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 別々のものが本来的には一つであることをいう。不二、不離などに同じ。
 
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:<kana>当体全是(とうたいぜんぜ)</kana>の即。あるものがそのまま違うものと同じであることをいい、「権即実(方便のままが真実である)」などと用いられる。
 
:<kana>当体全是(とうたいぜんぜ)</kana>の即。あるものがそのまま違うものと同じであることをいい、「権即実(方便のままが真実である)」などと用いられる。
また、「即」の時間的関係をいうものに同時即と異時即とがある。
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また、「即」の時間的関係をいうものに'''<kana>同時即(どうじそく)</kana>'''と'''<kana>異時即(いじそく)</kana>'''とがある。
同時即とは『一多文意』に「即得往生といふは、「即」はすなはちといふ、ときをへず、日をもへだてぬなり」 ([[一多#P--678|一多 P.678]])とあるように、信心がおこることと[[正定聚]]に住することが同時である場合をいう。
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同時即とは『一多文意』に「即得往生といふは、「即」は{{DotUL|すなはち}}といふ、ときをへず、日をもへだてぬなり」 ([[一多#P--678|一多 P.678]])とあるように、信心がおこることと[[正定聚]]に住することが同時である場合をいう。
 
異時即とは『高僧和讃』に、<br>
 
異時即とは『高僧和讃』に、<br>
 
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:煩悩具足と信知して
 
:煩悩具足と信知して
 
: 本願力に乗ずれば
 
: 本願力に乗ずれば
: すなはち穢身すてはてて
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: {{DotUL|すなはち}}[[穢身]]すてはてて
: 法性常楽証せしむ ([[高僧和讃#P--591|高僧 P.591]])
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とあるように、信心がおこることと穢身を捨てることは時間的な隔たりがあり異時である場合をいう。〔浄土真宗辞典〕
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とあるように、本願力に乗じて信心がおこることと[[穢身]]を捨てることは時間的な隔たりがあり異時である場合をいう。〔浄土真宗辞典〕
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『智度論』には、
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:即時有二種。一者同時。二者雖久更無異法。即是心而得修七覺亦名即時。
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::即時に二種有り、一には同時、二には久しといえども、更に異法無し。即ちこの心にして、而も[[七覚]]を修むることを得るも、また即時と名づく。[http://21dzk.l.u-tokyo.ac.jp/SAT2012/T1509_.25.0313c25.html (*)]
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と、同時即と異時即を論じている。
  
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2024年7月10日 (水) 15:24時点における最新版

そく

 別々のものが本来的には一つであることをいう。不二、不離などに同じ。 天台教学では3種に分けて説明する。

二物相合(にもつそうごう)の即。二つの物が離れない関係にあることをいう。
背面相翻(はいめんそうほん)の即。表と裏のように一見異なっているが、その本質からいえば一であることをいう。
当体全是(とうたいぜんぜ)の即。あるものがそのまま違うものと同じであることをいい、「権即実(方便のままが真実である)」などと用いられる。

また、「即」の時間的関係をいうものに同時即(どうじそく)異時即(いじそく)とがある。 同時即とは『一多文意』に「即得往生といふは、「即」はすなはちといふ、ときをへず、日をもへだてぬなり」 (一多 P.678)とあるように、信心がおこることと正定聚に住することが同時である場合をいう。 異時即とは『高僧和讃』に、
(73)

煩悩具足と信知して
 本願力に乗ずれば
 すなはち穢身すてはてて
 |法性常楽証せしむ (高僧 P.591)

とあるように、本願力に乗じて信心がおこることと穢身を捨てることは時間的な隔たりがあり異時である場合をいう。〔浄土真宗辞典〕


『智度論』には、

即時有二種。一者同時。二者雖久更無異法。即是心而得修七覺亦名即時。
即時に二種有り、一には同時、二には久しといえども、更に異法無し。即ちこの心にして、而も七覚を修むることを得るも、また即時と名づく。(*)

と、同時即と異時即を論じている。

参照WEB版浄土宗大辞典の「即」の項目