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「還相」の版間の差分

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なお親鸞聖人は、最高の仏果を極めたものが、衆生救済のために、菩薩という修行者の姿を示現して自利と利他の活動をなすことを還相といわれていますから、'''[[従果還因]]'''の相状(果より因に還るありさま)と理解されていた。
 
なお親鸞聖人は、最高の仏果を極めたものが、衆生救済のために、菩薩という修行者の姿を示現して自利と利他の活動をなすことを還相といわれていますから、'''[[従果還因]]'''の相状(果より因に還るありさま)と理解されていた。
 
それは仏陀の<kana>[[果分不可説]](かぶん-ふかせつ)</kana>(仏のさとりである果については言葉を超えているので説くことが出来ない)の境界を言葉で表現して人びとを目覚めさせる利他のはたらきを意味し、<kana>[[因分可説]](いんぶん-かせつ)</kana>(仏のさとりを得る因となるものは説くことができる)の[[普賢]]の境界に匹敵する法門を意味していたともいえる。(聖典セミナーを参照)
 
それは仏陀の<kana>[[果分不可説]](かぶん-ふかせつ)</kana>(仏のさとりである果については言葉を超えているので説くことが出来ない)の境界を言葉で表現して人びとを目覚めさせる利他のはたらきを意味し、<kana>[[因分可説]](いんぶん-かせつ)</kana>(仏のさとりを得る因となるものは説くことができる)の[[普賢]]の境界に匹敵する法門を意味していたともいえる。(聖典セミナーを参照)
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:→[[往相]]
 
:→[[往相]]

2024年2月6日 (火) 13:02時点における最新版

げんそう

 還来(げんらい)穢国(えこく)の相状という意。往生成仏の証果を開いた者が、再び穢土(かえ)り来て、他の衆生教化(きょうけ)して仏道に向かわせるすがた。また従果還因(じゅうかげんいん)の相状の意で、往生成仏の証果を開いた者が、果より因に還り、菩薩の相を現して自利利他の徳を示現することをいう。→往相

出典(教学伝道研究センター編『浄土真宗聖典(注釈版)第二版』本願寺出版社
『浄土真宗聖典(注釈版)七祖篇』本願寺出版社

区切り線以下の文章は各投稿者の意見であり本願寺派の見解ではありません。

 還相とは一般的には、来穢国の状ということで、浄土に往生して、阿弥陀仏と同じさとりを得しめられたものが、大悲心をおこし、迷える人びとを救うために、煩悩の渦巻く穢土に還ってくること。
なお親鸞聖人は、最高の仏果を極めたものが、衆生救済のために、菩薩という修行者の姿を示現して自利と利他の活動をなすことを還相といわれていますから、従果還因の相状(果より因に還るありさま)と理解されていた。 それは仏陀の果分不可説(かぶん-ふかせつ)(仏のさとりである果については言葉を超えているので説くことが出来ない)の境界を言葉で表現して人びとを目覚めさせる利他のはたらきを意味し、因分可説(いんぶん-かせつ)(仏のさとりを得る因となるものは説くことができる)の普賢の境界に匹敵する法門を意味していたともいえる。(聖典セミナーを参照)

◆ 参照読み込み (transclusion) トーク:度衆生心

御開山は引文されておられないのだが、源信僧都は『往生要集』上巻で四弘誓願菩提心を述べ、

「浄土に生れんと求むる所以は一切衆生の苦を救抜せんと(おも)ふがゆゑなり。 すなはちみづから思忖すらく、〈われいま力なし。 もし悪世、煩悩の境のなかにあらば、境強きをもつてのゆゑに、みづから纏縛せられて三塗淪溺し、ややもすれば数劫を経ん。 かくのごとく輪転して、無始よりこのかたいまだかつて休息せず。 いづれの時にか、よく衆生の苦を救ふことを得ん〉と。 これがために、浄土に生れて諸仏に親近し、無生忍を証して、まさによく悪世のなかにして、衆生の苦を救はんことを求むるなり」と。 {以上}
余の経論の文、つぶさに『十疑』のごとし。
知りぬべし、念仏・修善を業因(ごういん)となし、往生極楽を華報(けほう)となし、証大菩提を果報(かほう)となし、利益衆生を本懐(ほんがい)となす。 たとへば、世間に木を植うれば(はな)を開き、華によりて(このみ)を結び、菓を得て餐受するがごとし。 (要集 P.930)

と、「利益衆生を本懐」となすが故に浄土へ往生するのであるとされている。源信僧都には、「我だにも まづ極楽に 生まれなば 知るも知らぬも 皆むかへてむ」(『新古今和歌集』)という句があり、衆生済度の為に往生をするとされた。
なお、ここでの修善は浄土真宗では、本願に選択された〔なんまんだぶ〕と称える以上の善はないのであるから念仏=修善を業因としてもよいであろう。
この言葉の出拠となった天台大師智顗の撰といわれる『淨土十疑論』の第「一疑」では、

問いて曰く。諸仏菩薩は大悲をもって業となし、もし衆生を救度せんと欲せば、ただ三界に願生して、五濁三塗の中において 苦の衆生を救うべし。何によりて浄土に生ずるを求むや。 自らその身を安んじ衆生を捨離す、則ちこれ大慈悲無くして専ら自利の為にして菩提の道を障(さ)ふ。 (『淨土十疑論』一疑)

と、浄土へ往生しようとする輩は、利他の大悲を忘れた自利の行者ではないのかとの疑いを出し、それに対して凡夫の菩薩道は衆生を済度する力を得る為に浄土へ往生するのだと答えている。参照→『淨土十疑論』
御開山は本願力回向による往生即成仏と還相の利他教化地の益をいわれるので少しく趣旨が違うのだが、先達の往生浄土に対する「還相の利益は利他の正意を顕すなり」(証巻 P.335) の考察を学ぶのも面白いものであろう。
なお、御開山は本願力回向の「願作仏心」「度衆生心」を横超の菩提心であるとされ、浄土真宗願作仏心往相)と度衆生心還相)のご法義であるとされておられた。

(17)

尽十方の無碍光仏
一心に帰命するをこそ
天親論主のみことには
願作仏心とのべたまへ (高僧 P.581)

(18)

願作仏の心はこれ
度衆生のこころなり
度衆生の心はこれ
利他真実の信心なり (高僧 P.581)

(19)

信心すなはち一心なり
一心すなはち金剛心
金剛心は菩提心
この心すなはち他力なり (高僧 P.581)

(20)

浄土の大菩提心は
願作仏心をすすめしむ
すなはち願作仏心
度衆生心となづけたり (正像 P.603)

(21)

度衆生心といふことは
弥陀智願の回向なり
回向の信楽うるひとは
大般涅槃をさとるなり (正像 P.603)

慈悲に聖道・浄土のかはりめあり。
願作仏心
度衆生心
二種回向
往生門
正覚門
還相
無住処涅槃

往相
広門示現相
無住処涅槃
依詮談旨
往生門
正覚門