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「不如実修行」の版間の差分

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2024年2月24日 (土) 21:45時点における版

ふにょじつしゅぎょう

 【左訓】「をしへのごとくならずといふこころなり」(高僧 P.586)

出典(教学伝道研究センター編『浄土真宗聖典(注釈版)第二版』本願寺出版社
『浄土真宗聖典(注釈版)七祖篇』本願寺出版社

区切り線以下の文章は各投稿者の意見であり本願寺派の見解ではありません。

ふにょじつしゅぎょう 不如実修行

 如実修行相応に対する語。『論註』(信巻引文・註 215) では、二不知 (実相身為物身を知らないこと) と、三不信(信心の不淳・不一・不相続) を指していう。「文明本」『高僧和讃』の不如実修行という語の左訓には「をしへのごとくならずといふこころなり」とある。→三不三信。(浄土真宗辞典)

如実修行相応

◆ 参照読み込み (transclusion) トーク:三不三信

『論註』には、

しかるに名を称し憶念すれども、無明なほありて所願を満てざるものあり。なんとなれば、如実に修行せず、名義と相応せざるによるがゆゑなり。いかんが如実に修行せず、名義と相応せざるとなすとならば、いはく、如来はこれ実相身なり、これ為物身なりと知らざればなり。
また三種の不相応あり一には信心淳(あつ)からず存ずるがごとく亡ずるがごときゆゑなり。二には信心一ならず、決定なきがゆゑなり。三には信心相続せず、余念間(へだ)つるがゆゑなり。この三句展転してあひ成ず。信心淳(あつ)からざるをもつてのゆゑに決定なし。決定なきがゆゑに念相続せず。また念相続せざるがゆゑに決定の信を得ず。決定の信を得ざるがゆゑに心淳(あつ)からざるべし。これと相違せるを「如実に修行し相応す」と名づく。このゆゑに論主(天親)、「我一心」と建言す。 (論註 P.103)

と二不知・三不信をしめしている。この三不信を『安楽集』では、三信と示している。

また三種の不相応あり。 一には信心淳からず、存ぜるがごとく亡ぜるがごとくなるがゆゑなり。 二には信心一ならず、いはく、決定なきがゆゑなり。 三には信心相続せず、いはく、余念間(へだ)つるがゆゑなり。 たがひにあひ収摂す。
もしよく相続すればすなはちこれ一心なり。 ただよく一心なれば、すなはちこれ淳心なり。 この三心を具してもし生ぜずといはば、この処あることなからん。 (安楽集 P.232)

「正信念仏偈」では、この三不信を三信と示された道綽禅師の釈意を、

三不三信誨慇懃 像末法滅同悲引
三不三信の誨(おしえ)、慇懃にして、像末法滅同じく悲引す。
一生造悪値弘誓 至安養界証妙果
一生悪を造れども、弘誓に値ひぬれば、安養界に至りて妙果を証せしむといへり。(行巻 P.206)

と、道綽禅師の釈功とされている。

『高僧和讃』「曇鸞讃」(*)では、展転する、淳心、一心、相続心を、
(48)

不如実修行といへること
鸞師釈してのたまはく
一者信心あつからず
若存若亡するゆゑに

(49)

二者信心一ならず
決定なきゆゑなれば
三者信心相続せず
余念間故とのべたまふ

(50)

三信展転相成す
行者こころをとどむべし
信心あつからざるゆゑに
決定の信なかりけり

(51)

決定の信なきゆゑに
念相続せざるなり
念相続せざるゆゑ
決定の信をえざるなり

(52)

決定の信をえざるゆゑ
信心不淳とのべたまふ
如実修行相応は
信心ひとつにさだめたり

と、五句を和讃されておられた。