぬ。それは真宗信者の願うところは、結局[[正覚]]に達することであって、救済を得ることではないからである。便宜上、救済という文字を使うこともあるが、宗派、信条の如何を問わず、すべての仏教徒が、その生活の窮極の目的とするところは[[正覚]]である。この点では、帰依的宗教(bhakti-religion)<ref>ここでの、バクティ(bhakti)とは、ヒンドゥー教で「最高神への絶対的帰依」を意味する語。「信愛」とも訳される。大拙師は、この意を転用して真宗の弥陀一仏への絶対的帰依を説く信の意で用いられたのであろう。ただ、浄土真宗の「信」とは梵語プラサーダ(prasāda)の漢訳で、「信心」「信楽」「浄信」などと翻訳された。</ref>の型に従うと見られる真宗もまた決して例外ではないのである。ここに真宗が禅や天台や華厳などと同じく仏教的たるところがある。私は真宗信仰に関してしばしば「救済」(salvation)という文字を用いて来たが、正確にいうと、この文字はキリスト教経験を示すもので、真宗経験を表わすには、十分に適切なものとは言われない。
  
と、「この苦ということの意味が現代人にとっては、その理解が非常にむつかしいものとなってしまっている」云々とされているのだが、我々は、煩悩を見つめる力が劣ってきているのかも知れないと思ふ。
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 キリスト教徒は救済を求めて[[正覚]]を願わない。魂を堕獄から救う事がキリスト教の信仰生活の内容となっている。仏教徒の願うところは<kana>証(さと)</kana>りに至ること、[[無明]]より離れること、即ち[[生死]](輪廻)の絆を脱することである。しかし真宗は、外から見ると、キリスト教の罪悪に相当する罪業から救われることを求めるものの如くに見える。が、実際からいうと、真宗信者は、この相対の世界にいる限り、このことが到底不可能であることを承知している。どれほど相対的存在として人間の知力・道徳力を尽しても、[[業]]の必然性から遁れる術はない。だから彼等は[[業]]に随順する、[[業]]を遁れたり、[[業]]に打ち克つことを企てぬ。[[業]]をそのままにして、却ってこれを超える方法を求める。そしてそれによって本来の自由に立ち戻らんとする。その方法は、最高の[[正覚]]達成に必要なあらゆる条件を具備した安楽浄土の主人公としての[[無量寿]]・[[無量光]]の仏陀を信ずることである。かくして真宗信者の第一の目的は[[浄土]]に[[往生]]することである。そして即時に[[無上覚]]を証することである。<br />
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事実、往生は即ち成仏で、この二つの語は全く同義語である。{{DotUL|真宗生活の窮極の目的は[[正覚]]を達成することで救済を得ることではない}}。業と相対性を性格としているこの世では、最高の智慧を得るのに好都合な環境は与えられない。またそういう理由があればこそ、弥陀は彼の信者のために、特に一仏土を建設し、その土の一切の事物を、往生者の[[無上覚]]超証に資するようしつらえられたのである。かくして[[無上覚]]を証れる時、彼等は急いでこの世界に還り来り、一切衆生を[[利益]](り-やく)するのである。自分自身ではそれを知らずにいても、真宗人は正しくこの世界全体の[[正覚]]を増大するために生きている。罪悪を意識し、業繋の生を意識してはいても、彼等は[[正覚]]を求めて努力しつつあるもので、個人的救済を願っているものではない。
  
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 普通 真宗は「[[念仏往生]]」を教えるものと考えられている。念仏往生は字義の上からいうと、「仏を念じて往き生れること」で、一心一向に仏陀即ち[[弥陀]]を念ずれば、死後浄土に往き生れることであるが、実際の[[行]]からいえば、仏を念ずることは一念多念の[[称名]]となる。真宗の説くところに従うと、弥陀に対する絶対の信から生ずる[[称名]]でありさえすれば、それらは一声で足りるというが、浄土宗では繰り返し「南無阿弥陀仏」と称えよとすすめる。ここに浄土宗と真宗との本質的な相異があることは、すでに述べた。とにかく、一般の人には、「[[念仏往生]]」という言葉は、浄土宗及び真宗の両方の教義を概括的に記述するものと考えられている。しかしこの教義をもっと綿密に分析して見ると、浄土往生だけが、経典の中で実際に約束せられていることの全部ではないということが分る。前に述べたように、浄土教徒が往生をすすめるのは、仏教生活の目的である浄土──その他力たると自力たるとを間わず──は、[[正覚]]を成ずるには、最好適の環境であるからなのである。従ってこの事の実際の結果からいえば、往生と[[正覚]]とが同一事であることとなり、往生の確証は[[正覚]]の予感というべきものである。最高の[[正覚]]に住することは、独り仏陀──即ち最も完成せる人格──だけがこれを能くするもので、凡夫の吾等に許されることは、[[正覚]]の幾分かを味わい得て、これによって安心立命することである。そしてこの安心立命こそは、往生の予感であり確証であるのである。しかしながら、仏教の一般的見地から見て、仏教徒各自の生活に於いて最も重要なことは、この世界に還って来て[[釈迦牟尼仏|釈迦牟尼]]自身の如く、[[正覚]]をここに増大し実現し流布せしめるために力を尽すことである。「[[念仏往生]]」ということが、真宗信者の唯一の関心事であるかの如くに見えはしても、真宗もまた仏教宗派の一つであることを忘れてはならぬ。また表面だけから見ると、その帰依宗教的構造が強く暗示せられているが、その実質には非仏教的なものは決してないということを忘れてはならぬ。(『浄土系思想論』p.47)<br />
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参照→[[hwiki:浄土系思想論─名号論|浄土系思想論─名号論]]
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正覚と救い

七、ここで吾等は救済と正覚との区別を暫く述べなければならぬ。それは真宗信者の願うところは、結局正覚に達することであって、救済を得ることではないからである。便宜上、救済という文字を使うこともあるが、宗派、信条の如何を問わず、すべての仏教徒が、その生活の窮極の目的とするところは正覚である。この点では、帰依的宗教(bhakti-religion)[1]の型に従うと見られる真宗もまた決して例外ではないのである。ここに真宗が禅や天台や華厳などと同じく仏教的たるところがある。私は真宗信仰に関してしばしば「救済」(salvation)という文字を用いて来たが、正確にいうと、この文字はキリスト教経験を示すもので、真宗経験を表わすには、十分に適切なものとは言われない。

 キリスト教徒は救済を求めて正覚を願わない。魂を堕獄から救う事がキリスト教の信仰生活の内容となっている。仏教徒の願うところは(さと)りに至ること、無明より離れること、即ち生死(輪廻)の絆を脱することである。しかし真宗は、外から見ると、キリスト教の罪悪に相当する罪業から救われることを求めるものの如くに見える。が、実際からいうと、真宗信者は、この相対の世界にいる限り、このことが到底不可能であることを承知している。どれほど相対的存在として人間の知力・道徳力を尽しても、の必然性から遁れる術はない。だから彼等はに随順する、を遁れたり、に打ち克つことを企てぬ。をそのままにして、却ってこれを超える方法を求める。そしてそれによって本来の自由に立ち戻らんとする。その方法は、最高の正覚達成に必要なあらゆる条件を具備した安楽浄土の主人公としての無量寿無量光の仏陀を信ずることである。かくして真宗信者の第一の目的は浄土往生することである。そして即時に無上覚を証することである。
事実、往生は即ち成仏で、この二つの語は全く同義語である。真宗生活の窮極の目的は正覚を達成することで救済を得ることではない。業と相対性を性格としているこの世では、最高の智慧を得るのに好都合な環境は与えられない。またそういう理由があればこそ、弥陀は彼の信者のために、特に一仏土を建設し、その土の一切の事物を、往生者の無上覚超証に資するようしつらえられたのである。かくして無上覚を証れる時、彼等は急いでこの世界に還り来り、一切衆生を利益(り-やく)するのである。自分自身ではそれを知らずにいても、真宗人は正しくこの世界全体の正覚を増大するために生きている。罪悪を意識し、業繋の生を意識してはいても、彼等は正覚を求めて努力しつつあるもので、個人的救済を願っているものではない。

 普通 真宗は「念仏往生」を教えるものと考えられている。念仏往生は字義の上からいうと、「仏を念じて往き生れること」で、一心一向に仏陀即ち弥陀を念ずれば、死後浄土に往き生れることであるが、実際のからいえば、仏を念ずることは一念多念の称名となる。真宗の説くところに従うと、弥陀に対する絶対の信から生ずる称名でありさえすれば、それらは一声で足りるというが、浄土宗では繰り返し「南無阿弥陀仏」と称えよとすすめる。ここに浄土宗と真宗との本質的な相異があることは、すでに述べた。とにかく、一般の人には、「念仏往生」という言葉は、浄土宗及び真宗の両方の教義を概括的に記述するものと考えられている。しかしこの教義をもっと綿密に分析して見ると、浄土往生だけが、経典の中で実際に約束せられていることの全部ではないということが分る。前に述べたように、浄土教徒が往生をすすめるのは、仏教生活の目的である浄土──その他力たると自力たるとを間わず──は、正覚を成ずるには、最好適の環境であるからなのである。従ってこの事の実際の結果からいえば、往生と正覚とが同一事であることとなり、往生の確証は正覚の予感というべきものである。最高の正覚に住することは、独り仏陀──即ち最も完成せる人格──だけがこれを能くするもので、凡夫の吾等に許されることは、正覚の幾分かを味わい得て、これによって安心立命することである。そしてこの安心立命こそは、往生の予感であり確証であるのである。しかしながら、仏教の一般的見地から見て、仏教徒各自の生活に於いて最も重要なことは、この世界に還って来て釈迦牟尼自身の如く、正覚をここに増大し実現し流布せしめるために力を尽すことである。「念仏往生」ということが、真宗信者の唯一の関心事であるかの如くに見えはしても、真宗もまた仏教宗派の一つであることを忘れてはならぬ。また表面だけから見ると、その帰依宗教的構造が強く暗示せられているが、その実質には非仏教的なものは決してないということを忘れてはならぬ。(『浄土系思想論』p.47)
参照→浄土系思想論─名号論

  1. ここでの、バクティ(bhakti)とは、ヒンドゥー教で「最高神への絶対的帰依」を意味する語。「信愛」とも訳される。大拙師は、この意を転用して真宗の弥陀一仏への絶対的帰依を説く信の意で用いられたのであろう。ただ、浄土真宗の「信」とは梵語プラサーダ(prasāda)の漢訳で、「信心」「信楽」「浄信」などと翻訳された。