操作

「嘉禄の法難」の版間の差分

提供: WikiArc

(ページの作成:「かろくのほうなん {{Tinc|JDS:嘉禄の法難}}」)
 
 
1行目: 1行目:
 
かろくのほうなん
 
かろくのほうなん
  
{{Tinc|JDS:嘉禄の法難}}
+
{{Inyou2|
 +
かろくのほうなん 嘉禄の法難
 +
 
 +
 嘉禄3年(1227)に専修念仏者に加えられた弾圧のこと。その契機は、天台僧[[JDS:定照|定照]]が『[[JDS:弾選択|弾選択]]』を著(あらわ)して[[法然]]の『[[選択集]]』を批判したのに対して、[[隆寛]]が『[[JDS:顕選択|顕選択]]』を著して反論したこととされる。比叡山の僧徒は大谷にあった法然の墓堂を破却したが、法然の遺体は門弟たちにより嵯峨(京都市右京区)へ移されて、翌年、粟生(あお)で荼毘に付された。この弾圧で、[[隆寛]]、[[幸西]]らが流罪となり[[専修念仏]]が禁止されたほか、40数名が逮捕され、『[[選択集]]』の版木が焼却されたという。(浄土真宗辞典)
 +
}}
 +
:→[[延暦寺奏状]]
 +
 
 +
{{JDS|嘉禄の法難}}
 +
 
 +
[[Category:追記]] <p id="page-top">[[#|▲]]</p>

2023年1月7日 (土) 10:52時点における最新版

かろくのほうなん

かろくのほうなん 嘉禄の法難

 嘉禄3年(1227)に専修念仏者に加えられた弾圧のこと。その契機は、天台僧定照が『弾選択』を著(あらわ)して法然の『選択集』を批判したのに対して、隆寛が『顕選択』を著して反論したこととされる。比叡山の僧徒は大谷にあった法然の墓堂を破却したが、法然の遺体は門弟たちにより嵯峨(京都市右京区)へ移されて、翌年、粟生(あお)で荼毘に付された。この弾圧で、隆寛幸西らが流罪となり専修念仏が禁止されたほか、40数名が逮捕され、『選択集』の版木が焼却されたという。(浄土真宗辞典)

延暦寺奏状
参照WEB版浄土宗大辞典の「嘉禄の法難」の項目