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Ⅰ 領解文の解説
 
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 浄土真宗の聞信徒が心得るべき信仰上の要点を、<kana>安心(あんじん)</kana>・報謝・師徳・法度の4段に分けて示したもの、<kana>改悔文(がいげもん</kana>)ともいい、[[蓮如]]の作と伝えられている。改悔批判において、参拝者が自らの領解を口に出して述べる文言を一定の形式に調えたもので、幾度となく修正が加えられて現在の形になったと考えられている。簡潔な内容で一般の人々にも理解されるよう平易に記されたものではあるが、異安心に対して浄土真宗の正しい意趣をあらわしたものである。
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 [[浄土真宗]]の門信徒<ref>門信徒(もんしんと)。本来は、なんまんだぶを称える浄土門の[[門徒]]といふべきである。明治以来のキリスト教の信心(faith、belief)の影響によって法(なんまんだぶ)である阿弥陀如来を人格的に捉えるところから生まれた表現であろう。</ref>が心得るべき信仰上の要点を、<kana>安心(あんじん)</kana>・<kana>報謝(ほうしゃ)</kana>・<kana>師徳(しとく)</kana>・<kana>法度(はっと)</kana>の4段に分けて示したもの、<kana>改悔文(がいげもん</kana>)ともいい、[[蓮如]]の作と{{ULR|伝えられている。}} [[改悔批判]]において、参拝者が自らの[[領解]]を口に出して述べる文言を一定の形式に<kana>調(ととの)</kana>えたもので、幾度となく修正が加えられて現在の形になったと考えられている。簡潔な内容で一般の人々にも理解されるよう平易に記されたものではあるが、[[異安心]]に対して浄土真宗の正しい意趣をあらわしたものである。<br>
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 第1の安心の段には、自力のこころを離れて阿弥陀仏の本願他力にすべてを託する、いわゆる[[捨自帰他]](しゃじ-きた)<ref>捨自帰他(しゃじ-きた)。仏陀のさとりを自力で獲ようとする立場を捨て(捨自)、あらゆる衆生を本願成就の浄土へ往生させるといふ「わが国に生ぜんと欲(おも)ひて、乃至十念せん。 もし生ぜずは、正覚を取らじ。」(帰他)の利他力の本願に帰依することをいふ。</ref>の[[安心]]が示されている。第2の報謝の段には、[[信の一念]]に往生は定まるから、それ以後の念仏は報謝にほかならないという、いわゆる[[称名報恩]]の義が示されている。
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したがって、この第1・第2の両段において、[[信心正因]]・[[称名報恩]]の[[宗義]]が[[領解]]されたことになる。
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第3の師徳の段には、上記の教えを教示し伝持した[[親鸞]]や[[善知識]]の恩徳を謝すべきことが述べられている。
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第4の法度の段には、'''[[念仏者|真宗念仏者]]'''の生活の心がまえが示され、御文章などに定められた「おきて」にしたがって生活すべきことが述べられている。<br>
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 現在、本願寺派本願寺では御正忌[[報恩講]]で行われる[[改悔批判]]の際に用いられ、また一般寺院でも法要や法座などのとき唱和される。(浄土真宗辞典)
 
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江戸時代に起きた本願寺派の[[三業惑乱]]において、門徒の間で問題になったのは『領解文』の「たのむ一念のとき、往生一定御たすけ治定と存じ」の往生一定の意業としての欲生心であった。ある意味では古義派は、純朴な門徒の往生の思いを信楽に変換した。間違いではないが浄土教の教義を信心に限定し展開たものだと思ふ。浄土真宗は浄土に、なんまんだぶを称えて仏に成る法義です。偉い人はこれがわからんのです。
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江戸時代に起きた本願寺派の[[三業惑乱]]において、門徒の間で問題になったのは『領解文』の「たのむ一念のとき、往生一定御たすけ治定と存じ」の「たのむ一念」の意業としての欲生心であった。ある意味では古義派は、純朴な門徒の往生浄土の欲生心を[[かならず…想をなせ|作得生想|]]の[[信楽]]に変換した。間違いではないが浄土教の教義を[[信心]]に限定して展開したものだから解りにくくなったのだと思ふ。浄土真宗は、なんまんだぶを称えて浄土に往生し仏に成るご法義です。偉い人はこれがわからんのです。
  
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『御文章集成』の真偽未決には「領解文」と同意の文がある。
 
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りょうげもん

領解文の本文 →領解文

Ⅰ 領解文の解説

りょうげもん 領解文

 浄土真宗の門信徒[1]が心得るべき信仰上の要点を、安心(あんじん)報謝(ほうしゃ)師徳(しとく)法度(はっと)の4段に分けて示したもの、改悔文(がいげもん)ともいい、蓮如の作と伝えられている。 改悔批判において、参拝者が自らの領解を口に出して述べる文言を一定の形式に調(ととの)えたもので、幾度となく修正が加えられて現在の形になったと考えられている。簡潔な内容で一般の人々にも理解されるよう平易に記されたものではあるが、異安心に対して浄土真宗の正しい意趣をあらわしたものである。
 第1の安心の段には、自力のこころを離れて阿弥陀仏の本願他力にすべてを託する、いわゆる捨自帰他(しゃじ-きた)[2]安心が示されている。第2の報謝の段には、信の一念に往生は定まるから、それ以後の念仏は報謝にほかならないという、いわゆる称名報恩の義が示されている。 したがって、この第1・第2の両段において、信心正因称名報恩宗義領解されたことになる。 第3の師徳の段には、上記の教えを教示し伝持した親鸞善知識の恩徳を謝すべきことが述べられている。 第4の法度の段には、真宗念仏者の生活の心がまえが示され、御文章などに定められた「おきて」にしたがって生活すべきことが述べられている。
 現在、本願寺派本願寺では御正忌報恩講で行われる改悔批判の際に用いられ、また一般寺院でも法要や法座などのとき唱和される。(浄土真宗辞典)

江戸時代に起きた本願寺派の三業惑乱において、門徒の間で問題になったのは『領解文』の「たのむ一念のとき、往生一定御たすけ治定と存じ」の「たのむ一念」の意業としての欲生心であった。ある意味では古義派は、純朴な門徒の往生浄土の欲生心を作得生想|信楽に変換した。間違いではないが浄土教の教義を信心に限定して展開したものだから解りにくくなったのだと思ふ。浄土真宗は、なんまんだぶを称えて浄土に往生し仏に成るご法義です。偉い人はこれがわからんのです。

Ⅱ 領解文の本文 →領解文

『御文章集成』の真偽未決には「領解文」と同意の文がある。

御文章集成#真偽未決

  1. 門信徒(もんしんと)。本来は、なんまんだぶを称える浄土門の門徒といふべきである。明治以来のキリスト教の信心(faith、belief)の影響によって法(なんまんだぶ)である阿弥陀如来を人格的に捉えるところから生まれた表現であろう。
  2. 捨自帰他(しゃじ-きた)。仏陀のさとりを自力で獲ようとする立場を捨て(捨自)、あらゆる衆生を本願成就の浄土へ往生させるといふ「わが国に生ぜんと欲(おも)ひて、乃至十念せん。 もし生ぜずは、正覚を取らじ。」(帰他)の利他力の本願に帰依することをいふ。