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真理にめざめること。迷いの世界・苦から離れた境地。覚・覚悟・証・菩提・道などともいい、その内実から涅槃・滅度と同義で用いられる場合が多い。仏教ではこの状態に至ることを究極的な実践目的とする。(浄土真宗辞典)
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2020年10月16日 (金) 07:32時点における最新版

  了見。考え。(浄土 P.573)

出典(教学伝道研究センター編『浄土真宗聖典(注釈版)第二版』本願寺出版社
『浄土真宗聖典(注釈版)七祖篇』本願寺出版社

区切り線以下の文章は各投稿者の意見であり本願寺派の見解ではありません。

 一般には、知らなかったことを知ること、気がつくことなどを、さとるともいうが、仏教でのさとりという言葉は、

さとり

真理にめざめること。迷いの世界・苦から離れた境地。覚悟菩提などともいい、その内実から涅槃滅度と同義で用いられる場合が多い。仏教ではこの状態に至ることを究極的な実践目的とする。(浄土真宗辞典)

と、生老病死の輪廻を超越する智慧の完成をさとりといふ。

正覚
菩提
済度


オンライン版 仏教辞典から転送

さとり

 仏教の悟り (さとり、覚り、bodhi、बोधि (S))は、「覚悟」「」「修証」「証得(しょうとく)」「証悟(しょうご)」「菩提」「」などの別称がある。
 真理()に目覚めること。迷いの反対。さとりは仏教の究極目的であり、悟るためにさまざまな修行が説かれ実践される。仏教の悟りは智慧を体としており、凡夫煩悩に左右されて迷いの生存を繰り返し、輪廻を続けているのは、それは何事にも分別の心をもってし、分析的に納得しようとする結果であるとし、輪廻の迷いから智慧の力によって解脱しなければならない、その方法は事物を如実観察することで実現する。これが真理を悟ることであり、そこには思考がなく、言葉もない

 釈迦は多くの哲学者や宗教家の教えを受け、苦行にも専念したが悟りを得られなかった。そこで今までの修行法をすてて、尼連禅河のほとりで村娘スジャータから乳粥(ちちがゆ)の供養(くよう)を受けて河を渡り、対岸のピッパラ樹の下で坐禅をして真理を悟ることができた。

 その悟りは究極最高のものだったので「等正覚」(阿耨多羅三藐三菩提 anuttarā samyaksaṃbodhiḥ)と呼ばれ、釈迦は悟った者(覚者)、すなわち「仏陀」になった。
 この悟りの境地を「涅槃」といい、それは「寂静」であるとされる。煩悩が制御されているので、とらわれのない心の静けさがあるということである。

 また、悟りを求める心を菩提心という。悟りを求める点では部派仏教大乗仏教も共通であるが、自分のさとりを追求する部派仏教の場合、声聞四諦の教えを聞いて修行し、縁覚十二因縁を覚ってそれぞれ解脱するとする。

 大乗仏教では自分の悟りは他人のさとりを前提に成立するという立場から、六波羅蜜という利他行を実践する菩薩行を強調する。悟りは固定した状態ではなく、悟りの行は、自利と利他の両面を願って行動し続けることであり、自らの悟りに安住することなく、悟りを求める人々に実践を指導するために活動し続けた釈迦の姿が想定されており、活動していくことに悟りの意味を求めているのが、仏教の悟りの特徴である。

 「どうすればこの知恵の完成が長く存続するであろうか。どうすればこの知恵の完成の名前が滅しないであろうか。どうすればこの知恵の完成が語られ、書写され、学ばれているときに、邪悪な魔や魔に従属する魔神が障害をなさないであろうか」と知恵の完成のことに思いをそそぐ。    〔『八千頌般若経』第12章〕

 また「覚り」とも言い、これは旧訳ではサンスクリット語「vitarka」の訳である。vitarkaは「」とも訳し、対象を推しはかって分別する麁(あら)い心の働きをいう。一方、細かい心の働きを「vicāra」(旧訳では、新訳では)といい、両者は対になって用いられる。この両者はともに定心を妨げるが、禅定の深まりによって消滅する。

 また「覚り」は、新訳では「bodhi」の訳で「菩提」と音写され、覚り、もしくは覚りの智慧を表す。古くは「道(どう)」「意」「覚意」などと訳された。阿耨多羅三藐三菩提を等正覚、あるいは単に正覚などというときの「覚」がそれである。

 『大乗起信論』では、阿頼耶識に不覚と覚の二義があるとし、覚をさらに始覚(しかく)と本覚(ほんがく)とに分けて説明する。

 我々の心性は、現実には無明に覆われ、妄念にとらわれているから不覚であるが、この無明が止滅して妄念を離れた状態が「覚」であるという。ところで、無明は無始以来のものであるから、それに依拠する不覚に対しては「始覚」といわれるが、われわれの心性の根源は本来清浄な覚りそのもの(「本覚」)であって、それがたまたま無明に覆われているから、始覚といってもそれは本覚と別のものではなく、始覚によって本覚に帰一するに過ぎない、と説明する。つまり、誰にでも覚りに至る道は開けており、それに向かっての修行が必要なことを説いているのである。さらに、覚りは清浄なものであることも説明されており、この論書の特長である。

意味と同義語

 さとりは仏教の究極目的であり,これを体得するために修行道が説かれている。さとりは真理・真実をさとるはたらき,すなわち智慧によって得られ,かつ智慧を本質とする。この智慧は根本無分別智であり,初期仏教における阿羅漢のさとり,あるいは大乗仏教における仏のさとり(仏智)はこの智慧の体得にほかならない。さとりを表わす同義語には,智慧(paññā, ñāṇa)のほかに,(vijjā)、正知(sampajāna)、遍知(pariññā)、証知(abhiññā)、菩提・覚・(bodhi)、正覚・等覚(sambodhi)などがあり,無常観や観のごとき真理観察の正観・随観・現観(vipassanā, anupassanā, abhisamaya)も智慧のはたらきである。さとりの境地を表わすのに涅槃(nibbāna)や解脱(vimokkha)が使われる。のちの大乗仏教になると,仏のさとりを真如法界法性如来蔵仏性などの語で表わした。

さとりの「道」

 仏教は転迷開悟の教えで、迷いの輪廻からいかにしてさとりの解脱を得るかがその目的であった。釈尊が菩提樹下で得たさとりは,すでに過去の仏たちがさとり,かつ歩んだ「道」であり,それはまた万人が仏となっていく普遍の真理たる「道」であった。この「道」は究極目的としてのさとりであると同時に,さとりにいたらしめる道程をも意味し,また「道」は限りなく道の人,すなわち求道者を生みだすとされた。釈尊によれば、「道」をさとるということは,本来の自己,真実の自己を実現することであったから,仏とは真実の自己を実現した人のことで,かかるさとりは万人にとって,現実的・即時的・実証的なものとして体得されるべきものと説かれた。しかしながら,仏滅後になると,さとりを得ることがむずかしいために,修行道が複雑となり,かつ幾生も修行を積むとか,彼土に往生して成仏を期するという浄土思想が起こった。

さとりと修行

初級のさとりと阿羅漢果

 初期仏教において,凡夫位から聖者位に入る預流向(見道)は,初級のさとりを得た人を指し,悪趣に堕ちないから不堕法(avinipātadhamma)といい,また聖者位から退転せず,阿羅漢のさとりにいたることが決定しているから,正性決定(sammattaniyata)といい,かかる初級のさとりの人びとを,正定聚(sammattaniyatarāsi)という。このさとりを得る方法に2種があり,一つには信心によるもの(随信行)で,仏法僧の三宝聖戒の4つに対して金剛不壊の浄信を確立するという,四不壊浄の教えである。2つには理論的把握によるもの(随法行)で,四諦現観などによって法眼を得る場合である。預流向から阿羅漢果までの四双八輩の聖者のなかには,初級のさとりを深めていく修行方法として,前記の信心と理論のほかに禅定を加えた3つが採られていた。そして,釈尊も阿羅漢果をさとった一人であったから,初期仏教から部派仏教にかけて,最高のさとりは阿羅漢果であった。
 なお,浄土教において,親鸞が彼土における正定聚を信心を獲たときの現生の益〔tyu:現生十益〕として此土にもってきて,次生に仏となる身と決定した位としたことは卓見である。

頓悟と漸悟

 初級のさとりに関して、預流向の位において四諦の道理を無漏智をもって現観する場合、パーリ上座部は一刹那の心で一時に現観するとして頓現観を主張し、説一切有部は十六刹那の心でしだいに現観するとして漸現観を主張する。
 このように、さとりを得るために要する時間と修行階位の面から、頓速にさとる頓悟と漸次にさとる漸悟の別が考えられた。声聞がさとりを得るまでに要する修行年月は三生六十劫、縁覚の場合は四生百劫、菩薩の場合は三祇百劫と説かれるにいたった。しかしながら、本来さとりは漸悟のものではないとして、華厳宗の初発心時便成正覚や疾得成仏、天台宗日蓮宗の即身成仏、真言宗即身成仏禅宗の見性成仏、真宗tyu:往生即成仏のごとき頓悟・頓証の立場がうちだされた。また、心性本浄本覚思想によって、さとりと修行は一つのものであるとして、道元は修証一等、本証妙修と説き、証上の修としての只管打坐を宣揚した。

成仏の素質

 大乗仏教は人びとが仏となる性質すなわち仏性をそなえているとし、一切衆生悉有仏性と説く。しかし、『瑜伽論』などの五性各別説を採る法相宗は、悉有仏性という一性皆成説をしりぞける。天台宗最澄と法相宗の徳一のあいだにかわされた三一権実の論争はこれを内容としている。五性各別説とは人間に生まれながらの性質によって差別があり、修行の面からこれを5つに分けたもので、とりわけ、第5の無性有情には永久に成仏の可能性がないとした。
 また,中国や日本の仏教において、衆生有情)のみならず、草木や国土のごとく非情のものもすべて仏性があるから成仏するという、草木国土悉皆成仏が説かれた。

さとりの境地

 最高のさとりの境地を解脱とか涅槃、ないしそれらの同義語をもって表わしている。そのうち、解脱と涅槃についていえば、解脱は自由、涅槃は平等あるいは平和の意味をもつ。自由は文化的価値、平等は宗教的価値に属する。自由と平等が相反する概念でありながら、相即するものであることを個人や社会のうえに実現することをめざすのが仏教であったから、解脱と涅槃がさとりの境地を表わすのに用いられた。自由は自利のみにかたよる弊があるから、さとりとは自利と利他がともにそなわっているものと説かれ、阿羅漢果を得た人も菩薩道を修して仏果を得た人も、みな自利と利他の完成者であるというのはこのことを指す。また、大乗仏教で、無住処涅槃が説かれ、自ら安らぎの境地にひたっていないで、利他教化のはたらきに従事するというのも、自己否定的な創造性をさとりがもっていることを意味する。

自覚と覚他

 釈尊におけるさとりは、輪廻の自己の姿を知ることによって解脱の自己と成ることであり、それは真実の自己,我執なき自己の実現であった。日々、新たな自己の創造への歩みを続けるところに、仏道の修行があったといえよう。仏教徒はすべて求道者であり、道(さとり)を得てもなおかつ道を求めていった。しかも、自利と利他、自覚と覚他というように、自己の成仏と一切衆生の成仏が同時に完成することを内容としたのが、さとりであった。