「御文章 (五帖)」の版間の差分
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末代無智の[[在家止住]]の男女たらんともがらは、こころをひとつにして阿弥陀仏をふかくたのみまゐらせて、さらに余のかたへこころをふらず、[[一心一向]]に仏たすけたまへと申さん衆生をば、たとひ罪業は深重なりとも、かならず弥陀如来はすくひましますべし。 | 末代無智の[[在家止住]]の男女たらんともがらは、こころをひとつにして阿弥陀仏をふかくたのみまゐらせて、さらに余のかたへこころをふらず、[[一心一向]]に仏たすけたまへと申さん衆生をば、たとひ罪業は深重なりとも、かならず弥陀如来はすくひましますべし。 | ||
− | + | これすなはち第十八の'''念仏往生'''の誓願のこころなり。かくのごとく決定してのうへには、ねてもさめても、いのちのあらんかぎりは、称名念仏すべきものなり。[[あなかしこ]]、あなかしこ。 | |
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信心獲得すといふは第十八の願をこころうるなり。この願をこころうるといふは、南無阿弥陀仏の[[すがた]]をこころうるなり。このゆゑに、南無と帰命する一念の処に発願回向のこころあるべし。これすなはち弥陀如来の凡夫に回向し<span id="P--1192"></span>ましますこころなり。 | 信心獲得すといふは第十八の願をこころうるなり。この願をこころうるといふは、南無阿弥陀仏の[[すがた]]をこころうるなり。このゆゑに、南無と帰命する一念の処に発願回向のこころあるべし。これすなはち弥陀如来の凡夫に回向し<span id="P--1192"></span>ましますこころなり。 | ||
− | これを『大経』(上)には「[[令諸衆生…| | + | これを『大経』(上)には「[[令諸衆生…|令諸衆生功徳成就]]」と説けり。されば[[無始]]以来つくりとつくる悪業煩悩を、のこるところもなく願力不思議をもつて消滅するいはれあるがゆゑに、正定聚不退の位に住すとなり。これによりて「[[煩悩を断ぜずして涅槃をう]]」といへるはこのこころなり。この義は[[当流一途の所談]]なるものなり。他流の人に対してかくのごとく[[沙汰あるべからざる]]ところなり。よくよくこころうべきものなり。あなかしこ、あなかしこ。 |
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それ、人間の[[浮生なる相]]をつらつら[[観ずるに]]、おほよそはかなきものはこの世の[[始中終]]、まぼろしのごとくなる一期なり。さればいまだ万歳の人身を受けたりといふことをきかず、一生過ぎやすし。いまにいたりてたれか[[百年の形体]]をたもつべきや。われや先、人や先、今日ともしらず、明日ともしらず、[[おくれさきだつ人]]は[[もとのしづくすゑの露]]よりも[[しげし]][[といへり]]。 | それ、人間の[[浮生なる相]]をつらつら[[観ずるに]]、おほよそはかなきものはこの世の[[始中終]]、まぼろしのごとくなる一期なり。さればいまだ万歳の人身を受けたりといふことをきかず、一生過ぎやすし。いまにいたりてたれか[[百年の形体]]をたもつべきや。われや先、人や先、今日ともしらず、明日ともしらず、[[おくれさきだつ人]]は[[もとのしづくすゑの露]]よりも[[しげし]][[といへり]]。 | ||
− | されば[[朝には…|朝には]]紅顔ありて、夕には白骨となれる身なり。すでに無常の風きたりぬれば、すなはちふたつのまなこたちまちに閉ぢ、ひとつの息ながくたえぬれば、紅顔むなしく変じて[[桃李のよそほひ]]を失ひぬるときは、[[六親眷属]] | + | されば[[朝には…|朝には]]紅顔ありて、夕には白骨となれる身なり。すでに無常の風きたりぬれば、すなはちふたつのまなこたちまちに閉ぢ、ひとつの息ながくたえぬれば、紅顔むなしく変じて[[桃李のよそほひ]]を失ひぬるときは、[[六親眷属]]あつまりてなげきかな<span id="P--1204"></span>しめども、さらにその甲斐あるべからず。[[さてしもあるべきことならねばとて]]、[[野外におくりて]][[夜半の煙]]となしはてぬれば、ただ白骨のみぞのこれり。[[あはれ]]といふもなかなか[[おろかなり]]。 |
− | されば人間のはかなきことは[[老少不定]]の[[さかひ]] | + | されば人間のはかなきことは[[老少不定]]の[[さかひ]]なれば、たれの人もはやく'''[[後生の一大事]]'''を心にかけて、阿弥陀仏をふかくたのみまゐらせて、念仏申すべきものなり。あなかしこ、あなかしこ。 |
====それ一切の女人==== | ====それ一切の女人==== | ||
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====当流聖人==== | ====当流聖人==== | ||
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====女人成仏==== | ====女人成仏==== | ||
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− | + | それ、一切の女人たらん身は、弥陀如来をひしとたのみ、後生たすけたまへと申さん女人をば、かならず御たすけあるべし。さるほどに、[[諸仏のすてたまへる女人]]を、阿弥陀如来ひとり、われたすけずんばまたいづれの仏のたすけたまはんぞとおぼしめして、無上の大願をおこして、われ諸仏にすぐれて女人をたすけんとて、[[五劫思惟|五劫があひだ思惟]]し、[[永劫があひだ修行]]して、[[世にこえたる]]大願をおこして、女人成仏といへる殊勝の願(第三十五願)をおこしまします弥陀なり。このゆゑにふかく弥陀をたのみ、後生たすけたまへと申さん女人は、みなみな極楽に往生すべきものなり。あなかしこ、あなかしこ。 | |
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====当流安心・経釈明文==== | ====当流安心・経釈明文==== | ||
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(21) | (21) | ||
− | + | 当流の安心といふは、なにのやうもなく、もろもろの雑行雑修のこころをすてて、わが身はいかなる罪業ふかくとも、それをば仏にまかせまゐらせて、ただ一心に阿弥陀如来を一念にふかくたのみまゐらせて、御たすけ候へと申さん衆生をば、十人は十人百人は百人ながらことごとくたすけたまふべし。<span id="P--1207"></span>これさらに疑ふこころつゆほどもあるべからず。かやうに信ずる機を安心をよく決定せしめたる人とはいふなり。このこころをこそ[[経釈の明文]]には「[[一念発起住正定聚]]」とも「平生業成の行人」ともいふなり。さればただ弥陀仏を一念にふかくたのみたてまつること肝要なりとこころうべし。このほかには、弥陀如来のわれらをやすくたすけまします御恩のふかきことをおもひて、行住坐臥につねに念仏を申すべきものなり。あなかしこ、あなかしこ。 | |
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====当流勧化==== | ====当流勧化==== | ||
− | (22) | + | ([[御文章_五帖第22通|22]]) |
− | + | そもそも、当流勧化のおもむきをくはしくしりて、極楽に往生せんとおもはんひとは、まづ他力の信心といふことを存知すべきなり。それ、他力の信心といふはなにの要ぞといへば、かかるあさましきわれらごときの凡夫の身が、たやすく浄土へまゐるべき[[用意]]なり。その他力の信心のすがたといふはいかなることぞといへば、なにのやうもなく、ただひとすぢに阿弥陀如来を一心一向にたのみたてまつりて、たすけたまへとおもふこころの一念おこるとき、かならず弥陀如来の摂取の光明を放ちて、その身の娑婆にあらんほどは、この光明のなかに摂めおきましますなり。これすなはちわれらが往生の定まりたるすがたなり。 | |
− | + | されば[[南無阿弥陀仏と申す体は]]、われらが他力の信心をえたるすがたなり。この信心といふは、この南無阿弥陀仏のいはれをあらはせるすがたなりと<span id="P--1208"></span>こころうべきなり。さればわれらがいまの他力の信心ひとつをとるによりて、極楽にやすく往生すべきことの、さらになにの疑もなし。あら、殊勝の弥陀如来の本願や。このありがたさの弥陀の御恩をば、いかがして報じたてまつるべきぞなれば、ただねてもおきても南無阿弥陀仏ととなへて、かの弥陀如来の仏恩を報ずべきなり。されば南無阿弥陀仏ととなふるこころはいかんぞなれば阿弥陀如来の御たすけありつるありがたさたふとさよとおもひて、それをよろこびまうすこころなりとおもふべきものなり。あなかしこ、あなかしこ。 | |
[釈証如](花押) | [釈証如](花押) | ||
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2023年2月11日 (土) 23:03時点における最新版
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目次
御文章(お文) |
---|
御文章_(一帖) |
御文章_(二帖) |
御文章_(三帖) |
御文章_(四帖) |
御文章_(五帖) |
御文章
五帖
末代無智
(1)
末代無智の在家止住の男女たらんともがらは、こころをひとつにして阿弥陀仏をふかくたのみまゐらせて、さらに余のかたへこころをふらず、一心一向に仏たすけたまへと申さん衆生をば、たとひ罪業は深重なりとも、かならず弥陀如来はすくひましますべし。
これすなはち第十八の念仏往生の誓願のこころなり。かくのごとく決定してのうへには、ねてもさめても、いのちのあらんかぎりは、称名念仏すべきものなり。あなかしこ、あなかしこ。
八万の法蔵
(2)
それ、八万の法蔵をしるといふとも、後世をしらざる人を愚者とす。たとひ一文不知の尼入道なりといふとも、後世をしるを智者とすといへり。しかれば当流のこころは、あながちにもろもろの聖教をよみ、ものをしりたりといふとも、一念の信心のいはれをしらざる人は、いたづらごとなりとしるべし。されば聖人(親鸞)の御ことばにも、「一切の男女たらん身は、弥陀の本願を信ぜずしては、ふつとたすかるといふことあるべからず」と仰せられたり。
このゆゑにいかなる女人なりといふとも、もろもろの雑行をすてて、一念に弥陀如来今度の後生たすけたまへとふかくたのみまうさん人は、十人も百人もみなともに弥陀の報土に往生すべきこと、さらさら疑あるべからざるものなり。あなかしこ、あなかしこ。
在家の尼入道
(3)
それ、在家の尼女房たらん身は、なにのやうもなく、一心一向に阿弥陀仏をふかくたのみまゐらせて、後生たすけたまへと申さんひとをば、みなみな御たすけあるべしとおもひとりて、さらに疑のこころゆめゆめあるべからず。これすなはち弥陀如来の御ちかひの他力本願とは申すなり。このうへには、なほ後生のたすからんことのうれしさありがたさをおもはば、ただ南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏ととなふべきものなり。あなかしこ、あなかしこ。
男子も女人も
(4)
そもそも、男子も女人も罪のふかからんともがらは、諸仏の悲願をたのみても、今の時分は末代悪世なれば、諸仏の御ちからにては、なかなかかなはざる時なり。これによりて、阿弥陀如来と申したてまつるは諸仏にすぐれて、十悪・五逆の罪人をわれたすけんといふ大願をおこしましまして、阿弥陀仏と成りたまへり。「この仏をふかくたのみて一念御たすけ候へと申さん衆生を、われたすけずは正覚ならじ」と誓ひまします弥陀なれば、われらが極楽に往生せんことはさらに疑なし。
このゆゑに、一心一向に阿弥陀如来たすけたまへとふかく心に疑なく信じて、わが身の罪のふかきことをばうちすて、仏にまかせまゐらせて、一念の信心定まらん輩は、十人は十人ながら百人は百人ながら、みな浄土に往生すべきこと、さらに疑なし。このうへには、なほなほたふとくおもひたてまつらんこころのおこらんときは、南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏と、時をもいはず、ところをもきらはず念仏申すべし。これをすなはち仏恩報謝の念仏と申すなり。あなかしこ、あなかしこ。
信心獲得
(5)
信心獲得すといふは第十八の願をこころうるなり。この願をこころうるといふは、南無阿弥陀仏のすがたをこころうるなり。このゆゑに、南無と帰命する一念の処に発願回向のこころあるべし。これすなはち弥陀如来の凡夫に回向しましますこころなり。
これを『大経』(上)には「令諸衆生功徳成就」と説けり。されば無始以来つくりとつくる悪業煩悩を、のこるところもなく願力不思議をもつて消滅するいはれあるがゆゑに、正定聚不退の位に住すとなり。これによりて「煩悩を断ぜずして涅槃をう」といへるはこのこころなり。この義は当流一途の所談なるものなり。他流の人に対してかくのごとく沙汰あるべからざるところなり。よくよくこころうべきものなり。あなかしこ、あなかしこ。
一念に弥陀
(6)
一念に弥陀をたのみたてまつる行者には、無上大利の功徳をあたへたまふこころを、『和讃』(正像末和讃・三一)に聖人(親鸞)のいはく、「五濁悪世の有情の 選択本願信ずれば 不可称不可説不可思議の 功徳は行者の身にみてり」。この和讃の心は、「五濁悪世の衆生」といふは一切われら女人悪人のことなり。さればかかるあさましき一生造悪の凡夫なれども、弥陀如来を一心一向にたのみまゐらせて、後生たすけたまへと申さんものをば、かならずすくひましますべきこと、さらに疑ふべからず。かやうに弥陀をたのみまうすものには、不可称不可説不可思議の大功徳をあたへましますなり。「不可称不可説不可思議の功徳」といふことは、かずかぎりもなき大功徳のことなり。
この大功徳を、一念に弥陀をたのみまうすわれら衆生に回向しましますゆゑに、過去・未来・現在の三世の業障一時に罪消えて、正定聚の位、また等正覚の位なんどに定まるものなり。このこころをまた『和讃』(正像末和讃・一)にいはく、「弥陀の本願信ずべし 本願信ずるひとはみな 摂取不捨の利益ゆゑ 等正覚にいたるなり」(意)といへり。「摂取不捨」といふは、これも、一念に弥陀をたのみたてまつる衆生を光明のなかにをさめとりて、信ずるこころだにもかはらねば、すてたまはずといふこころなり。
このほかにいろいろの法門どもありといへども、ただ一念に弥陀をたのむ衆生はみなことごとく報土に往生すべきこと、ゆめゆめ疑ふこころあるべからざるものなり。あなかしこ、あなかしこ。
それ女人の身は
(7)
それ、女人の身は、五障・三従とて男にまさりてかかるふかき罪のあるなり。
このゆゑに一切の女人をば、十方にまします諸仏も、わがちからにては女人をばほとけになしたまふことさらになし。しかるに阿弥陀如来こそ、女人をばわれひとりたすけんといふ大願(第三十五願)をおこしてすくひたまふなり。このほとけをたのまずは、女人の身のほとけに成るといふことあるべからざるなり。
これによりて、なにとこころをももち、またなにと阿弥陀ほとけをたのみまゐらせてほとけに成るべきぞなれば、なにのやうもいらず、ただふたごころなく一向に阿弥陀仏ばかりをたのみまゐらせて、後生たすけたまへとおもふこころひとつにて、やすくほとけに成るべきなり。このこころの露ちりほども疑なければ、かならずかならず極楽へまゐりて、うつくしきほとけとは成るべきなり。さてこのうへにこころうべきやうは、ときどき念仏を申して、かかるあさましきわれらをやすくたすけまします阿弥陀如来の御恩を、御うれしさありがたさを報ぜんために、念仏申すべきばかりなりとこころうべきものなり。あなかしこ、あなかしこ。
五劫思惟
(8)
それ、五劫思惟の本願といふも、兆載永劫の修行といふも、ただわれら一切衆生をあながちにたすけたまはんがための方便に、阿弥陀如来、御身労ありて、南無阿弥陀仏といふ本願(第十八願)をたてましまして、「まよひの衆生の一念に阿弥陀仏をたのみまゐらせて、もろもろの雑行をすてて、一向一心に弥陀をたのまん衆生をたすけずんば、われ正覚取らじ」と誓ひたまひて、南無阿弥陀仏と成りまします。
これすなはちわれらがやすく極楽に往生すべきいはれなりとしるべし。されば南無阿弥陀仏の六字のこころは、一切衆生の報土に往生すべきすがたなり。このゆゑに南無と帰命すれば、やがて阿弥陀仏のわれらをたすけたまへるこころなり。このゆゑに「南無」の二字は、衆生の弥陀如来にむかひたてまつりて後生たすけたまへと申すこころなるべし。かやうに弥陀をたのむ人をもらさずすくひたまふこころこそ、「阿弥陀仏」の四字のこころにてありけりとおもふべきものなり。これによりて、いかなる十悪・五逆、五障・三従の女人なりとも、もろもろの雑行をすてて、ひたすら後生たすけたまへとたのまん人をば、たとへば十人もあれ百人もあれ、みなことごとくもらさずたすけたまふべし。このおもむきを疑なく信ぜん輩は、真実の弥陀の浄土に往生すべきものなり。あなかしこ、あなかしこ。
安心の一義
(9)
当流の安心の一義といふは、ただ南無阿弥陀仏の六字のこころなり。たとへば南無と帰命すれば、やがて阿弥陀仏のたすけたまへるこころなるがゆゑに、「南無」の二字は帰命のこころなり。「帰命」といふは、衆生の、もろもろの雑行をすてて、阿弥陀仏後生たすけたまへと一向にたのみたてまつるこころなるべし。このゆゑに衆生をもらさず弥陀如来のよくしろしめして、たすけましますこころなり。
これによりて、南無とたのむ衆生を阿弥陀仏のたすけまします道理なるがゆゑに、南無阿弥陀仏の六字のすがたは、すなはちわれら一切衆生の平等にたすかりつるすがたなりとしらるるなり。されば他力の信心をうるといふも、これしかしながら南無阿弥陀仏の六字のこころなり。このゆゑに一切の聖教といふも、ただ南無阿弥陀仏の六字を信ぜしめんがためなりといふこころなりとおもふべきものなり。あなかしこ、あなかしこ。
聖人一流
(10)
聖人(親鸞)一流の御勧化のおもむきは、信心をもつて本とせられ候ふ。そのゆゑは、もろもろの雑行をなげすてて、一心に弥陀に帰命すれば、不可思議の願力として、仏のかたより往生は治定せしめたまふ。その位を「一念発起入正定之聚」(論註・上意)とも釈し、そのうへの称名念仏は、如来わが往生を定めたまひし御恩報尽の念仏とこころうべきなり。あなかしこ、あなかしこ。
御正忌
(11)
そもそも、この御正忌のうちに参詣をいたし、こころざしをはこび、報恩謝徳をなさんとおもひて、聖人の御まへにまゐらんひとのなかにおいて、信心を獲得せしめたるひともあるべし、また不信心のともがらもあるべし。もつてのほかの大事なり。そのゆゑは、信心を決定せずは今度の報土の往生は不定なり。されば不信のひともすみやかに決定のこころをとるべし。 人間は不定のさかひなり。極楽は常住の国なり。されば不定の人間にあらんよりも、常住の極楽をねがふべきものなり。されば当流には信心のかたをもつて先とせられたるそのゆゑをよくしらずは、いたづらごとなり。いそぎて安心決定して、浄土の往生をねがふべきなり。
それ人間に流布してみな人のこころえたるとほりは、なにの分別もなく口にただ称名ばかりをとなへたらば、極楽に往生すべきやうにおもへり。それはおほきにおぼつかなき次第なり。他力の信心をとるといふも、別のことにはあらず。南無阿弥陀仏の六つの字のこころをよくしりたるをもつて、信心決定すとはいふなり。そもそも信心の体といふは、『経』(大経・下)にいはく、「聞其名号信心歓喜」といへり。
善導のいはく、「南無といふは帰命、またこれ発願回向の義なり。阿弥陀仏といふはすなはちその行」(玄義分)といへり。「南無」といふ二字のこころは、もろもろの雑行をすてて、疑なく一心一向に阿弥陀仏をたのみたてまつるこころなり。
さて「阿弥陀仏」といふ四つの字のこころは、一心に弥陀を帰命する衆生を、やうもなくたすけたまへるいはれが、すなはち阿弥陀仏の四つの字のこころなり。されば南無阿弥陀仏の体をかくのごとくこころえわけたるを、信心をとるとはいふなり。これすなはち他力の信心をよくこころえたる念仏の行者とは申すなり。あなかしこ、あなかしこ。
御袖すがり
(12)
当流の安心のおもむきをくはしくしらんとおもはんひとは、あながちに智慧才学もいらず、ただわが身は罪ふかきあさましきものなりとおもひとりて、かかる機までもたすけたまへるほとけは阿弥陀如来ばかりなりとしりて、なにのやうもなく、ひとすぢにこの阿弥陀ほとけの御袖にひしとすがりまゐらするおもひをなして、後生をたすけたまへとたのみまうせば、この阿弥陀如来はふかくよろこびましまして、その御身より八万四千のおほきなる光明を放ちて、その光明のなかにその人を摂め入れておきたまふべし。
さればこのこころを『経』(観経)には、「光明遍照十方世界 念仏衆生摂取不捨」とは説かれたりとこころうべし。さては、わが身のほとけに成らんずることはなにのわづらひもなし。あら、殊勝の超世の本願や、ありがたの弥陀如来の光明や。この光明の縁にあひたてまつらずは、無始よりこのかたの無明業障のおそろしき病のなほるといふことはさらにもつてあるべからざるものなり。
しかるにこの光明の縁にもよほされて、宿善の機ありて、他力信心といふことをばいますでにえたり。これしかしながら弥陀如来の御かたよりさづけましましたる信心とはやがてあらはにしられたり。かるがゆゑに行者のおこすところの信心にあらず、弥陀如来他力の大信心といふことは、いまこそあきらかにしられたり。 これによりて、かたじけなくもひとたび他力の信心をえたらん人は、みな弥陀如来の御恩をおもひはかりて、仏恩報謝のためにつねに称名念仏を申したてまつるべきものなり。あなかしこ、あなかしこ。
六字名号・無上甚深
(13)
それ、南無阿弥陀仏と申す文字は、その数わづかに六字なれば、さのみ功能のあるべきともおぼえざるに、この六字の名号のうちには無上甚深の功徳利益の広大なること、さらにそのきはまりなきものなり。されば信心をとるといふも、この六字のうちにこもれりとしるべし。さらに別に信心とて六字のほかにはあるべからざるものなり。
そもそも、この「南無阿弥陀仏」の六字を善導釈していはく、「南無といふは帰命なり、またこれ発願回向の義なり。阿弥陀仏といふはその行なり。この義をもつてのゆゑにかならず往生することを得」(玄義分)といへり。しかればこの釈のこころをなにとこころうべきぞといふに、たとへばわれらごときの悪業煩悩の身なりといふとも、一念阿弥陀仏に帰命せば、かならずその機をしろしめしてたすけたまふべし。それ帰命といふはすなはちたすけたまへと申すこころなり。されば一念に弥陀をたのむ衆生に無上大利の功徳をあたへたまふを、発願回向とは申すなり。
この発願回向の大善大功徳をわれら衆生にあたへましますゆゑに、無始曠劫よりこのかたつくりおきたる悪業煩悩をば一時に消滅したまふゆゑに、われらが煩悩悪業はことごとくみな消えて、すでに正定聚不退転なんどいふ位に住すとはいふなり。このゆゑに、南無阿弥陀仏の六字のすがたは、われらが極楽に往生すべきすがたをあらはせるなりと、いよいよしられたるものなり。されば安心といふも、信心といふも、この名号の六字のこころをよくよくこころうるものを、他力の大信心をえたるひととはなづけたり。かかる殊勝の道理あるがゆゑに、ふかく信じたてまつるべきものなり。あなかしこ、あなかしこ。
上臈下主
(14)
それ、一切の女人の身は、人しれず罪のふかきこと、上臈にも下主にもよらぬあさましき身なりとおもふべし。それにつきては、なにとやうに弥陀を信ずべきぞといふに、なにのわづらひもなく、阿弥陀如来をひしとたのみまゐらせて、今度の一大事の後生たすけたまへと申さん女人をば、あやまたずたすけたまふべし。
さてわが身の罪のふかきことをばうちすてて、弥陀にまかせまゐらせて、ただ一心に弥陀如来後生たすけたまへとたのみまうさば、その身をよくしろしめして、たすけたまふべきこと疑あるべからず。たとへば十人ありとも百人ありとも、みなことごとく極楽に往生すべきこと、さらにその疑ふこころつゆほどももつべからず。
かやうに信ぜん女人は浄土に生るべし。かくのごとくやすきことをいままで信じたてまつらざることのあさましさよとおもひて、なほなほふかく弥陀如来をたのみたてまつるべきものなり。あなかしこ、あなかしこ。
それ弥陀如来
(15)
それ、弥陀如来の本願と申すは、なにたる機の衆生をたすけたまふぞ。またいかやうに弥陀をたのみ、いかやうに心をもちてたすかるべきやらん。まづ機をいへば、十悪・五逆の罪人なりとも、五障・三従の女人なりとも、さらにその罪業の深重にこころをばかくべからず。ただ他力の大信心一つにて、真実の極楽往生をとぐべきものなり。さればその信心といふは、いかやうにこころをもちて、弥陀をばなにとやうにたのむべきやらん。それ、信心をとるといふは、やうもなく、ただもろもろの雑行雑修自力なんどいふわろき心をふりすてて、一心にふかく弥陀に帰するこころの疑なきを真実信心とは申すなり。
かくのごとく一心にたのみ、一向にたのむ衆生を、かたじけなくも弥陀如来はよくしろしめして、この機を、光明を放ちてひかりのなかに摂めおきましまして、極楽へ往生せしむべきなり。これを念仏衆生を摂取したまふといふことなり。
このうへには、たとひ一期のあひだ申す念仏なりとも、仏恩報謝の念仏とこころうべきなり。これを当流の信心をよくこころえたる念仏行者といふべきものなり。あなかしこ、あなかしこ。
白骨
(16)
それ、人間の浮生なる相をつらつら観ずるに、おほよそはかなきものはこの世の始中終、まぼろしのごとくなる一期なり。さればいまだ万歳の人身を受けたりといふことをきかず、一生過ぎやすし。いまにいたりてたれか百年の形体をたもつべきや。われや先、人や先、今日ともしらず、明日ともしらず、おくれさきだつ人はもとのしづくすゑの露よりもしげしといへり。
されば朝には紅顔ありて、夕には白骨となれる身なり。すでに無常の風きたりぬれば、すなはちふたつのまなこたちまちに閉ぢ、ひとつの息ながくたえぬれば、紅顔むなしく変じて桃李のよそほひを失ひぬるときは、六親眷属あつまりてなげきかなしめども、さらにその甲斐あるべからず。さてしもあるべきことならねばとて、野外におくりて夜半の煙となしはてぬれば、ただ白骨のみぞのこれり。あはれといふもなかなかおろかなり。
されば人間のはかなきことは老少不定のさかひなれば、たれの人もはやく後生の一大事を心にかけて、阿弥陀仏をふかくたのみまゐらせて、念仏申すべきものなり。あなかしこ、あなかしこ。
それ一切の女人
(17)
それ、一切の女人の身は、後生を大事におもひ、仏法をたふとくおもふ心あらば、なにのやうもなく、阿弥陀如来をふかくたのみまゐらせて、もろもろの雑行をふりすてて、一心に後生を御たすけ候へとひしとたのまん女人は、かならず極楽に往生すべきこと、さらに疑あるべからず。かやうにおもひとりてののちは、ひたすら弥陀如来のやすく御たすけにあづかるべきことのありがたさ、またたふとさよとふかく信じて、ねてもさめても南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏と申すべきばかりなり。これを信心とりたる念仏者とは申すものなり。あなかしこ、あなかしこ。
当流聖人
(18)
当流聖人(親鸞)のすすめまします安心といふは、なにのやうもなく、まづわが身のあさましき罪のふかきことをばうちすてて、もろもろの雑行雑修のこころをさしおきて、一心に阿弥陀如来後生たすけたまへと、一念にふかくたのみたてまつらんものをば、たとへば十人は十人百人は百人ながら、みなもらさずたすけたまふべし。これさらに疑ふべからざるものなり。かやうによくこころえたる人を信心の行者といふなり。
さてこのうへには、なほわが身の後生のたすからんことのうれしさをおもひいださんときは、ねてもさめても南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏ととなふべきものなり。あなかしこ、あなかしこ。
末代悪人女人
(19)
それ、末代の悪人・女人たらん輩は、みなみな心を一つにして阿弥陀仏をふかくたのみたてまつるべし。そのほかには、いづれの法を信ずといふとも、後生のたすかるといふことゆめゆめあるべからず。しかれば阿弥陀如来をばなにとやうにたのみ、後生をばねがふべきぞといふに、なにのわづらひもなく、ただ一心に阿弥陀如来をひしとたのみ、後生たすけたまへとふかくたのみまうさん人をば、かならず御たすけあるべきこと、さらさら疑あるべからざるものなり。あなかしこ、あなかしこ。
女人成仏
(20)
それ、一切の女人たらん身は、弥陀如来をひしとたのみ、後生たすけたまへと申さん女人をば、かならず御たすけあるべし。さるほどに、諸仏のすてたまへる女人を、阿弥陀如来ひとり、われたすけずんばまたいづれの仏のたすけたまはんぞとおぼしめして、無上の大願をおこして、われ諸仏にすぐれて女人をたすけんとて、五劫があひだ思惟し、永劫があひだ修行して、世にこえたる大願をおこして、女人成仏といへる殊勝の願(第三十五願)をおこしまします弥陀なり。このゆゑにふかく弥陀をたのみ、後生たすけたまへと申さん女人は、みなみな極楽に往生すべきものなり。あなかしこ、あなかしこ。
当流安心・経釈明文
(21)
当流の安心といふは、なにのやうもなく、もろもろの雑行雑修のこころをすてて、わが身はいかなる罪業ふかくとも、それをば仏にまかせまゐらせて、ただ一心に阿弥陀如来を一念にふかくたのみまゐらせて、御たすけ候へと申さん衆生をば、十人は十人百人は百人ながらことごとくたすけたまふべし。これさらに疑ふこころつゆほどもあるべからず。かやうに信ずる機を安心をよく決定せしめたる人とはいふなり。このこころをこそ経釈の明文には「一念発起住正定聚」とも「平生業成の行人」ともいふなり。さればただ弥陀仏を一念にふかくたのみたてまつること肝要なりとこころうべし。このほかには、弥陀如来のわれらをやすくたすけまします御恩のふかきことをおもひて、行住坐臥につねに念仏を申すべきものなり。あなかしこ、あなかしこ。
当流勧化
(22)
そもそも、当流勧化のおもむきをくはしくしりて、極楽に往生せんとおもはんひとは、まづ他力の信心といふことを存知すべきなり。それ、他力の信心といふはなにの要ぞといへば、かかるあさましきわれらごときの凡夫の身が、たやすく浄土へまゐるべき用意なり。その他力の信心のすがたといふはいかなることぞといへば、なにのやうもなく、ただひとすぢに阿弥陀如来を一心一向にたのみたてまつりて、たすけたまへとおもふこころの一念おこるとき、かならず弥陀如来の摂取の光明を放ちて、その身の娑婆にあらんほどは、この光明のなかに摂めおきましますなり。これすなはちわれらが往生の定まりたるすがたなり。
されば南無阿弥陀仏と申す体は、われらが他力の信心をえたるすがたなり。この信心といふは、この南無阿弥陀仏のいはれをあらはせるすがたなりとこころうべきなり。さればわれらがいまの他力の信心ひとつをとるによりて、極楽にやすく往生すべきことの、さらになにの疑もなし。あら、殊勝の弥陀如来の本願や。このありがたさの弥陀の御恩をば、いかがして報じたてまつるべきぞなれば、ただねてもおきても南無阿弥陀仏ととなへて、かの弥陀如来の仏恩を報ずべきなり。されば南無阿弥陀仏ととなふるこころはいかんぞなれば阿弥陀如来の御たすけありつるありがたさたふとさよとおもひて、それをよろこびまうすこころなりとおもふべきものなり。あなかしこ、あなかしこ。
[釈証如](花押)