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「牛盗人・牛を盗みたる人」の版間の差分

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 人を罵る語。『<ruby><rb>雑宝蔵</rb><rp>(</rp><rt>ぞうほうぞう</rt><rp>)</rp></ruby>経』巻二の離越(りおつ)尊者の因縁(牛盗人の冤罪をこうむる話)に基づく語とする説、比叡山で外道を指す称として用いられていたとする説などがある。([[改邪鈔#P--921|改邪鈔 P.921]],[[御文二#P--1111|御文章 P.1111]],[[御文三#P--1156| P.1156]])
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 人を罵る語。『<ruby><rb>雑宝蔵</rb><rp>(</rp><rt>ぞうほうぞう</rt><rp>)</rp></ruby>経』巻二の離越(りおつ)尊者の因縁(牛盗人の冤罪をこうむる話)に基づく語とする説、比叡山で外道を指す称として用いられていたとする説などがある。([[改邪鈔#P--921|改邪鈔 P.921]],[[御文二#P--1111|御文章 P.1111]],[[御文二#P--1128| P.1128]],[[御文三#P--1156| P.1156]])
  
 
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 無実の罪人をいったものであるが、転じて人を罵るのに用いられたものとみられる。
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 無実の罪人をいったものであるが、転じて人を罵るのに用いられたものとみられる。<br />
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浄土真宗の坊さんや門徒の間では、真摯に聴聞にはげむ者を、『御文章』三帖十一通の、
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:「たとひ牛盗人とはよばるとも、[[仏法者]]・[[後世者]]とみゆるやうに振舞ふべからず。また外には[[仁義礼智信|仁・義・礼・智・信]]をまもりて王法をもつて先とし、内心にはふかく本願他力の信心を本とすべき」 ([[御文章_(三帖)#P--1156|御文章 P.1156]])
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の、牛盗人と揶揄してきた歴史的経緯がある。[[自力]]と[[他力]]という宗教世界をあらわす語を世俗的に他の力に依存と捉えた弊害である。特に浄土真宗の坊さんは少しく学ぼうとする門徒に対して「知らしむべからず、依らしむべし」と、学文を軽視してきたものである。御開山が仰った「浄土宗の人は愚者になりて往生す」には、愚者になる学文が必要なのだが、自分が門徒の問いに答えられないからと、学文を排斥するのは如何であろうかと思ふ(笑
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2023年6月8日 (木) 20:47時点における最新版

うしぬすびと・うしぬすひと

 人を罵る語。『雑宝蔵(ぞうほうぞう)経』巻二の離越(りおつ)尊者の因縁(牛盗人の冤罪をこうむる話)に基づく語とする説、比叡山で外道を指す称として用いられていたとする説などがある。(改邪鈔 P.921,御文章 P.1111, P.1128, P.1156)

出典(教学伝道研究センター編『浄土真宗聖典(注釈版)第二版』本願寺出版社
『浄土真宗聖典(注釈版)七祖篇』本願寺出版社

区切り線以下の文章は各投稿者の意見であり本願寺派の見解ではありません。

 無実の罪人をいったものであるが、転じて人を罵るのに用いられたものとみられる。
浄土真宗の坊さんや門徒の間では、真摯に聴聞にはげむ者を、『御文章』三帖十一通の、

「たとひ牛盗人とはよばるとも、仏法者後世者とみゆるやうに振舞ふべからず。また外には仁・義・礼・智・信をまもりて王法をもつて先とし、内心にはふかく本願他力の信心を本とすべき」 (御文章 P.1156)

の、牛盗人と揶揄してきた歴史的経緯がある。自力他力という宗教世界をあらわす語を世俗的に他の力に依存と捉えた弊害である。特に浄土真宗の坊さんは少しく学ぼうとする門徒に対して「知らしむべからず、依らしむべし」と、学文を軽視してきたものである。御開山が仰った「浄土宗の人は愚者になりて往生す」には、愚者になる学文が必要なのだが、自分が門徒の問いに答えられないからと、学文を排斥するのは如何であろうかと思ふ(笑


比叡山で外道を指す称としての牛盗人説
インクルード ノート

◆ 参照読み込み (transclusion) トーク:牛盗人・牛を盗みたる人

雑宝蔵経巻第二
元魏 西域三蔵 吉迦夜 共 曇曜訳 (一九)

離越被謗縁 [1]
離越(りおつ)の謗らるるの縁。


昔罽賓国。有離越阿羅漢。山中坐禅。

昔、罽賓国(けいひんーこく)に離越という阿羅漢有りて山中に坐禅しき。

有一人失牛。追逐蹤跡。径至其所。

有る一人 牛を失ひ、蹤跡を追逐して径(こみち)、其の所に至る。

爾時離越煮草染衣。衣自然変作牛皮。染汁変成為血。所煮染草変成牛肉。所持鉢盂変成牛頭。

その時に離越 草を煮て衣を染む。衣自然に変じて牛皮と作り、染汁変成して血と為り、煮る所の染草変じて牛肉と成り、所持の鉢盂 変じて牛頭と成れり。

牛主見已。即捉収縛。将詣於王。王即付獄中。経十二年。恒為獄監。飼馬除糞。

牛主見已(おわ)りて即ち捉(とら)へ収縛して将(ひき)いて王に詣(いた)る。王即ち獄中に付して十二年を経(ふ)、恒(つね)に獄監と為し、馬を飼ひ糞を除けり。

離越弟子。得羅漢者。有五百人。観覓其師。不知所在。業縁欲尽。有一弟子。見師乃在罽賓獄中。

離越の弟子、羅漢を得たる者、五百人有り。其の師を観覓せんとして所在を知らず。業縁尽きんと欲するとき一弟子有り、師はすなわち罽賓の獄中に在らるるを見る。

即来告王。我師離越。在王獄中。願為断理。

即ち来り王に告ぐ。我師離越は王の獄中に在(いま)せり。願わくは断理を為せと。

王即遣人。就獄検校。王人至獄。唯見有人。威色憔悴。鬚髪極長。而為獄監。飼馬除糞。

王 即ち人を遣し、獄に就いて検校せしむ。王人 獄に至しも唯だ人有りて威色憔悴、鬚髪極めて長くして獄監と為り、馬を飼ひ糞を除くを見るのみ。

還白王言。獄中都無沙門道士。唯有獄卒比丘。

還りて王に白して言く、獄中都(すべて)沙門道士無し、唯だ獄卒の比丘有りしのみと。

弟子。復白王言。願但設教。諸有比丘。悉聴出獄。

弟子、復(また)王に白して言く、願くは但(ただ)教を設けよ。諸の有らゆる比丘は悉く出獄を聴(ゆる)せと。

王即宣令諸有道人。悉皆出獄。

王、即ち諸(もろもろ)の有らゆる道人に宣令して、悉く皆 獄を出でしむ。

尊者離越。於其獄中。鬚髪自落。袈裟著身。踊在虚空。作十八変。

尊者離越は、其の獄中に於いて、鬚髪自(おのずか)ら落ち、袈裟身に著き、踊りて虚空に在り。十八変[1]を作せり。

王見是事。歎未曽有。五体投地。白尊者言。願受我懺悔 即時来下。受王懺悔。

王 是の事を見て、未曽有なりと歎じ五体を地に投じ、尊者に白して言く、願わくは我が懺悔を受けよと。

即時来下。受王懺悔。

即時に来り下りて、王の懺悔を受く。

王即問言。以何業縁。在於獄中。受苦経年。

王、即ち問いて言く、何の業縁を以て獄中に在り苦を受け年を経(へ)るやと。

尊者答言。我於往昔。亦曽失牛。随逐蹤跡。経一山中。見辟支仏独処坐禅。即便誣謗。至一日一夜。

尊者答へて言く、我、往昔に於ても亦(また)曽(かつ)て牛を失ひ、蹤跡を随逐して一山中を経しに、辟支仏の独処坐禅せるを見、即便(すなわ)ち誣(し)ひ謗りて一日一夜に至れり。

以是因縁。堕落三塗。苦毒無量。余殃不尽。至得羅漢。猶被誹謗

是の因縁を以て三塗に堕落し、苦毒無量なり。余殃尽きず羅漢を得るに至るも猶(なお)誹謗せらるるなり。
  • 業果を業滅する為にあえて苦難に耐えるということ。禅の達磨の「二入四行論」には、「報冤行(ほうおん-ぎょう)」として、苦を受けても、自分の過去世の悪行の報いであると考えて、他人を憎まずとある。

浄土真宗では、赤尾の道宗が草取りの最中に、道宗を試すために後ろから蹴飛ばしたという話がある。無茶な話だ。しかし道宗は顔色も変えず起き上がって、また草取りを始めた。もう一度蹴飛ばしたのだが道宗には何の変りもなかった。蹴った人が、たまりかねて「わけもなしに人に蹴られて怒りもしないのはどうしてか?」と尋ねたところ、道宗は、

「前生の借金払いだ。まだまだあるかもしれない」

と答えたそうである。業とか前世や輪廻という概念を持たない現代人には理解しがたい話だと思ふ。しかし越前の古い門徒は、災難に遭った時などには「受けんならんもんは、受けんならん」と云っていたものであった。不条理を受け流す知恵でもあったのだろう。

それはまた鈴木大拙が業に対して「真宗信者は、この相対の世界にいる限り、このことが到底不可能であることを承知している。どれほど相対的存在として人間の知力・道徳力を尽しても、業の必然性から遁れる術はない。だから彼等は業に随順する、業を遁れたり、業に打ち克つことを企てぬ。業をそのままにして、却ってこれを超える方法を求める。そしてそれによって本来の自由に立ち戻らんとする。その方法は、最高の正覚達成に必要なあらゆる条件を具備した安楽浄土の主人公としての無量寿・無量光の仏陀を信ずることである。かくして真宗信者の第一の目的は浄土に往生することである。そして即時に無上覚を証することである。」と言われていたことであった。→済度


  1. 神通力によって現出する十八種類の神秘的な所業。