「不虚作住持功徳」の版間の差分
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− | : | + | :なんとなれば荘厳不虚作住持功徳成就とは、偈に「[[観仏本願力…|観仏本願力 遇無空過者 能令速満足 功徳大宝海]]」といへるがゆゑなり。 ([[浄土論_(七祖)#P--37|浄土論 P.37]]) |
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+ | : 「不虚作住持功徳成就」とは、けだしこれ阿弥陀如来の[[本願力]]なり。 | ||
+ | :いままさに略して虚作の相の住持することあたはざるを示して、もつてかの不虚作住持の義を顕すべし。 | ||
+ | {中略 虚作の二例を引く} | ||
+ | :いふところの「不虚作住持」とは、本(もと)法蔵菩薩の四十八願と、今日の阿弥陀如来の[[自在神力]]とによるなり。'''願もつて力を成ず、力もつて願に就(つ)く'''。願[[徒然]]ならず、力[[虚設]]ならず。力・願あひ符(かな)ひて畢竟じて差(たが)はざるがゆゑに「[[成就]]」といふ。([[浄土論註 (七祖)#P--131|論註 P.131]]) | ||
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とあり、[[行巻#no93|行巻 P.197]]、[[真巻#no28|真巻 P.361]]でこの文を引文されておられた。<br /> | とあり、[[行巻#no93|行巻 P.197]]、[[真巻#no28|真巻 P.361]]でこの文を引文されておられた。<br /> | ||
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である「観仏本願力 遇無空過者 能令速満足 功徳大宝海 (仏の本願力を観ずるに、遇ひて空しく過ぐるものなし。よくすみやかに功徳の大宝海を満足せしむ)」という阿弥陀如来の本願力成就を示す文であった。 | である「観仏本願力 遇無空過者 能令速満足 功徳大宝海 (仏の本願力を観ずるに、遇ひて空しく過ぐるものなし。よくすみやかに功徳の大宝海を満足せしむ)」という阿弥陀如来の本願力成就を示す文であった。 | ||
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2022年6月24日 (金) 22:32時点における版
ふこさ-じゅうじくどく
仏のはたらきは真実にしてすべてのものを保持するものであることを明かす。 (浄土論 P.36)
出典(教学伝道研究センター編『浄土真宗聖典(注釈版)第二版』本願寺出版社
『浄土真宗聖典(注釈版)七祖篇』本願寺出版社
区切り線以下の文章は各投稿者の意見であり本願寺派の見解ではありません。
『浄土真宗聖典(注釈版)七祖篇』本願寺出版社
区切り線以下の文章は各投稿者の意見であり本願寺派の見解ではありません。
『論註』には『浄土論』の、
- なんとなれば荘厳不虚作住持功徳成就とは、偈に「観仏本願力 遇無空過者 能令速満足 功徳大宝海」といへるがゆゑなり。 (浄土論 P.37)
を釈して、
- 「不虚作住持功徳成就」とは、けだしこれ阿弥陀如来の本願力なり。
- いままさに略して虚作の相の住持することあたはざるを示して、もつてかの不虚作住持の義を顕すべし。
{中略 虚作の二例を引く}
とあり、行巻 P.197、真巻 P.361でこの文を引文されておられた。
それは『浄土論』の、
- なんとなれば荘厳不虚作住持功徳成就とは、偈に「観仏本願力 遇無空過者 能令速満足 功徳大宝海」といへるがゆゑなり。(浄土論 P.37)
である「観仏本願力 遇無空過者 能令速満足 功徳大宝海 (仏の本願力を観ずるに、遇ひて空しく過ぐるものなし。よくすみやかに功徳の大宝海を満足せしむ)」という阿弥陀如来の本願力成就を示す文であった。
御開山は本願力に出あって、空過(むなしく過ぎる)の人生が仏果を得る功徳の人生に転換されたことを慶ばれて、
(13)
- 本願力にあひぬれば
- むなしくすぐるひとぞなき
- 功徳の宝海みちみちて
- 煩悩の濁水へだてなし (高僧 P.580)
と和讃されておられた。