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「信心歓喜して…願ずれば」の版間の差分

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しんじんかんぎして…がんずれば
 
しんじんかんぎして…がんずれば
  
 通常は「信心歓喜して聞くところを慶び、すなはち一念に曁ぶまで心を至すもの、回向して生ぜんと願ずれば」と読む。親鸞聖人は如来回向の義をあらわすために、原文の「至心者」を阿弥陀如来とし、このように読みかえられた。 ([[信巻本#P--215|信巻 P.215]]、[[浄土和讃#P--564|浄土 P.564]])
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 通常は「信心歓喜して聞くところを慶び、すなはち一念に曁(およ)ぶまで心を至すもの、回向して生ぜんと願ずれば」と読む。親鸞聖人は如来回向の義をあらわすために、原文の「至心者」を阿弥陀如来とし、このように読みかえられた。 ([[信巻本#P--215|信巻 P.215]]、[[浄土和讃#P--564|浄土 P.564]])
  
 
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讃阿弥陀仏偈原文:
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讃阿弥陀仏偈原文:[[讃阿弥陀仏偈と浄土和讃#18gwan|(*)]]
 
:'''諸聞阿弥陀徳号 信心歓喜慶所聞'''
 
:'''諸聞阿弥陀徳号 信心歓喜慶所聞'''
 
:'''乃曁一念至心者 廻向願生皆得生'''
 
:'''乃曁一念至心者 廻向願生皆得生'''
 
当面読み:<br />
 
当面読み:<br />
:あらゆるもの、阿弥陀の徳号を聞きて、信心歓喜して聞くところを慶び、すなはち一念に<kana>曁(およ)</kana>ぶまで心を至すもの、回向して生ぜんと願ずればみな生ずることを得。[[讃阿弥陀仏偈_%28七祖%29#no24|(*)]]<br />
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:あらゆるもの、阿弥陀の徳号を聞きて、信心歓喜して聞くところを慶び、すなはち一念に<kana>曁(およ)</kana>ぶまで{{DotUL|心を至すもの}}、回向して生ぜんと願ずればみな生ずることを得。[[讃阿弥陀仏偈_%28七祖%29#no24|(*)]]<br />
  
 
宗祖の訓:<br />
 
宗祖の訓:<br />
:あらゆるもの、阿弥陀の徳号を聞きて、信心歓喜して聞くところを慶ばんこと、いまし一念におよぶまでせん。至心のひと回向したまへり。生ぜんと願ずればみな往くことを得しむ。[[信巻本#no10|(*)]]
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:あらゆるもの、阿弥陀の徳号を聞きて、信心歓喜して聞くところを慶ばんこと、いまし一念におよぶまでせん。{{DotUL|至心のひと}}回向したまへり。生ぜんと願ずればみな往くことを得しむ。[[信巻本#no10|(*)]]
  
信心歓喜という言葉は、本願成就文の「聞其名号 信心歓喜」[[顕浄土真実信文類_%28末%29#no61|(*)]]で、名号を廻施され、その名号を信心歓喜することである。それは本願に説かれた、「如来のお心に称(かな)った心」でもあるから真実であるので信心(信者即是真也[[信巻本#no20|(*)]])というのである。信心とは心に信ずるのではなく、[[因位]]の法蔵菩薩の[[菩提心]]に感動し歓喜するすることをいうのであった。以下の『華厳経』の結論である「信満成仏」の文も宗祖独自の訓点によって読んであられることからも解かる。
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信心歓喜という言葉は、本願成就文の「聞其名号 信心歓喜」[[顕浄土真実信文類_%28末%29#no61|(*)]]で、名号を廻施され、その名号を信心歓喜することである。それは本願に説かれた、「如来のお心に称(かな)った心」でもあるから真実であるので信心(信者即是真也[[信巻本#no20|(*)]])というのである。信心とは心に信ずるのではなく、[[因位]]の法蔵菩薩の[[菩提心]]に感動し歓喜するすることをいうのであった。この別願中の別願である菩提心を受け入れない事を疑心といい自力というのである。以下の『華厳経』の結論である「信満成仏」の文も宗祖独自の訓点によって読んでおられることからも解かる。
  
 
大方廣佛華嚴經原文
 
大方廣佛華嚴經原文
[http://21dzk.l.u-tokyo.ac.jp/SAT/T0278_,09,0788a29:0278_,09,0788b01.html (*)]:<br />
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[http://21dzk.l.u-tokyo.ac.jp/SAT2012/T0278_.09.0788a29.html (*)]:<br />
 
'''問此法歓喜 信心無疑者 速成無上道 興諸如来等'''
 
'''問此法歓喜 信心無疑者 速成無上道 興諸如来等'''
  
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{{Small|本願成就文へのリンクは、信巻末では、「除五逆誹謗正法」の抑止門も文を引文されていないので、これに依った。}}
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2018年6月12日 (火) 02:11時点における最新版

しんじんかんぎして…がんずれば

 通常は「信心歓喜して聞くところを慶び、すなはち一念に曁(およ)ぶまで心を至すもの、回向して生ぜんと願ずれば」と読む。親鸞聖人は如来回向の義をあらわすために、原文の「至心者」を阿弥陀如来とし、このように読みかえられた。 (信巻 P.215浄土 P.564)

出典(教学伝道研究センター編『浄土真宗聖典(注釈版)第二版』本願寺出版社
『浄土真宗聖典(注釈版)七祖篇』本願寺出版社

区切り線以下の文章は各投稿者の意見であり本願寺派の見解ではありません。

讃阿弥陀仏偈原文:(*)

諸聞阿弥陀徳号 信心歓喜慶所聞
乃曁一念至心者 廻向願生皆得生

当面読み:

あらゆるもの、阿弥陀の徳号を聞きて、信心歓喜して聞くところを慶び、すなはち一念に(およ)ぶまで心を至すもの、回向して生ぜんと願ずればみな生ずることを得。(*)

宗祖の訓:

あらゆるもの、阿弥陀の徳号を聞きて、信心歓喜して聞くところを慶ばんこと、いまし一念におよぶまでせん。至心のひと回向したまへり。生ぜんと願ずればみな往くことを得しむ。(*)

信心歓喜という言葉は、本願成就文の「聞其名号 信心歓喜」(*)で、名号を廻施され、その名号を信心歓喜することである。それは本願に説かれた、「如来のお心に称(かな)った心」でもあるから真実であるので信心(信者即是真也(*))というのである。信心とは心に信ずるのではなく、因位の法蔵菩薩の菩提心に感動し歓喜するすることをいうのであった。この別願中の別願である菩提心を受け入れない事を疑心といい自力というのである。以下の『華厳経』の結論である「信満成仏」の文も宗祖独自の訓点によって読んでおられることからも解かる。

大方廣佛華嚴經原文 (*)
問此法歓喜 信心無疑者 速成無上道 興諸如来等

当面読み:

この法を聞きて歓喜し、心に信じて疑なければ、すみやかに無上道を成じ、もろもろの如来と等しからん。

宗祖訓:

この法を聞きて信心を歓喜して、疑なきものはすみやかに無上道を成らん。もろもろの如来と等し。(*)


本願成就文へのリンクは、信巻末では、「除五逆誹謗正法」の抑止門の文を引文されておられないので、これに依った。