操作

「弥陀如来名号徳」の版間の差分

提供: WikiArc

 
(3人の利用者による、間の9版が非表示)
1行目: 1行目:
 +
<pageNo></PageNo>
 +
 
<span id="P--725"></span>
 
<span id="P--725"></span>
 
<span id="P--726"></span>
 
<span id="P--726"></span>
 +
{{Kaisetu| 本書は完本ではなく一部落丁があり、全体の構成は推定にたよるしかない。<br/>
 +
 本書の構成を述べれば、まず十二光の一々について釈される。すなわち無量光・無辺光・無碍光・清浄光・歓喜光・智慧光・無対光・炎王光・不断光・(欠落)・超日月光の順に、そのはたらきを示される。<br/>
 +
 続いて再び無碍光の釈があり、「帰命尽十方無碍光如来」(十字名号)について釈され、難思光・無称光の後、両者が合されたものとして「南無不可思議光仏」(八字名号)について釈されている。<br/>
 +
 このうち十二光の釈の一部(難思光・無称光か)と、「帰命尽十方無碍光如来」、「南無不可思議光仏」のそれぞれの釈の中間を欠いている。<br/>
 +
 なお、「南無不可思議光仏」の釈の前にも、難思光・無称光の釈があるが、超日月光の釈の後に、「十二光のやう、おろおろかきしるして候ふなり」とあることから、超日月光の釈までに一応十二光の釈が済んでいると見るべきであろう。<br/>
 +
 本書の題名が「名号徳」とあり、十二光の釈から名号の釈に移っていることからみて、光明は名号の徳義をあらわすものであるという領解を示されたもので、一部を欠いているとはいえ大切な聖教の一つである。}}
 +
 +
<div id="arc-disp-base">
 
<span id="P--727"></span>
 
<span id="P--727"></span>
  
 
==弥陀如来名号徳==
 
==弥陀如来名号徳==
 +
<span id="no1"></span>
 +
【1】 無量光といふは、『経』(観経)にのたまはく、「無量寿仏に八万四千の相まします。一々の相におのおの八万四千の[[随形好]]まします。一々の好にまた八万四千の光明まします。一々の光明あまねく十方世界を照らしたまふ。念仏の衆生をば摂取して捨てたまはず」といへり。[[恵心院]]の僧都(源信)、このひかりを勘へてのたまはく(往生要集・中)、「一々の相におのおの七百五[[倶胝]]六百万の光明あり、[[熾然赫奕]]たり」(意)といへり。一相より出づるところの光明かくのごとし、いはんや八万四千の相より出でんひかりのおほきことをおしはかりたまふべし。この光明の数のおほきによりて、無量光と申すなり。
  
 +
<span id="no2"></span>
 +
【2】 つぎに[[無辺光]]といふは、かくのごとく無量のひかり十方を照らすこと、きはほとりなきによりて、無辺光と申すなり。
  
【1】 無量光といふは、『経』(観経)にのたまはく、「無量寿仏に八万四千の相まします。一々の相におのおの八万四千の随形好まします。一々の好にまた八万四千の光明まします。一々の光明あまねく十方世界を照らしたまふ。念仏の衆生をば摂取して捨てたまはず」といへり。恵心院の僧都(源信)、このひかりを勘へてのたまはく(往生要集・中)、「一々の相におのおの七百五倶胝六百万の光明あり、熾然赫奕たり」(意)といへり。一相より出づるところの光明かくのごとし、いはんや八万四千の相より出でんひかりのおほきことをおしはかりたまふべし。この光明の数のおほきによりて、無量光と申すなり。
+
<span id="no3"></span>
 +
【3】 つぎに無碍光といふは、この日月のひかりは、ものをへだてつれば、そ<span id="P--728"></span>のひかりかよはず。この弥陀の御ひかりは、ものに[[さへられず]]してよろづの有情を照らしたまふゆゑに、無碍光仏と申すなり。有情の煩悩悪業のこころにさへられずましますによりて、無碍光仏と申すなり。無碍光の徳ましまさざらましかば、いかがし候はまし。かの極楽世界とこの娑婆世界とのあひだに、[[十万億の…|十万億の三千大千世界をへだてたり]]と説けり。その一々の三千大千世界におのおの[[四重の鉄囲山あり|四重の]][[鉄囲山]]あり、高さ須弥山とひとし。つぎに[[小千界・中千界・大千界|小千界]]をめぐれる鉄囲山あり、高さ[[第六天]]に[[いたる]]。つぎに[[小千界・中千界・大千界|中千界]]をめぐれる鉄囲山あり、高さ[[色界の初禅・第二禅|色界の初禅]]にいたる。つぎに[[小千界・中千界・大千界|大千界]]をめぐれる鉄囲山あり、高さ[[色界の初禅・第二禅|第二禅]]にいたれり。しかればすなはち、もし無碍光仏にてましまさずは一世界をすらとほるべからず、いかにいはんや十万億の世界をや。かの無碍光仏の光明、かかる不可思議の山を徹照してこの念仏〔の〕衆生を摂取したまふに、さはることましまさぬゆゑに無碍光と申すなり。
  
【2】 つぎに無辺光といふは、かくのごとく無量のひかり十方を照らすこと、きはほとりなきによりて、無辺光と申すなり。
+
<span id="no4"></span>
 +
【4】 つぎに清浄光と申すは、法蔵菩薩、[[貪欲]]のこころなくして得たまへるひかりなり。貪欲といふに二つあり、一つには婬貪、二つには財貪なり。この二つの貪欲のこころなくして得たまへるひかりなり。よろづの有情の汚穢不浄<span id="P--729"></span>を除かんための御ひかりなり。婬欲・財欲の罪を除きはらはんがためなり。このゆゑに清浄光と申すなり。
  
【3】 つぎに無碍光といふは、この日月のひかりは、ものをへだてつれば、そ<span id="P--728"></span>のひかりかよはず。この弥陀の御ひかりは、ものにさへられずしてよろづの有情を照らしたまふゆゑに、無碍光仏と申すなり。有情の煩悩悪業のこころにさへられずましますによりて、無碍光仏と申すなり。無碍光の徳ましまさざらましかば、いかがし候はまし。かの極楽世界とこの娑婆世界とのあひだに、十万億の三千大千世界をへだてたりと説けり。その一々の三千大千世界におのおの四重の鉄囲山あり、高さ須弥山とひとし。つぎに小千界をめぐれる鉄囲山あり、高さ第六天にいたる。つぎに中千界をめぐれる鉄囲山あり、高さ色界の初禅にいたる。つぎに大千界をめぐれる鉄囲山あり、高さ第二禅にいたれり。しかればすなはち、もし無碍光仏にてましまさずは一世界をすらとほるべからず、いかにいはんや十万億の世界をや。かの無碍光仏の光明、かかる不可思議の山を徹照してこの念仏〔の〕衆生を摂取したまふに、さはることましまさぬゆゑに無碍光と申すなり。
+
<span id="no5"></span>
 +
【5】 つぎに[[歓喜]]光といふは、[[無瞋]]の善根をもつて得たまへるひかりなり。無瞋といふは、おもてにいかりはらだつかたちもなく、心のうちにそねみねたむこころもなきを無瞋といふなり。このこころをもつて得たまへるひかりにて、よろづの有情の[[瞋恚憎嫉|瞋恚・憎嫉]]の罪を除きはらはんために得たまへるひかりなるがゆゑに、歓喜光と申すなり。
  
【4】 つぎに清浄光と申すは、法蔵菩薩、貪欲のこころなくして得たまへるひかりなり。貪欲といふに二つあり、一つには婬貪、二つには財貪なり。この二つの貪欲のこころなくして得たまへるひかりなり。よろづの有情の汚穢不浄<span id="P--729"></span>を除かんための御ひかりなり。婬欲・財欲の罪を除きはらはんがためなり。このゆゑに清浄光と申すなり。
+
<span id="no6"></span>
 +
【6】 つぎに智慧光と申すは、これは[[無痴]]の善根をもつて得たまへるひかりなり。無痴の善根といふは、一切有情、智慧をならひ学びて[[無上菩提]]にいたらんとおもふこころをおこさしめんがために得たまへるなり。念仏を信ずるこころを得しむるなり。念仏を信ずるは、すなはちすでに智慧を得て仏に成るべき身となるは、これを愚痴をはなるることとしるべきなり。このゆゑに智慧光仏と申すなり。
  
【5】 つぎに歓喜光といふは、無瞋の善根をもつて得たまへるひかりなり。無瞋といふは、おもてにいかりはらだつかたちもなく、心のうちにそねみねたむこころもなきを無瞋といふなり。このこころをもつて得たまへるひかりにて、よろづの有情の瞋恚・憎嫉の罪を除きはらはんために得たまへるひかりなるがゆゑに、歓喜光と申すなり。
+
<span id="no7"></span>
 +
【7】 つぎに[[無対]]光といふは、弥陀のひかりにひとしきひかりましまさぬゆゑに、無対と申すなり。<span id="P--730"></span>
  
【6】 つぎに智慧光と申すは、これは無痴の善根をもつて得たまへるひかりなり。無痴の善根といふは、一切有情、智慧をならひ学びて無上菩提にいたらんとおもふこころをおこさしめんがために得たまへるなり。念仏を信ずるこころを得しむるなり。念仏を信ずるは、すなはちすでに智慧を得て仏に成るべき身となるは、これを愚痴をはなるることとしるべきなり。このゆゑに智慧光仏と申すなり。
+
<span id="no8"></span>
 +
【8】 つぎに[[炎王]]光と申すは、ひかりのさかりにして、火のさかりにもえたるにたとへまゐらするなり。火の炎の煙なきがさかりなるがごとしとなり。
  
【7】 つぎに無対光といふは、弥陀のひかりにひとしきひかりましまさぬゆゑに、無対と申すなり。<span id="P--730"></span>
+
<span id="no9"></span>
 +
【9】 つぎに不断光と申すは、この光のときとしてたえずやまず照ら[[し…]]…
  
【8】 つぎに炎王光と申すは、ひかりのさかりにして、火のさかりにもえたるにたとへまゐらするなり。火の炎の煙なきがさかりなるがごとしとなり。
+
<span id="no10"></span>
 +
【10】 ……ちにておはしますひかりなり。超といふは、この弥陀の光明は、日月の光にすぐれたまふゆゑに、超と申すなり。超は余のひかりにすぐれこえたまへりとしらせんとて、超日月光と申すなり。十二光のやう、[[おろおろ]]かきしるして候ふなり。くはしく申し尽しがたく、かきあらはしがたし。
  
【9】 つぎに不断光と申すは、この光のときとしてたえずやまず照らし……
+
<span id="no11"></span>
 +
【11】 阿弥陀仏は智慧のひかりにておはしますなり。このひかりを無碍光仏と申すなり。無碍光と申すゆゑは、十方一切有情の悪業煩悩のこころにさへられずへだてなきゆゑに、無碍とは申すなり。弥陀の光の不可思議にましますことをあらはししらせんとて、帰命尽十方無碍光如来とは申すなり。無碍光仏をつねにこころにかけ、となへたてまつれば、十方一切諸仏の徳をひとつに具したまふによりて、弥陀を称すれば功徳善根きはまりましまさぬゆゑに、龍樹菩薩は「[[我説彼尊…|我説彼尊功徳事 衆善無辺如海水]]」(十二礼)とをしへたまへり。かるがゆゑに不可思議光仏と申すとみえたり。不可思議光仏のゆゑに「尽十方無碍<span id="P--731"></span>光仏と申す」と、世親菩薩(天親)は『往生論』(浄土論)にあらはせり。阿弥陀仏に十二のひかりの名ま[[し…]]…
  
【10】 ……ちにておはしますひかりなり。超といふは、この弥陀の光明は、日月の光にすぐれたまふゆゑに、超と申すなり。超は余のひかりにすぐれこえたまへりとしらせんとて、超日月光と申すなり。十二光のやう、おろおろかきしるして候ふなり。くはしく申し尽しがたく、かきあらはしがたし。
+
<span id="no12"></span>
 
+
【12】 ……『浄土論』にあらはしたまへり。いふ、諸仏咨嗟の願(第十七願)に大行あり。大行といふは無碍光仏の御名を称するなり。この行あまねく一切の行を摂す。[[極速円満せり]]。かるがゆゑに[[大行]]となづく。このゆゑによく衆生の一切の無明を破す。また煩悩を具足せるわれら、無碍光仏の御ちかひをふたごころなく信ずるゆゑに、無量光明土にいたるなり。光明土にいたれば自然に無量の徳を得しめ、広大のひかりを具足す。広大の光を得るゆゑに、さまざまのさとりをひらくなり。
【11】 阿弥陀仏は智慧のひかりにておはしますなり。このひかりを無碍光仏と申すなり。無碍光と申すゆゑは、十方一切有情の悪業煩悩のこころにさへられずへだてなきゆゑに、無碍とは申すなり。弥陀の光の不可思議にましますことをあらはししらせんとて、帰命尽十方無碍光如来とは申すなり。無碍光仏をつねにこころにかけ、となへたてまつれば、十方一切諸仏の徳をひとつに具したまふによりて、弥陀を称すれば功徳善根きはまりましまさぬゆゑに、龍樹菩薩は「我説彼尊功徳事 衆善無辺如海水」(十二礼)とをしへたまへり。かるがゆゑに不可思議光仏と申すとみえたり。不可思議光仏のゆゑに「尽十方無碍<span id="P--731"></span>光仏と申す」と、世親菩薩(天親)は『往生論』(浄土論)にあらはせり。阿弥陀仏に十二のひかりの名まし……
+
 
+
【12】 ……『浄土論』にあらはしたまへり。いふ、諸仏咨嗟の願(第十七願)に大行あり。大行といふは無碍光仏の御名を称するなり。この行あまねく一切の行を摂す。極速円満せり。かるがゆゑに大行となづく。このゆゑによく衆生の一切の無明を破す。また煩悩を具足せるわれら、無碍光仏の御ちかひをふたごころなく信ずるゆゑに、無量光明土にいたるなり。光明土にいたれば自然に無量の徳を得しめ、広大のひかりを具足す。広大の光を得るゆゑに、さまざまのさとりをひらくなり。
+
  
 +
<span id="no13"></span>
 
【13】 難思光仏と申すは、この弥陀如来のひかりの徳をば、釈迦如来も御こころおよばずと説きたまへり。こころのおよばぬゆゑに難思光仏といふなり。
 
【13】 難思光仏と申すは、この弥陀如来のひかりの徳をば、釈迦如来も御こころおよばずと説きたまへり。こころのおよばぬゆゑに難思光仏といふなり。
  
【14】 つぎに無称光と申すは、これも「この不可思議光仏の功徳は説き尽しがたし」と釈尊のたまへり。ことばもおよばずとなり。このゆゑに無称光と申すとのたまへり。しかれば曇鸞和尚の『讃阿弥陀仏の偈』には、難思光仏と無称光仏とを合して、「南無不可思議光仏」とのたまへり。この不可思議光仏のあ<span id="P--732"></span>らはれたまふべきところを、かねて世親菩薩(天親)の……
+
<span id="no14"></span>
 +
【14】 つぎに無称光と申すは、これも「この不可思議光仏の功徳は説き尽しがたし」と釈尊のたまへり。ことばもおよばずとなり。このゆゑに無称光と申すとのたまへり。しかれば曇鸞和尚の『讃阿弥陀仏の偈』には、難思光仏と無称光仏とを合して、「南無不可思議光仏」とのたまへり。この不可思議光仏のあ<span id="P--732"></span>らはれたまふべきところを、かねて世親菩薩(天親)[[の…]]…
 +
 
 +
<span id="no15"></span>
 +
【15】 ……としとみえたり。自力の行者をば、如来とひとしといふことはあるべからず。おのおの自力の心にては、不可思議光仏の土にいたることあたはずとなり。ただ他力の信心によりて、不可思議光仏の土にはいたるとみえたり。かの土に生れんとねがふ信者には、[[不可称…|不可称不可説不可思議]]の徳を具足す。こころもおよばれず、ことばもたえたり。かるがゆゑに不可思議光仏と申すとみえたりとなり。
  
【15】 ……としとみえたり。自力の行者をば、如来とひとしといふことはあるべからず。おのおの自力の心にては、不可思議光仏の土にいたることあたはずとなり。ただ他力の信心によりて、不可思議光仏の土にはいたるとみえたり。かの土に生れんとねがふ信者には、不可称不可説不可思議の徳を具足す。こころもおよばれず、ことばもたえたり。かるがゆゑに不可思議光仏と申すとみえたりとなり。
+
  [[南無不可思議光仏]]
  
  南無不可思議光仏
+
[[[草本にいはく]]]
 +
  [[[文応元年]]庚申十二月二日これを書写す。]
  
[草本にいはく]
+
               [愚禿親鸞八十八歳書きをはりぬ。]
  [文応元年庚申十二月二日これを書写す。]
+
  
                   [愚禿親鸞八十八歳書きをはりぬ。]
+
</div>
 +
<p id="page-top">[[#|▲]]</p>

2018年6月23日 (土) 20:42時点における最新版

 本書は完本ではなく一部落丁があり、全体の構成は推定にたよるしかない。

 本書の構成を述べれば、まず十二光の一々について釈される。すなわち無量光・無辺光・無碍光・清浄光・歓喜光・智慧光・無対光・炎王光・不断光・(欠落)・超日月光の順に、そのはたらきを示される。
 続いて再び無碍光の釈があり、「帰命尽十方無碍光如来」(十字名号)について釈され、難思光・無称光の後、両者が合されたものとして「南無不可思議光仏」(八字名号)について釈されている。
 このうち十二光の釈の一部(難思光・無称光か)と、「帰命尽十方無碍光如来」、「南無不可思議光仏」のそれぞれの釈の中間を欠いている。
 なお、「南無不可思議光仏」の釈の前にも、難思光・無称光の釈があるが、超日月光の釈の後に、「十二光のやう、おろおろかきしるして候ふなり」とあることから、超日月光の釈までに一応十二光の釈が済んでいると見るべきであろう。

 本書の題名が「名号徳」とあり、十二光の釈から名号の釈に移っていることからみて、光明は名号の徳義をあらわすものであるという領解を示されたもので、一部を欠いているとはいえ大切な聖教の一つである。

弥陀如来名号徳

【1】 無量光といふは、『経』(観経)にのたまはく、「無量寿仏に八万四千の相まします。一々の相におのおの八万四千の随形好まします。一々の好にまた八万四千の光明まします。一々の光明あまねく十方世界を照らしたまふ。念仏の衆生をば摂取して捨てたまはず」といへり。恵心院の僧都(源信)、このひかりを勘へてのたまはく(往生要集・中)、「一々の相におのおの七百五倶胝六百万の光明あり、熾然赫奕たり」(意)といへり。一相より出づるところの光明かくのごとし、いはんや八万四千の相より出でんひかりのおほきことをおしはかりたまふべし。この光明の数のおほきによりて、無量光と申すなり。

【2】 つぎに無辺光といふは、かくのごとく無量のひかり十方を照らすこと、きはほとりなきによりて、無辺光と申すなり。

【3】 つぎに無碍光といふは、この日月のひかりは、ものをへだてつれば、そのひかりかよはず。この弥陀の御ひかりは、ものにさへられずしてよろづの有情を照らしたまふゆゑに、無碍光仏と申すなり。有情の煩悩悪業のこころにさへられずましますによりて、無碍光仏と申すなり。無碍光の徳ましまさざらましかば、いかがし候はまし。かの極楽世界とこの娑婆世界とのあひだに、十万億の三千大千世界をへだてたりと説けり。その一々の三千大千世界におのおの四重の鉄囲山あり、高さ須弥山とひとし。つぎに小千界をめぐれる鉄囲山あり、高さ第六天いたる。つぎに中千界をめぐれる鉄囲山あり、高さ色界の初禅にいたる。つぎに大千界をめぐれる鉄囲山あり、高さ第二禅にいたれり。しかればすなはち、もし無碍光仏にてましまさずは一世界をすらとほるべからず、いかにいはんや十万億の世界をや。かの無碍光仏の光明、かかる不可思議の山を徹照してこの念仏〔の〕衆生を摂取したまふに、さはることましまさぬゆゑに無碍光と申すなり。

【4】 つぎに清浄光と申すは、法蔵菩薩、貪欲のこころなくして得たまへるひかりなり。貪欲といふに二つあり、一つには婬貪、二つには財貪なり。この二つの貪欲のこころなくして得たまへるひかりなり。よろづの有情の汚穢不浄を除かんための御ひかりなり。婬欲・財欲の罪を除きはらはんがためなり。このゆゑに清浄光と申すなり。

【5】 つぎに歓喜光といふは、無瞋の善根をもつて得たまへるひかりなり。無瞋といふは、おもてにいかりはらだつかたちもなく、心のうちにそねみねたむこころもなきを無瞋といふなり。このこころをもつて得たまへるひかりにて、よろづの有情の瞋恚・憎嫉の罪を除きはらはんために得たまへるひかりなるがゆゑに、歓喜光と申すなり。

【6】 つぎに智慧光と申すは、これは無痴の善根をもつて得たまへるひかりなり。無痴の善根といふは、一切有情、智慧をならひ学びて無上菩提にいたらんとおもふこころをおこさしめんがために得たまへるなり。念仏を信ずるこころを得しむるなり。念仏を信ずるは、すなはちすでに智慧を得て仏に成るべき身となるは、これを愚痴をはなるることとしるべきなり。このゆゑに智慧光仏と申すなり。

【7】 つぎに無対光といふは、弥陀のひかりにひとしきひかりましまさぬゆゑに、無対と申すなり。

【8】 つぎに炎王光と申すは、ひかりのさかりにして、火のさかりにもえたるにたとへまゐらするなり。火の炎の煙なきがさかりなるがごとしとなり。

【9】 つぎに不断光と申すは、この光のときとしてたえずやまず照らし…

【10】 ……ちにておはしますひかりなり。超といふは、この弥陀の光明は、日月の光にすぐれたまふゆゑに、超と申すなり。超は余のひかりにすぐれこえたまへりとしらせんとて、超日月光と申すなり。十二光のやう、おろおろかきしるして候ふなり。くはしく申し尽しがたく、かきあらはしがたし。

【11】 阿弥陀仏は智慧のひかりにておはしますなり。このひかりを無碍光仏と申すなり。無碍光と申すゆゑは、十方一切有情の悪業煩悩のこころにさへられずへだてなきゆゑに、無碍とは申すなり。弥陀の光の不可思議にましますことをあらはししらせんとて、帰命尽十方無碍光如来とは申すなり。無碍光仏をつねにこころにかけ、となへたてまつれば、十方一切諸仏の徳をひとつに具したまふによりて、弥陀を称すれば功徳善根きはまりましまさぬゆゑに、龍樹菩薩は「我説彼尊功徳事 衆善無辺如海水」(十二礼)とをしへたまへり。かるがゆゑに不可思議光仏と申すとみえたり。不可思議光仏のゆゑに「尽十方無碍光仏と申す」と、世親菩薩(天親)は『往生論』(浄土論)にあらはせり。阿弥陀仏に十二のひかりの名まし…

【12】 ……『浄土論』にあらはしたまへり。いふ、諸仏咨嗟の願(第十七願)に大行あり。大行といふは無碍光仏の御名を称するなり。この行あまねく一切の行を摂す。極速円満せり。かるがゆゑに大行となづく。このゆゑによく衆生の一切の無明を破す。また煩悩を具足せるわれら、無碍光仏の御ちかひをふたごころなく信ずるゆゑに、無量光明土にいたるなり。光明土にいたれば自然に無量の徳を得しめ、広大のひかりを具足す。広大の光を得るゆゑに、さまざまのさとりをひらくなり。

【13】 難思光仏と申すは、この弥陀如来のひかりの徳をば、釈迦如来も御こころおよばずと説きたまへり。こころのおよばぬゆゑに難思光仏といふなり。

【14】 つぎに無称光と申すは、これも「この不可思議光仏の功徳は説き尽しがたし」と釈尊のたまへり。ことばもおよばずとなり。このゆゑに無称光と申すとのたまへり。しかれば曇鸞和尚の『讃阿弥陀仏の偈』には、難思光仏と無称光仏とを合して、「南無不可思議光仏」とのたまへり。この不可思議光仏のあらはれたまふべきところを、かねて世親菩薩(天親)の…

【15】 ……としとみえたり。自力の行者をば、如来とひとしといふことはあるべからず。おのおの自力の心にては、不可思議光仏の土にいたることあたはずとなり。ただ他力の信心によりて、不可思議光仏の土にはいたるとみえたり。かの土に生れんとねがふ信者には、不可称不可説不可思議の徳を具足す。こころもおよばれず、ことばもたえたり。かるがゆゑに不可思議光仏と申すとみえたりとなり。

  南無不可思議光仏

草本にいはく]   [文応元年庚申十二月二日これを書写す。]

               [愚禿親鸞八十八歳書きをはりぬ。]