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:②<kana>近縁(ごんえん)</kana>。衆生が仏を見たいと願えば目前にあらわれるという関係にあること。
 
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:③<kana>増上縁(ぞうじょうえん)</kana>。衆生が[[名号]](みょうごう)を称えれば多劫(たこう)の罪を除き、命の終るときに仏は聖衆(しょうじゅ)とともに来迎(らいこう)して、罪業(ざいごう)の繋縛(けばく)に障碍(しょうげ)されず往生させること。
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Ⅱ 三種の慈悲のこと。
 
Ⅱ 三種の慈悲のこと。
 
:①<kana>衆生縁(しゅじょうえん)</kana>。衆生の実体があるとみて衆生に対して生ずる世俗的な慈悲で小悲ともいう。
 
:①<kana>衆生縁(しゅじょうえん)</kana>。衆生の実体があるとみて衆生に対して生ずる世俗的な慈悲で小悲ともいう。
:②<kana>法縁(ほうえん)</kana>。衆生の実体はないが、個体を構成する[[五蘊]](ごうん)の法体は実有であるとする[[小乗]]の聖者のおこす慈悲で中悲ともいう。
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:③無縁。差別の見解を離れた平等絶対の慈悲で初地以上の[[菩薩]]や仏のおこされる大悲をいう。 ([[持名鈔#P--1015|持名鈔 P.1015]])
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『浄土論註』の性功徳釈より。
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:〈正道の大慈悲、出世の善根より生ず〉といふは、平等の大道なり。平等の[[道]]を名づけて正道とするゆゑは、平等はこれ諸法の体相なり。諸法平等なるをもつてのゆゑに発心等し、発心等しきがゆゑに道等し、道等しきがゆゑに大慈悲等し。大慈悲はこれ仏道の正因なるがゆゑに、〈正道大慈悲〉とのたまへり。
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:慈悲に三縁あり。一つには衆生縁、これ小悲なり。二つには法縁、これ中悲なり。三つには無縁、これ大悲なり。大悲はすなはちこれ出世の善なり。安楽浄土はこの大悲より生ぜるがゆゑなればなり。ゆゑにこの大悲をいひて浄土の根とす。ゆゑに〈出世善根生〉といふなり」と。([[浄土論註_(七祖)#P--61|浄土論註 P.61]])([[真巻#P--358|真巻 P.358]])
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『浄土論』の偈文「正道大慈悲 出世善根生」の大慈悲の語を『浄土論註』で解釈する中で、「慈悲に三縁あり」とし、衆生縁、法縁、無縁とする。この三縁という語は『大智度論』巻四〇や『涅槃経』梵行品などの 三縁の語に依られたものであろう。ここでの縁とは、「縁ずる(心のはたらきが対境に向かってはたらき、そのすがた(相)を取ること)」という意味で、慈悲がどのような関係性によっておこるかを三種に分けて考察されている。<br>
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なお、三縁については諸経論でさまざまな解釈があるが、一つは衆生縁の慈悲といわれるもので、人間関係の因縁によっておこす慈悲で、父母、妻子、親族などを縁じておこす慈悲で普通には愛といわれるものである。我・法ともに有とする執着にもとずく慈悲であるから'''小悲'''という。
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法縁の慈悲とはあらゆる縁によって生ずるものであるから、その関係、道理によっておこす慈悲を法縁という。我という実体はないという道理は体得しているが、一切の法は空であることを体得していないので'''中悲'''という。
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無縁の慈悲とは、迷いの世俗を超越した仏・菩薩のみにある、縁なくしておこす絶対平等の慈悲であるから無縁という。人・法の一切法は空であると体得した智慧よりおこる慈悲であるから'''大悲'''という。この智慧を因とする〈正道の大慈悲であるような出世の善根より生ず〉という、無縁の大悲が浄土の法性であり根本である。そして、真仏・真土の浄土とは、この大慈悲をエネルギーとして[[性起]]された[[無住処涅槃]]の境界である。
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;参照
 
『大智度論』巻40
 
『大智度論』巻40
  
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凡夫人衆生縁。声聞辟支仏及菩薩 初衆生縁後法縁。
 
凡夫人衆生縁。声聞辟支仏及菩薩 初衆生縁後法縁。
 
:凡夫人は衆生縁なり。声聞、辟支仏、及び菩薩は、初は衆生縁、後は法縁なり。
 
:凡夫人は衆生縁なり。声聞、辟支仏、及び菩薩は、初は衆生縁、後は法縁なり。
諸仏善修行畢竟空故名為無縁。是故慈悲亦名仏眼。
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諸仏善修行畢竟空故名為無縁。
 
:諸仏は、善く畢竟空を修行するが故に名づけて、無縁と為す。
 
:諸仏は、善く畢竟空を修行するが故に名づけて、無縁と為す。
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[[ノート:三縁|ノート:三縁『涅槃経』梵行品]]
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[[Category:追記]]

2024年11月6日 (水) 00:30時点における最新版

さんえん

Ⅰ 阿弥陀仏が念仏の衆生を摂取(せっしゅ)する三種の深いかかわりのこと。(安心決定P.1398)

親縁(しんえん)。衆生が口で仏名(ぶつみょう)(とな)え、身で仏を礼拝(らいはい)し、(こころ)で仏を念ずるとき、これらを仏は聞き、見、知って衆生と仏とは互いに憶念(おくねん)し合うという密接不離の関係にあること。
近縁(ごんえん)。衆生が仏を見たいと願えば目前にあらわれるという関係にあること。
増上縁(ぞうじょうえん)。衆生が名号(みょうごう)を称えれば多劫(たこう)の罪を除き、命の終るときに仏は聖衆(しょうじゅ)とともに来迎(らいこう)して、罪業(ざいごう)繋縛(けばく)障碍(しょうげ)されず往生させること。

Ⅱ 三種の慈悲のこと。

衆生縁(しゅじょうえん)。衆生の実体があるとみて衆生に対して生ずる世俗的な慈悲で小悲ともいう。
法縁(ほうえん)。衆生の実体はないが、個体を構成する五蘊(ごうん)の法体は実有であるとする小乗の聖者のおこす慈悲で中悲ともいう。
③無縁。差別の見解を離れた平等絶対の慈悲で初地以上の菩薩や仏のおこされる大悲をいう。
出典(教学伝道研究センター編『浄土真宗聖典(注釈版)第二版』本願寺出版社
『浄土真宗聖典(注釈版)七祖篇』本願寺出版社

区切り線以下の文章は各投稿者の意見であり本願寺派の見解ではありません。

三種の慈悲

『浄土論註』の性功徳釈より。

〈正道の大慈悲、出世の善根より生ず〉といふは、平等の大道なり。平等のを名づけて正道とするゆゑは、平等はこれ諸法の体相なり。諸法平等なるをもつてのゆゑに発心等し、発心等しきがゆゑに道等し、道等しきがゆゑに大慈悲等し。大慈悲はこれ仏道の正因なるがゆゑに、〈正道大慈悲〉とのたまへり。
慈悲に三縁あり。一つには衆生縁、これ小悲なり。二つには法縁、これ中悲なり。三つには無縁、これ大悲なり。大悲はすなはちこれ出世の善なり。安楽浄土はこの大悲より生ぜるがゆゑなればなり。ゆゑにこの大悲をいひて浄土の根とす。ゆゑに〈出世善根生〉といふなり」と。(浄土論註 P.61)(真巻 P.358)

『浄土論』の偈文「正道大慈悲 出世善根生」の大慈悲の語を『浄土論註』で解釈する中で、「慈悲に三縁あり」とし、衆生縁、法縁、無縁とする。この三縁という語は『大智度論』巻四〇や『涅槃経』梵行品などの 三縁の語に依られたものであろう。ここでの縁とは、「縁ずる(心のはたらきが対境に向かってはたらき、そのすがた(相)を取ること)」という意味で、慈悲がどのような関係性によっておこるかを三種に分けて考察されている。

なお、三縁については諸経論でさまざまな解釈があるが、一つは衆生縁の慈悲といわれるもので、人間関係の因縁によっておこす慈悲で、父母、妻子、親族などを縁じておこす慈悲で普通には愛といわれるものである。我・法ともに有とする執着にもとずく慈悲であるから小悲という。

法縁の慈悲とはあらゆる縁によって生ずるものであるから、その関係、道理によっておこす慈悲を法縁という。我という実体はないという道理は体得しているが、一切の法は空であることを体得していないので中悲という。

無縁の慈悲とは、迷いの世俗を超越した仏・菩薩のみにある、縁なくしておこす絶対平等の慈悲であるから無縁という。人・法の一切法は空であると体得した智慧よりおこる慈悲であるから大悲という。この智慧を因とする〈正道の大慈悲であるような出世の善根より生ず〉という、無縁の大悲が浄土の法性であり根本である。そして、真仏・真土の浄土とは、この大慈悲をエネルギーとして性起された無住処涅槃の境界である。

参照

『大智度論』巻40

復次慈悲心有三種。衆生縁法縁無縁。

復た次ぎに、慈悲心に三種有り、衆生縁、法縁、無縁なり。

凡夫人衆生縁。声聞辟支仏及菩薩 初衆生縁後法縁。

凡夫人は衆生縁なり。声聞、辟支仏、及び菩薩は、初は衆生縁、後は法縁なり。

諸仏善修行畢竟空故名為無縁。

諸仏は、善く畢竟空を修行するが故に名づけて、無縁と為す。


ノート:三縁『涅槃経』梵行品