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:Ⅰ 能とは動作の主体、はたらきかける側をいい、所とは動作の客体、はたらきかけられる側をいう。なお、『改邪鈔』第8条に
 
:Ⅰ 能とは動作の主体、はたらきかける側をいい、所とは動作の客体、はたらきかけられる側をいう。なお、『改邪鈔』第8条に
:「もつとも能・所ともに恥づべきものをや」(註 926)  
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:「もつとも能・所ともに恥づべきものをや」([[改邪鈔#P--926|註 926]])  
とあるのは、教え導く師 (<kana>能化(のうけ)</kana>) と教えを受ける弟子 (<kana>所化(しょけ)</kana>) をいう。  
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:とあるのは、教え導く師 (<kana>能化(のうけ)</kana>) と教えを受ける弟子 (<kana>所化(しょけ)</kana>) をいう。  
  
 
:Ⅱ 衆生が信じ行じていることについて、その信心を<kana>能信(のうしん)</kana>、行じているところの行を<kana>所行(しょぎょう)</kana>とする。『六要鈔』には「十七・十八両願供に存し、所行・能信共にもつて[[EXC:周備|周備]]す」 などとある。(浄土真宗辞典)
 
:Ⅱ 衆生が信じ行じていることについて、その信心を<kana>能信(のうしん)</kana>、行じているところの行を<kana>所行(しょぎょう)</kana>とする。『六要鈔』には「十七・十八両願供に存し、所行・能信共にもつて[[EXC:周備|周備]]す」 などとある。(浄土真宗辞典)

2024年3月5日 (火) 22:35時点における最新版

のうしょ

Ⅰ 能は能化で、教え導く師、所は所化で、教えを受ける弟子。(改邪鈔 P.926)

出典(教学伝道研究センター編『浄土真宗聖典(注釈版)第二版』本願寺出版社
『浄土真宗聖典(注釈版)七祖篇』本願寺出版社

区切り線以下の文章は各投稿者の意見であり本願寺派の見解ではありません。

のうじょ 能所

Ⅰ 能とは動作の主体、はたらきかける側をいい、所とは動作の客体、はたらきかけられる側をいう。なお、『改邪鈔』第8条に
「もつとも能・所ともに恥づべきものをや」(註 926)
とあるのは、教え導く師 (能化(のうけ)) と教えを受ける弟子 (所化(しょけ)) をいう。
Ⅱ 衆生が信じ行じていることについて、その信心を能信(のうしん)、行じているところの行を所行(しょぎょう)とする。『六要鈔』には「十七・十八両願供に存し、所行・能信共にもつて周備す」 などとある。(浄土真宗辞典)

「能所」

(能)能動と(所)受動。行為の主体と客体のこと。「能」は「~ する」という能動を示し、「所」は「~ される」という受身を示す語である。

ある動作の主体となるのを能、その動作の客体(目的)となるものを所という。例えば依り手を能依、依り所となるもの(依られ手)を所依、物を見る目は能見、見られるものは所見、行ずる者は能行、行われる内容は所行、讃嘆するものは能讃、讃嘆されるものは所讃、帰依する者は能帰、帰依されるものは所帰というようなもの。

能詮の言教、所詮の法義。詮はあらわすという意味で、「能詮の言教」とは言語によってあらわされた教えをいう。「所詮の法義」とは、その言語によってあらわされた内容をいう。御開山は、真実の教は『大無量寿経』であるとされ、その内容は、「如来の本願を説きて経の宗致とす、すなはち仏の名号をもつて経の体とするなり。」とせられた。
浄土真宗における能信(大信)と所信(大行)の行信不離の関係を教行信証の四法で図示すれば、以下のようになる。

教━━━━━━━━━━━━能詮┓
行━━所信┳━能得の因━┓  ┃
信━━能信┛      ┣所詮┛
証━━━━━━所得の果━┛
能詮
所詮
垂名示形
名体不二
方便法身
安心論題/所帰人法