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「諸有」の版間の差分

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:「あらゆる衆生」([[P:212|註 212]])
 
:「あらゆる衆生」([[P:212|註 212]])
 
と読んでいる。また、『浄土和讃』には
 
と読んでいる。また、『浄土和讃』には
:「十方所有の衆生は」([[P:560|註 560]])
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:「十方諸有の衆生は」([[P:560|註 560]])
 
とあり、「国宝本」 左訓には
 
とあり、「国宝本」 左訓には
 
:「あらゆる。諸有は二十五有の衆生といふ。われら衆生は二十五有に過ぎて生まるるといふこころなり」
 
:「あらゆる。諸有は二十五有の衆生といふ。われら衆生は二十五有に過ぎて生まるるといふこころなり」

2023年11月12日 (日) 22:36時点における最新版

しょ-う

 あらゆるものみな。二十五有の迷いの境界。(化巻 P.408, 浄文 P.483, 浄土 P.569, 十二礼 P.1442要集 P.882)

【左訓】

①「あらゆる。諸有は二十五有の衆生といふ。われら衆生は二十五有に過ぎて生るるといふこころなり」(異本)浄土 P.560 
②「十方のよろづの衆生なり」(異本)(高僧 P.584)
出典(教学伝道研究センター編『浄土真宗聖典(注釈版)第二版』本願寺出版社
『浄土真宗聖典(注釈版)七祖篇』本願寺出版社

区切り線以下の文章は各投稿者の意見であり本願寺派の見解ではありません。

諸有を諸々(もろもろ)()と読む時は二十五有のことであり、あらゆると読むときはすべての衆生といふ意味になる。

しょう 諸有

 あらゆる、すべての意。親鸞は第十八願成就文にある 「所有衆生」 を、「信巻」 では

「あらゆる衆生」(註 212)

と読んでいる。また、『浄土和讃』には

「十方諸有の衆生は」(註 560)

とあり、「国宝本」 左訓には

「あらゆる。諸有は二十五有の衆生といふ。われら衆生は二十五有に過ぎて生まるるといふこころなり」

とある。→二十五有。(浄土真宗辞典)