「三学」の版間の差分
提供: WikiArc
細 (1 版) |
|||
(同じ利用者による、間の2版が非表示) | |||
1行目: | 1行目: | ||
− | |||
さんがく | さんがく | ||
− | 仏道修行者が修めるべき三種の基本的な修学。 戒(かい)学(がく) | + | 仏道修行者が修めるべき三種の基本的な修学。 <kana>戒(かい)</kana><kana>学(がく)</kana>・<kana>定学(じょうがく)</kana>・<kana>慧学(えがく)</kana>の三をいう。 |
+ | *①戒学。 戒を守って悪を<kana>止(とど)</kana>め善を修めること。 | ||
+ | *②定学。 <kana>禅定(ぜんじょう)</kana>を修め、心の乱れを防ぐこと。 | ||
+ | *③慧学。 物事を正しくとらえ、真理を見きわめること。 | ||
{{Copyright}} | {{Copyright}} | ||
---- | ---- | ||
[[Category:巻末註]] | [[Category:巻末註]] | ||
+ | [[六波羅蜜]]の、[[持戒]]、[[禅定]]、[[智慧]]の三。この智慧へ至る三種を[[戒定慧]]の[[三学]]といふ。仏道修行の目的は智慧(さとり)の獲得であり、[[戒定慧]]はその智慧を完成させる実践である。法然聖人は、この[[三学]]を修しえない自己の現実に懊悩し善導大師の『観経疏』の一文によって[[回心]]されたのであった。 | ||
+ | |||
+ | 聖光房弁長の『徹選択集』には、 | ||
+ | {{Inyou2| | ||
+ | :[[chu:出離|出離]]の志、至りて深きの間、諸の教法を信じて諸の行業を修す。おおよそ仏教多しといえども所詮は[[chu:戒定慧|戒定慧]]の[[chu:三学|三学]]に過ぎず。いわゆる小乗の戒定慧、大乗の戒定慧、顕教の戒定慧、密教の戒定慧なり。しかるに我がこの身には戒行において一戒をもたもたず。禅定において一つもこれを得ず、智慧において[[chu:断惑証果|断惑証果]]の正智を得ず。……悲きかな悲しきかな、いかがせん、いかにせん。ここに予がごとき者、すでに戒定慧三学の器に非ず、この三学の外に我が心に相応する法門ありや、よくこの身に堪えるの修行ありや、万人の智者に求め一切の学者を訪へども、これを教ゆる人無くこれを示す倫(ともがら)無し。<br /> | ||
+ | : しかる間、歎き歎き経蔵に入り、悲しみ悲しみて聖教に向かいて、手ずからこれを披きてこれを見るに、善導和尚の観経の疏に、「'''<kana>一心専念弥陀名号(いっしんせんねん-みだみょうごう)</kana> <kana>行住坐臥(ぎょうじゅう-ざが)</kana> <kana>不問時節久近(ふもん-じせつくごん)</kana> <kana>念念不捨者(ねんねん-ふしゃしゃ)</kana> <kana>是名正定之業(ぜみょう-しょうじょうしごう)</kana> <kana>順彼仏願故(じゅんぴ-ぶつがんこ)</kana>'''(一心にもつぱら弥陀の名号を念じて、行住坐臥時節の久近を問はず念々に捨てざるもの、これを正定の業と名づく。かの仏の願に順ずるがゆゑに)」といえる文を見得ての後、我等ごときの無智の身はひとえにこの文を仰ぎ、もっぱらこの理を憑み、念念不捨の称名を修して決定往生の業因に備ふれば、ただ善導の遺教を信ずるのみに非ず、また厚く弥陀の弘願に順ず、'''順彼仏願故'''(かの仏願に順ずるがゆゑに)の文、たましいに染み心に留むるのみ。 | ||
+ | }} | ||
+ | 『和語灯録』諸人伝説の詞p.679[[hwiki:和語灯録#P--679|『和語灯録』]]に、「徹選択にいでたり」として同意の和語の文がある。 | ||
+ | |||
+ | |||
+ | [[Category:追記]] <p id="page-top">[[#|▲]]</p> |
2024年12月11日 (水) 13:39時点における最新版
さんがく
仏道修行者が修めるべき三種の基本的な修学。
- ①戒学。 戒を守って悪を
止 め善を修めること。 - ②定学。
禅定 を修め、心の乱れを防ぐこと。 - ③慧学。 物事を正しくとらえ、真理を見きわめること。
出典(教学伝道研究センター編『浄土真宗聖典(注釈版)第二版』本願寺出版社
『浄土真宗聖典(注釈版)七祖篇』本願寺出版社
区切り線以下の文章は各投稿者の意見であり本願寺派の見解ではありません。
『浄土真宗聖典(注釈版)七祖篇』本願寺出版社
区切り線以下の文章は各投稿者の意見であり本願寺派の見解ではありません。
六波羅蜜の、持戒、禅定、智慧の三。この智慧へ至る三種を戒定慧の三学といふ。仏道修行の目的は智慧(さとり)の獲得であり、戒定慧はその智慧を完成させる実践である。法然聖人は、この三学を修しえない自己の現実に懊悩し善導大師の『観経疏』の一文によって回心されたのであった。
聖光房弁長の『徹選択集』には、
- 出離の志、至りて深きの間、諸の教法を信じて諸の行業を修す。おおよそ仏教多しといえども所詮は戒定慧の三学に過ぎず。いわゆる小乗の戒定慧、大乗の戒定慧、顕教の戒定慧、密教の戒定慧なり。しかるに我がこの身には戒行において一戒をもたもたず。禅定において一つもこれを得ず、智慧において断惑証果の正智を得ず。……悲きかな悲しきかな、いかがせん、いかにせん。ここに予がごとき者、すでに戒定慧三学の器に非ず、この三学の外に我が心に相応する法門ありや、よくこの身に堪えるの修行ありや、万人の智者に求め一切の学者を訪へども、これを教ゆる人無くこれを示す倫(ともがら)無し。
- しかる間、歎き歎き経蔵に入り、悲しみ悲しみて聖教に向かいて、手ずからこれを披きてこれを見るに、善導和尚の観経の疏に、「
一心専念弥陀名号 行住坐臥 不問時節久近 念念不捨者 是名正定之業 順彼仏願故 (一心にもつぱら弥陀の名号を念じて、行住坐臥時節の久近を問はず念々に捨てざるもの、これを正定の業と名づく。かの仏の願に順ずるがゆゑに)」といえる文を見得ての後、我等ごときの無智の身はひとえにこの文を仰ぎ、もっぱらこの理を憑み、念念不捨の称名を修して決定往生の業因に備ふれば、ただ善導の遺教を信ずるのみに非ず、また厚く弥陀の弘願に順ず、順彼仏願故(かの仏願に順ずるがゆゑに)の文、たましいに染み心に留むるのみ。