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− | すなわち第一には、親鸞が教・行・証の[[三法]]を教・行・信・証の[[四法]]に開いて[[信心正因]] [[称名報恩]]の義を主張されたことなどは、従生向仏<ref>従生向仏(じゅうしょう-こうぶつ)。衆生より仏に向かう。衆生が仏に成るベクトル。</ref>の往生門としての理解であり、これを「体験的立場」ということができる。第二にはその[[信心]]や[[称名]]が他力回向によるものであるという他力回向説を主張されたことなどは、従仏向生<ref>従仏向生(じゅうぶつ-こうしょう)。仏より衆生に向かう。仏のさとりから衆生に対してのベクトル。</ref> | + | すなわち第一には、親鸞が教・行・証の[[三法]]を教・行・信・証の[[四法]]に開いて[[信心正因]] [[称名報恩]]の義を主張されたことなどは、従生向仏<ref>従生向仏(じゅうしょう-こうぶつ)。衆生より仏に向かう。衆生が仏に成るベクトル。</ref>の往生門としての理解であり、これを「体験的立場」ということができる。第二にはその[[信心]]や[[称名]]が他力回向によるものであるという他力回向説を主張されたことなどは、従仏向生<ref>従仏向生(じゅうぶつ-こうしょう)。仏より衆生に向かう。仏のさとりから衆生に対してのベクトル。</ref>の正覚門としての理解であり、これを「論理的立場」での主張と見ることができる。親鸞においては、この体験と論理とは二而不離一体<ref>二而不離一体(にに-ふりいったい)。二にして不離一体。</ref>の関係にあると言わねばならないが、その著述を検討すると『教行信証』を中心とした往生門的体験の立場に据わって著されたものと、『和讃』<ref>『和讃』。「讃阿弥陀仏偈」は浄土の[[三種の荘厳|三厳]]の徳を讃えるので「真仏土」、三部経を讃ずる「浄土和讃」は「教」、「高僧和讃」は七高僧の「行・信」に配当される。「正像末和讃」冒頭には、「弥陀の本願信ずべし 本願信ずるひとはみな 摂取不捨の利益にて 無上覚をばさとるなり」とあり、正・像・末の三時にわたって凡夫が「証」を得ることができるのは、阿弥陀仏の本願以外には無いということを示している、とみることができる。この意味において「真仏土」→「教」→「行」→「信」→「証」といふ構造になっている。このように「往生門」と「正覚門」は円環構造であるとみることが出来る。</ref>、『文類聚鈔』、『入出二門偈』等のように正覚門的論理の立場に据して著されたものとが見えるとし、晩年には体験というより後者の正覚門的論理的立場に立って著されたものが多くなるという論を展開して、そこに「往生門的体験的立場」と「正覚門的論理的立場」という二つの立場を明らかにしている。 |
− | 同様の観点は基本的には伝統的な宗学が用いるもので、たとえば[[JWP:大原性実|大原性実]] | + | 同様の観点は基本的には伝統的な宗学が用いるもので、たとえば[[JWP:大原性実|大原性実]]氏は『真宗教学の伝統と[[己証]]』において、 |
− | :<kana>抑々(そもそも)</kana>[[顕浄土真実教行証文類|本典]]を研鑽する視角には二個ありと考えられる。その一つは教を起点として行・信・証・真仏土と進行する[[jds:順観・逆観|順観]]の立場であり、その二は真仏・真土を起点として、行・信・証と進行する[[jds:順観・逆観|逆観]] | + | :<kana>抑々(そもそも)</kana>[[顕浄土真実教行証文類|本典]]を研鑽する視角には二個ありと考えられる。その一つは教を起点として行・信・証・真仏土と進行する[[jds:順観・逆観|順観]]の立場であり、その二は真仏・真土を起点として、行・信・証と進行する[[jds:順観・逆観|逆観]]のそれである。真宗学においては前者を[[往生門]](趣入門)といい、後者を[[正覚門]](摂化門)と名づけている。この二門の見方は学者によりて必ずしも一様ではないが、私は順観の往生門は真宗救済における「体験の事実」を語るものであり、逆観の正覚門は真宗救済における「[[EXC:先験|先験]]の論理」を示すものと見る。 |
と述べて、伝統的な「往生門」と「正覚門」の立場を解説されている。二つの立場の見方は全く同じ表現ではないが、伝統的宗学におけるこの二つの立場は基本的には重なるものと見ることができよう。 | と述べて、伝統的な「往生門」と「正覚門」の立場を解説されている。二つの立場の見方は全く同じ表現ではないが、伝統的宗学におけるこの二つの立場は基本的には重なるものと見ることができよう。 |
2020年9月14日 (月) 08:32時点における版
浄土真宗では「往生門」と「正覚門」といふ二つの立場を示し種々に論じられてきた。ここでは、深川宣暢和上の『親鸞教学の二重の構造』──救済の「論理」と「時間」── の論文のPDFから一部分を抜書きした。➡ファイル:「親鸞教学の二重の構造 」.pdf ➡親鸞教学の二重の構造 text
- 〈3)神子上恵龍氏の所論
真宗の、ことに本願寺派での伝統的な宗学の方法として、旧来より「往生門」と「正覚門」という二つの立場がある。神子上恵龍氏は「親鸞教学に於ける二の立場」という論文の中で、この二つの立場から親鸞の著述を分類するという見解をあらわして、親鸞教学(教義)を解明する方法を展開する。
すなわち第一には、親鸞が教・行・証の三法を教・行・信・証の四法に開いて信心正因 称名報恩の義を主張されたことなどは、従生向仏[1]の往生門としての理解であり、これを「体験的立場」ということができる。第二にはその信心や称名が他力回向によるものであるという他力回向説を主張されたことなどは、従仏向生[2]の正覚門としての理解であり、これを「論理的立場」での主張と見ることができる。親鸞においては、この体験と論理とは二而不離一体[3]の関係にあると言わねばならないが、その著述を検討すると『教行信証』を中心とした往生門的体験の立場に据わって著されたものと、『和讃』[4]、『文類聚鈔』、『入出二門偈』等のように正覚門的論理の立場に据して著されたものとが見えるとし、晩年には体験というより後者の正覚門的論理的立場に立って著されたものが多くなるという論を展開して、そこに「往生門的体験的立場」と「正覚門的論理的立場」という二つの立場を明らかにしている。
同様の観点は基本的には伝統的な宗学が用いるもので、たとえば大原性実氏は『真宗教学の伝統と己証』において、
抑々 本典を研鑽する視角には二個ありと考えられる。その一つは教を起点として行・信・証・真仏土と進行する順観の立場であり、その二は真仏・真土を起点として、行・信・証と進行する逆観のそれである。真宗学においては前者を往生門(趣入門)といい、後者を正覚門(摂化門)と名づけている。この二門の見方は学者によりて必ずしも一様ではないが、私は順観の往生門は真宗救済における「体験の事実」を語るものであり、逆観の正覚門は真宗救済における「先験の論理」を示すものと見る。
と述べて、伝統的な「往生門」と「正覚門」の立場を解説されている。二つの立場の見方は全く同じ表現ではないが、伝統的宗学におけるこの二つの立場は基本的には重なるものと見ることができよう。
なお、蓮如さんには「往生門」のみで「正覚門」が欠けている。それは、親鸞聖人と蓮如上人の置かれた時代や歴史的思想背景の違いなどもあって、強調する力点が違うのであろう。→トーク:蓮如
- →親鸞聖人の仏身論
- →垂名示形
- ➡hwiki:仏教の思想5(相対の上の絶対)
- ↑ 従生向仏(じゅうしょう-こうぶつ)。衆生より仏に向かう。衆生が仏に成るベクトル。
- ↑ 従仏向生(じゅうぶつ-こうしょう)。仏より衆生に向かう。仏のさとりから衆生に対してのベクトル。
- ↑ 二而不離一体(にに-ふりいったい)。二にして不離一体。
- ↑ 『和讃』。「讃阿弥陀仏偈」は浄土の三厳の徳を讃えるので「真仏土」、三部経を讃ずる「浄土和讃」は「教」、「高僧和讃」は七高僧の「行・信」に配当される。「正像末和讃」冒頭には、「弥陀の本願信ずべし 本願信ずるひとはみな 摂取不捨の利益にて 無上覚をばさとるなり」とあり、正・像・末の三時にわたって凡夫が「証」を得ることができるのは、阿弥陀仏の本願以外には無いということを示している、とみることができる。この意味において「真仏土」→「教」→「行」→「信」→「証」といふ構造になっている。このように「往生門」と「正覚門」は円環構造であるとみることが出来る。