操作

「慕帰絵詞」の版間の差分

提供: WikiArc

(唯善との宿善論争)
256行目: 256行目:
 
鎌倉の唯善房<ref>唯善は、覚信尼公の再婚相手である小野宮禅念との間の子で親鸞聖人の孫。覚如上人とは、文中に「舅甥」とあるように甥と叔父の関係である。なお『歎異抄』の著者と目される唯円とは師弟とも、あるいは唯円は小野宮禅念の先妻の子であるともいわれる。後に異父兄の覚恵と息である覚師との間で大谷廟堂の相続について争い敗れて鎌倉へ逐電したという。唯善にしてみれば大谷廟堂の地は元来、実父の禅念が残したものであるという意識だったのであろう。</ref>と号せしは、中院少将具親朝臣孫、禅念房<ref>禅念坊。覚信尼公の再婚相手である小野宮禅念のこと。出家して禅念と名乗った。この禅念の遺した土地を後に覚信尼公は関東の同行の御中へ提供し、御開山の直弟子の顕智なども協力も得て自らは留守職(るすしき)として本願寺の濫觴となった。</ref>真弟<ref>真弟(しんてい)。実の子で、仏法上の継承者。父を法の上の師とした僧のこと。</ref>也。幼年のときは少将輔
 
鎌倉の唯善房<ref>唯善は、覚信尼公の再婚相手である小野宮禅念との間の子で親鸞聖人の孫。覚如上人とは、文中に「舅甥」とあるように甥と叔父の関係である。なお『歎異抄』の著者と目される唯円とは師弟とも、あるいは唯円は小野宮禅念の先妻の子であるともいわれる。後に異父兄の覚恵と息である覚師との間で大谷廟堂の相続について争い敗れて鎌倉へ逐電したという。唯善にしてみれば大谷廟堂の地は元来、実父の禅念が残したものであるという意識だったのであろう。</ref>と号せしは、中院少将具親朝臣孫、禅念房<ref>禅念坊。覚信尼公の再婚相手である小野宮禅念のこと。出家して禅念と名乗った。この禅念の遺した土地を後に覚信尼公は関東の同行の御中へ提供し、御開山の直弟子の顕智なども協力も得て自らは留守職(るすしき)として本願寺の濫觴となった。</ref>真弟<ref>真弟(しんてい)。実の子で、仏法上の継承者。父を法の上の師とした僧のこと。</ref>也。幼年のときは少将輔
 
時猶子とし、成人の後は亜相雅忠卿子の儀たりき。仁和寺相応院の守助僧正の門弟
 
時猶子とし、成人の後は亜相雅忠卿子の儀たりき。仁和寺相応院の守助僧正の門弟
にて、大納言阿闍梨弘雅とて、しばらく山臥道をぞうかゞひける。いにしへ法印と唯
+
にて、大納言阿闍梨弘雅とて、しばらく山臥道をぞうかゞひける。いにしへ法印と唯公とはかりなき法門相論の事ありけり、
公とはかりなき法門相論の事ありけり、
+
  
 
法印は、往生は宿善開発の機こそ善知識に
 
法印は、往生は宿善開発の機こそ善知識に

2020年8月18日 (火) 08:56時点における版

西本願寺3世覚如上人の伝記を叙した南北朝時代の絵巻。覚如の子慈俊(じしゅん)の撰(せん)になり、上人の帰寂(きじゃく)を慕う意味でこの名がつけられた。詞書(ことばがき)は三条公忠(きんただ)ら数人の執筆、絵は藤原隆昌(たかまさ)・隆章(たかあき)の筆で、1351年(正平6・観応2)の制作。10巻からなるが、第1、7巻は後世に紛失し、1482年(文明14)に飛鳥井雅康(あすかいまさやす)が詞、藤原久信が絵を補作している。→コトバンクより

慕帰絵詞 『真宗聖教全書』三 歴代部 P-769~P-816

慕帰絵詞  第一巻

第一段

夫まよへるがゆへに、かりに真如の妙理をうしなひ、さとれるが故につゐに妄情の 一念もなし。信哉、天台大師(止観輔行巻五之二?)ののたまはく、「然此心性徧於諸法、迷謂内外、悟唯一 心」と[云々]。然者番々出世の諸佛も、流転の凡愚の度脱の方法なきことをばあはれみ、 億億無量の衆生も罪障の樊籠に苦縛の解脱しがたき事をばかなしむ。されば大聖 一代の設化なれども、八宗九宗廃立あひわかれ、顕教・密教、行学ことたり、此中にすベ て一代を簡別するに二種あり。いはく、聖道・浄土の二門なり、聖道の方をば難行道と いひ、浄土のかたをば易行道と名づく。聖道の諸門は智恵もめでたき人のさとりを きはめて出離せしめ、浄土の一門は愚鈍につたなきものゝ往生をとぐるにつきて 難易をわかてるにてしりぬべし。然に『楽邦文類』(巻四)には「浄土非難易、々々有人、難者 疑情咫尺万里、易者信心万里咫尺」といへる歟。くれぐれ五劫思惟の本願をおこし、 はるばると兆載永劫の修行にたへて御骨をおりければ、併十方衆生を懸物にして 佛にならむと我等の為に廻向せしめ給へる四十八願一々に成就して正覚なり、阿 弥陀といはれ給事うたがひなきうへは、たゞたのむばかりと、先心得べし。さてこの 廻向にこたへて信楽の心おこれば、やがて欲生の心発得して、次第に転人すればこ そ、三信とも三心ともいはれ、つゐには又一心一念にも落居すなれ。かゝればこそ、釈 迦の慇懃付属も諸佛の証誠護念も、弥陀の功徳をほめ、本願の名号を信ぜよとをし へ給へども、機にたへば尤真言・止観の観道に趺をむすび、持戒・坐禅の禅菴に思をこ らすべきに、おそらくは末法の時にいたれる今日此比、聖道の修行にをきては、或は 五十二位の階級をふめる歴劫迂廻の漸教もあり、或は自身即佛の解了を事とする 速疾頓成の所談もあれども、すべからくをのをの涯分をかへり見て、時機相応の法 門に赴て、たゞ横超安楽の要路をねがふべし。唐土諸宗の祖師達も、晨旦名徳の儒士 等までも、阿弥陀をほめたてまつり、西方界をすゝめずといふ事なし。ひろくは勘載 に隟なし、中にも先心に浮にまかせて、密家一句の要文を得たり。『金剛界広大儀軌 品』にいはく、「十方三世一切諸佛中、弥陀勝、下劣凡夫、易生故、十方恒沙諸佛浄土中、无安 超楽国土」[文]。又『秘密神咒経』には、「三世諸佛、出世本懐、為説阿弥陀佛名号也」[云々]。或『経』 (阿弥陀佛根本秘密神咒経)には、阿弥陀の三字をばいみじくときあらはさるゝに、「阿字十方三世佛、弥 字一切諸菩薩、陀宇八万諸聖教、三字之中皆具足」ともみえたり。めのこたきとかやの 風情に心得やすき、か様の明文を少々思いだすに随て書載侍り、幸に明師にあへり。
もとは法相・三論の宗を兼学せしかども、後には清閑一実の教に皈伏して更に貳な し、されども遁世をさきとし、教導をむねとして檀主をへつらひ、諸人をほむる事は なくして、半籠居の体なれば、世俗の緇素の一門他家のむつびもたがはず、雲客も卿 相も年来日来のまじはりそむかざりけり。さるうへに代々寺務管領の号あるに就 て、兼て自身往生浄土のためばかりにさる止事なき法流を酌伝を、縁にふれても聞 及人の由緒も心悪さに蓬屋に尋のぞみて、此たび出要の方軌を問こゝろみ侍し時、 物語あるを聴聞せしかば、宿善の開発しけるにや、理窟霧まけり、一度聞に歓喜をな す、金林月すめり、おちおちあきらむるに疑情ある事なし。孔子詞(論語里仁篇)には「朝聞道夕 死可矣」といへり、時の間もきへやすき露の命をかへりみず、無綾心のおもひに住し て、こととくも先たづねけるは、かしこくぞと思ぞあはせらるゝ。又これは常に耳な れ、目にふるゝ様にて珍からぬ文証なれども、『摩訶止観』(巻一上)曰、「一日三捨恒沙身、尚 不能報一句力、況両肩荷負、百千万劫、寧報佛法之恩」[文]。斯岑王の私阿訶提佛に仕へ、梵摩 達が珍宝比丘に奉て、飲食・衣服・臥具・医薬の四事の供養を述し、是みな念佛三昧の法 をきかむが為なり。加之大王は法を求て給仕を千載にいたし、常啼は般若を聞て五 百由旬の域にいたるといへる歟。『大論』(巻一意)には、「若無信心、雖解文義、空無所獲」(云々)。

故にその厚恩を報酬せむと欲すれば、泰山は猶ひきく、蒼海はなを淺し、せめても平 日の行状を丹青にあらはして、高殿の名徳を晨昏にほめむが為に、二十六段の篇章 をたて、巻を十軸に分事は、円宗には十乗・十境の観門を明て、十界・十如の因果をさと り、浄教には十願・十行の嘉号を持て十即・十生の往益をうと談ず。聖道・浄土の二門、お ほく十をもて規矩とするがゆへなり。さて「慕皈」と題する心は、彼皈寂を恋るが故に、 この後素の名とし侍り。もとより身才学なければ、思のごとく詞花を和唐にかざる 事なく、心頑愚なれば、形のごとく言葉を筆墨にあやつるばかり也。たゞ志之所之偏 に忘恥忘嘲たるにや。于時観応二歳[辛卯]初冬十月卅日書記せり。

抑勘解由小路中納言法印[宗昭]者、亀山院御宇文永七年十二月廿八日、三条富小路辺に 在て誕生[云々]。俗姓は北家にて、氏祖長岡右相府[内麿公]七代の遺孫弼宰相有国卿六代 の孫枝、嵯峨三位宗業卿の末葉、中納言法印宗恵真弟左衛門佐広綱孫也。厳師上綱は 父世を早して一門長者日野中納言家光卿の子となりて、大原二品親王[尊助]の御弟子 として三部・四曼の蕚をもてあそび、五音・七声の曲に達しけるが、隠遁して覚恵房と よばれき。母儀は周防権守中原のなにがしとかや号しける其母なり。倩往事を思に、 宗光朝臣は白河・鳥羽院等の聖代に仕へり、宗業卿は後烏羽・土御門の明時につかヘ て、各文道抜群のほまれをほどこし、儒門絶倫の名を揚て、後鳥羽院には四儒随一た りしかば、上古より当時に至までも、道にふけり、学をたしなむ家と云事を褒美讃嘆 せぬはなかりけり。爰曾祖父の三位信綱卿は家督の儀として祖業をつぎしかば、祖 父広綱に至までは累代余慶によりて、三事の顕要にも浴すぺけれども、力なく俗綱 を二代に隔、梵篋の満月を仰べき身となりしかば、名誉の一流ながくたへぬるとそ うたてけれ。法印出家の後は、兼仲献納の猶于たりし程に、彼卿の号をもて、一門も佗 家もみな勘解由小路法印と称しけるとぞ。

第二段

八九歳両年之間は、天台宗学者に侍従竪者貞舜とて侍しが、遁世して慈信房澄海と ぞ号しける。種姓は猫間中納言光隆卿末流也。彼仁に対して『倶舎論本頌』三十巻を よみけるが、大略暗誦してくらからず。澄海いはく、わづかに十歳の内の人の、習学こ そありとも、さすがに数巻を暗誦せる事は希代の器量かなとて、称美のあまり天台 の秘書、『初心抄』五帖を付属するとて、此書は先師敬日房[円海]自筆本也、随分秘蔵すとい へども、法器の感あり、将来にはさだめて佛家の棟梁ともたり、徳海の舟楫ともいは れ給べき人なればとて、奥書をしてぞわたしける。

第三段

後宇多院御在位弘安五年と云十三歳の時、はじめて松房の深窓を出で、しばらく竹 院の一室に入侍べき縁や有けむ、山門の碩徳といはれし竹なかの宰相法印宗澄を 師として天台宗を学せしめけり。

 慕皈会之事、不可出当寺内之処、有不慮之儀、数年為将軍家之御物。雖然文明十三秊十二月四日、以飛鳥井中納言入道[宋世]依申入事之子細、今度所被返下也。但此内第一第七之巻為粉失之間、同十四年仲冬上旬之比、令書加之者也。尤希代之事歟。可秘々々。
   詞  黄門入道宋世
   画師 掃部助藤原久信

慕帰絵詞  第二巻

第一段

彼法印に随逐して、垂髪ながらやうやく四教・五時の名目をならひ、一家大都の綱網 を得しかば、師範も法器に堪たることをよろこび、童稚も提携に嬾からずしてすぎ 行ほどに、いつしか不慮に転変依違の事出来て、幾の月日をもおくらざるに、離坊の きざみ心ならず、又翌年十四といふ春のころ、寺門南瀧院右府僧正[浄珍]と申すは、北小 路右相府[道経公]の孫、二位中将基輔卿息にや、或所にて彼貴辺にたばかりとられける ぞ縡の楚忽たるもたのまれぬ気して、かつは鬼神の風情とは是をいふにやと不思 議にぞおぼえける。

第二段

さるほどに猶同年の事なりけるに、一乗院前大僧正正房、いかなる便にかこの童形の としのほどにも似ず、はしたなき懸針垂露の筆勢を御覧ぜられけるとて、ゆかしく 思召けるにや、あまたの所縁につきて頻に気装し仰られけれども、厳親承諾し申さ ぬ故は、さのみ所々を経歴もしかるべからざる歟。其上尋常の法には、髪をさげて大 童にて久くある事は本意ならず、たゞとく出家得度をもせさせてこそ心安けれと て、かたく子細を申けるに、或時は又小野宮中将入道師具朝臣[于時侍従]を連々御招引、知 音なれば狂て誘てまいらせなむやと懇切に仰られけるとてヽ其旨を度々伝説しけ れども、なを心づよくぞ難渋申ける。聞及やからは、人により事にこそよるに、是程時 々の貴命をいなみ申はかへりて無礼にもあたり、人倫の法にも背ものをやなどい ひあふもあり。或輩は又さる名家の一族なれば廉をたおさじと、至て古義を存せし むるもちからなき事歟、など申も有けり。しかるに、同七月十二日のことなりけるに、 黄昏の斜なる景を見すぐし、桂月の明なる光を待えて、四方輿をかゝせ、ひた物具し たる大衆を引卒して、既に奪取べき御結構あるよしを仲人ありてひそかに告示す 程に本所にも其用意を致す際、其時も御本意を遂られず、さこそ遺恨にも思食けめ。 さりながらなをなをもあやにくにや其後もたゞひたすらに御懇心あさからざれ ば、親の本懐に任てやがてこそ出家をも遂させめなどこまかに御約束の旨ありけ れば、此上は固辞に拠なしとて、初参あるべきにさだまりぬ。さりながら聊日数の経 けるとて、いとゞ御心元なき由を、しき浪をうつが如に祇候人これ彼をたちかへた ちかへ差上られて責仰られければ、まづ西林院三位法印行寛附弟のよしにて入室 の儀あり。やがて件法印引導にて摂津国原殿の禅房へはまいりけり。其時の門主は 前大僧正房[信昭岡屋摂政殿御息]とぞ申ける。しかるにあへなく十四歳より侍りつる僧正房にも、 すきをくれたてまつりぬ。彼附弟僧正房[覚昭]と申は、近衛関白[基平公]御息也。先師の旧好 も他に異なれば、相続給仕あるべき由仰置れけるに付て、今の門主にも猶御気色快 然にて、和州菅原の幽地を卜て、常には閑適をよみしましましけるにも、光仙殿とて あたまの垂髪共の外に一両人祗侯しける上﨟児の其一にて、心操たち振舞も幽玄 に、容顔ことがらも神妙におぼしめしければ、昼は竟日に、夜は夜を専にして御影の ごとくにつき従たてまつりて、年月を送ける。なかにもよろづにつけて、あぢきなく さすがかたほなる心の底に、おりおりは今生の栄耀もいつまでとのみ思はれ、来生 の資貯はかりそめにも儲がたく案ぜられけるぞ、末の世の法器たるべき芳縁のや うやく萌けるにやとおぼえ侍る。

   詞   三条亜相 公忠卿
   画師  沙弥如心 因幡守藤原隆章

慕帰絵詞  第三巻

第一段

弘安九年十月廿日の夜、十七歳といふに、彼院家にして出家、やがてその夜受戒あり けり。これは孝恩院三位僧正印寛[行寛法印甥]うけたまはりて、とり沙汰とぞきこえし。

第二段

素懐を遂ぬるのちは、行寛法印に相従ひ稽古の一途におもむき、法相を学せらるれ ば、無着・世親・護法論師の跡ををはんと、ほとんど寸陰を競けり。かくて鑽仰やうやく 世上に秀で、名誉しばしば天下にきこゆべかりしかども、蜀都ちからなければ、公請 にもしたがひがたく、龍洞あゆみをうしなへば、人望ありぬべしともおぼえねば、い つしか交衆もものうく、されば苦学も勇なくぞおもひける。さる程に、おりおりは門 主に身のいとまを申けれどもゆるされず、不諧の故に稽古のかたとそ退屈すとも、 離寺の条はしばらく堪忍すべきよし頻に宥おほせられけるとなん。これによりて、 遂業の沙汰などにもをよばず、直に律師に挙任せられければ、別道の僧綱の儀にて ぞなを寓直しける。

第三段

如信上人と唯円大徳

奈良より偸閑に退出の事ありしついでにおもふ様、たとひ本寺の交衆は抛がたく とも、出離の要道にをいて望を断ぬ、をのれが限量あゆみをうしなへばなり。西方の 欣求はたのむにたれり、底下の凡夫にいたるまで愚をすてず、ねがふらくは、南无に たよりあればなり。但わが法相宗は五性各別の義をたて、諸法性相の釈をむねとし て決判きびしき家をや。おほかた名を法相宗にかけながら、肩を浄土門にいれんと す、交衆のため外聞時宜いかゞなどためらひおぼゆるに、且はまづ例証を外にもと むべからず。宗家には千部の論師といはれたまふ世親菩薩すら、もはら無碍光に帰 命して安楽国に願生すとこそつたへうけたまはれ、ましてやいはん、我等凡夫おも へば出離のはかりごとにはこれこそ所愛の法なれ、機教覆載し、函盖相順して加様 におもひ萌もしかるぺき宿縁か。いまきく、佗門にもあらで自宗にをいてまぢかき ためしあるかな、さしも明匠といはれし三蔵院範憲僧正すら、弥陀をたのみて昼夜 に称名を専にし、朝夕に数遍を励けりと[云々]。かしこかりけり、所詮外相の進退によ るべからず、内心の工案こそあらまほしけれとて、弘安十年春秋十八といふ十一月 なかの九日の夜、東山の如信上人と申し賢哲にあひて釈迦・弥陀の教行を面受し、他 力摂生の信証をロ伝す。所謂血脈は叡山黒谷源窓(空)聖人、本願寺親巒(鸞)聖人二代の嫡資 なり。本願寺祖師先徳、俗姓は日野宮司啓令有範の息男、真諦は山門青蓮院慈鎮和尚 の御弟子なれば、たゞ浄土一宗をきはめたまふのみにあらず、本宗は又御師範黒谷 の先蹤に相同く一家天台の源底をうかゞひ、上乗秘密の門流をも酌たまひけり。し かれば真につけてもやむごとなく、俗につけてもいやしからざる事をや。[委見于彼別伝]将又、 安心をとり侍るうへにも、なを自他解了の程を決せんがために、正応元年冬のころ、 常陸国河和田唯円房と号せし法侶上洛しけるとき、対面して日来不審の法文にを いて善悪二業を決し、今度あまたの問題をあげて、自他数遍の談にをよびけり。かの 唯円大徳は鸞聖人の面授なり、鴻才弁説の名誉ありしかば、これに対してもますま す当流の気味を添けるとぞ。

   詞  一条前黄門実材卿
   画師 摂津守藤原隆昌

慕帰絵詞  第四巻

第一段

慈信房善鸞の逸話

同三年には、法印そのとき廿一のことにや、本願寺先祖勧化し給ふ門下ゆかしくお ぼゆるに、さることのたよりあることをよろこびて、しばらくいとまを南都の御所 へ申賜て、東国巡見しけるに、国はもし相州にや、余綾山中といふ所にして風瘧をい たはる事侍るに、慈信房[元宮内卿公善鸞]入来ありて、退治のためにわが封などぞ、さだめて験あ らんと自称しあたへんとせらる。真弟如信ひじりも坐せられけるに、法印申さく、い まだ若齢ぞかし、其うへ病屈の最中も堅固の所存ありければ、おもひける様、おとさ ばわれとこそおとさめ、この封を受用せん事しかるべからず、ゆへは師匠のまさし き厳師にて坐せらるれば、もだしがたきには似たれども、この禅襟としひさしく田 舎法師となり侍れば、あなづらはしくもおぼえ、しかるべくもおもはぬうへ、おほか た門流にをいて聖人の御義に順ぜず、あまさへ堅固あらぬさまに邪道をことゝす る御子になられて、別解・別行の人にてましますうへは、今これを許容しがたく、粛清 の所存ありければ斟酌す。まづ請取てのむ気色にもてなして掌中にをさめけり。そ れをさすがみとがめられけるにや、後日に遺恨ありけるとなん。この慈信房は安心 などこそ師範と一味ならぬとは申せども、さる一道の先達となられければ、今度東 関下向のとき、法印常睦に村田といふあたりを折節ゆきすぎけるに、たゞいま大殿 の御浜いでとて男法師尼女たなびきて、むしといふ物をたれて、二三百騎にて鹿島 へまいらせたまふとて、おびたゞしくのゝめく所をとおりあひけり。大殿と号しけ るも、辺土ながらかの堺なれば、先代守殿をこそさも称すべけれども、すこぶる国中 帰伏のいたりにやと不思議にぞあざめける。かゝる時も他の本尊をばもちゐず、無 礙光如来の名号ばかりをかけて、一心に念佛せられけるとぞ。

下野国高田顕智房と称するは、真壁の真佛ひじりの口決をえ、鸞聖人には孫弟たりながら、御在世にあひ たてまつりて面受し申こともありけり。或冬の事なりけるに、炉辺にして対面あり て、聖人と慈信法師と、御顔と顔とさしあはせ、御手と手ととりくみ、御額を指合て何 事にか物を密談あり。其時しも顕智ふと参たれば、両方へのきたまひけり。顕智大徳 後日に法印に語示けるは、かゝることをまさしくまいりあひてみたてまつりし、そ れよりして何ともあれ、慈信御房も子細ある御事なりと[云々]。是をおもふに、何様に も内証外用の徳を施して、融通し給ふむねありけるにやと符合し侍り、天竺には頻 婆娑羅王・韋提夫人・阿闍世太子・達多尊者・耆婆大臣等の金輪婆羅門種姓までも、あひ 猿楽をしてつゐには佛道に引入せしめ、和朝には上宮皇子、守屋大連を誅伐したま ひしも、佛法の怨敵たりし違逆の族を退むがために、君臣の戦におよびしにいたる までも、みな佛の変作なれば、巧方便をめぐらして、かへりて邪見の群衆を化度せん としたまふ篇あれば、彼慈信房おほよそは聖人の使節として坂東へ差向たてまつ られけるに、真俗につけて、門流の義にちがひてこそ振舞はれけれども、神子・巫女の 主領となりしかば、かゝる業ふかきものちなづきて、かれらをたすけんとにや、あや しみおもふものなり。

第二段

かくて坂東八箇国、奥州・羽州の遠境にいたるまで、処々の霊地を巡見して、聖人の勧 化のひろくをよびけることをも、いよいよ随喜し、面々の後弟に拾謁して、相承の宗 致を誤なきむねなどたがびに談詻しける程に、はからざるに、両三年の星霜をぞ送 ける。さて正応すゑのとし、陽春なかばの比にや、ふたゝび華洛にかへりて、まづこの よしを南都に申ければ、門主よろこび仰られて、いそぎ帰寺をぞすゝめたまひける。
しかるに行寛法印入滅のよし、かつがつしめされければ、多年提撕の恩もわすれが たく、浮世変滅の悲もいまさら肝に銘じけるまゝに、師匠の再会、死生みちへだゝり ぬれば、院家の帰参もなにかせん。さだめなき世には、いつまでかさすらふべきと案 ぜられつゝ、たちまちに南京本寺の厳砌をのがれて、いまよりはひたすらに、東山大 谷の禅室をのみぞ、しめ侍ける。

   詞  一条前黄門 実材卿
   画師 摂津守 藤原隆昌

慕帰絵詞  第五巻

第一段

唯善との宿善論争

鎌倉の唯善房[1]と号せしは、中院少将具親朝臣孫、禅念房[2]真弟[3]也。幼年のときは少将輔 時猶子とし、成人の後は亜相雅忠卿子の儀たりき。仁和寺相応院の守助僧正の門弟 にて、大納言阿闍梨弘雅とて、しばらく山臥道をぞうかゞひける。いにしへ法印と唯公とはかりなき法門相論の事ありけり、

法印は、往生は宿善開発の機こそ善知識に 値てきけば、即信心歓喜するゆへに報土得生すれと[云々][4]。善公は、十方衆生とちかひ 給へば更宿善の有無を沙汰せず、佛願にあへばかならず往生をうるなり、さてこそ 不思議の大願にては侍れと[5]

こゝに法印重て示やう、『大無量寿経』(巻下)には

「若人無善 本、不得聞此経、清浄有戒者、乃獲聞正法、曾更見世尊、則能信此事、謙敬聞奉行、踊躍大歓 喜、憍慢弊懈怠、難以信此法、宿世見諸佛、楽聴如是教」[6]

ととかれたり。宿福深厚の機はす なはちよくこの事を信じ、無宿善のものは憍慢・弊・懈怠にして此法を信じがたしと いふことあきらけし。随て光明寺和尚(礼讃)この文をうけて「若人無善本、不得聞佛名、 憍慢弊懈怠、難以信此法、宿世見諸佛、則能信此事、謙敬聞奉行、踊躍大歓喜」[7]と釈せらる。 経釈共に歴然、いかでかこれらの明文を消て宿善の有無を沙汰すべからずとはの たまふやと。

其時又唯公、さては念佛往生にてはなくて宿善往生と云ぺしや、如何と。[8]。 また法印宿善によて往生するとも申さばこそ宿善往生とは申されめ、宿善の故に 知識にあふゆへに聞其名号信心歓喜乃至一念[9]する時分に往生決得し定聚に住し 不退転にいたるとは相伝し侍れ、これをなんぞ宿善往生とはいふべき哉と。そのゝ ちは互に言説をやめけり。伊勢人道行願とて五条大納言邦綱卿逡流なりしは、真俗 二諦につけ和漢両道にむけてもさる有識の仁といはれしが、後日に此事を伝聞て 彼相論のむねを是非しけり。伊勢入道詞云、北殿の御法文は経尺をはなれず、道理の さすところ言語絶し畢ぬ。又南殿の御義勢は入道法文也とてあざわらひけりと[云 々]。昔は大谷の一室に舅・甥両方に居住せしにつきて南北の号ありければ、行願はか くいひけるにこそ[10]

第二段

永仁三歳の冬応鐘中旬の候にや、報恩謝徳のためにとて本願寺聖人の御一期の行 状を草案し、二巻の縁起を図画せしめしより以来、門流の輩、遠邦も近郭も崇て賞翫 し、若齢も老者も書せて安置す。将又往年にや、『報恩講式』といへるを作せり。是も祖 師聖人を歎徳し奉れば、遷化の日は月々の例事としていまもかならず一座を儲て 三段を演るものなり。

第三段

すでに人聞の栄耀をば耳の外にとをざかり、林山の幽閑をのみ心の中にたのしみ ければ、極楽の往生をねがひて念佛転経の営をもはらにすといへども、先哲の往跡 をしたひて煙霞風月の興をもおりにふれては心にぞそめける。凡日野は宦学の両 事を以て顕職にも居し温宦にも浴して身を立る家也といふ事、ほゞさきに見たれ ども、兼ては和漢の両篇をも相並てたしなみ公宴にもしたがふ条は代々の芳躅勿 論なり。しかりといへども三十一字の和語には猶心をいたましめ、幼稚のむかしの 日より老体のいまの年にいたるまで、春の曙秋の夕につけても興を催し、月の夜雪 の朝を待ても宴を設け、時境節をたがへぬ心づかひにて、みづからもたちゐにつけ て言の数おほくつもり、賓客の来て志を同するもしたしきうときその交たへずな むありける。かゝりければ正和四のとし『閑窓集』といふ打聞をするに、思のほかに 彼撰歌仙洞にまいりて叡覧にをよびしより、諸所にきこえて美談せらる。上下二帖 にわけて千首廿巻とせり。その集の奥書に書留る蓄懐の歌にいはく、

  かずならで風の情もくらき身に、ひかりをゆるせ玉津島姫。
  あつめをく和歌の浦わの玉ゆへに、なみのした草あらはれやせむ。

曩祖相公[有国卿]「幼少児童皆聴取、子孫永作廟門塵」と詩をつくりて北野聖廟にたてまつ りけるに、朝廷につかへけむ家をいでゝ佛道におもむく身となりにたれば、藤の末 葉の片枝までも、いまはをよびがたく、荊の下露の一したゝりともいひがたきに、さ すがなを朽ざる曩古のことのはをしたひて新なる霊神によみてまいらせけるとて、   わすれじなきけとをしへし二葉より、十代にかゝれるやどの藤波。[入閑窓集]

   詞  六条前黄門 有光卿
   画師 沙弥如心 [因幡守藤原隆章]

慕帰絵詞  第六巻

第一段

元亨初年沽洗九日、宿願によて法楽の為に詩歌を勧てかの廟門にたてまつりしに は、親王権女より月卿・雲客・児童・僧侶にいたるまで、をのをの詩伯十九人、歌仙廿二人 [云々]。親疎みな貴重して庶幾し、和漢ともに相兼て結縁するもありけり。歌は三首を 題し詩は四韻を賦す、凡数輩の英傑をえらび両篇に序者を設き。ことさら披講をと げむとては面々廟壇に詣で、当座にも歌をよみ詩をつくり侍しなり。その時の詩哥 にいはく、

 春日陪北野聖廟同賦春色属松壖
  詩一首[題中取韻]

                  右少弁有正[于時前甲斐守詩序者] 
請看麗色属芳辰 沙壖翠松久視春 累葉垂憐清■志 対花禱運散班身
歳華礼旧文章主 天暦以来鎮座神 神鑒無私冥祐白 偏凝明信備蘩蘋
                  刑部卿顕盛[于時前宮内少輔]
料識霊壖松色久 陰陽造化属多春 廟庭梅信任嵐問 社樹栄生逐日新
倩筭秊華思垂跡 始従天暦則同塵 強而猶仕散班質 可愍運■偏仰神
                  法印宗昭
宜矣双松蒼翠影 載陽春色属沙壖 巫山景気霞籠夕 伍廟瞻望花発天
明徳月朧仙樹下 霊威風暖瑞籬前 意端願素神垂愍 祖跡未忘陪宴筵
                  法印光玄[于時律師歌序者]
韶春景気属何処 松色添栄在廟壖 勁節抽誠陵宿雪 貞心運歩送芳年
神林風響花閒脆 巫嶺雲膚霞裡連 愗綴蕪詞陪宴席 憶其曩跡献詩篇
                  法印慈俊[同前]
景色属何春到処 此時興趣在松壖 頌祗堂杪霞中妙 巫女台林雪後鮮
柳陰瑞籬疑偃蓋 鶯歌高廟自和絃 尊崇曩跡存其志 尤仰神恩思宿縁

 春日陪北野聖廟同詠三首和歌
  山  花            法印宗昭

身はかくて春のよそなる山ざくら、なにと心の花にそむらん。

  帰  雁

おぼつかなあまとぶ雁のたまづさの、かすみにきゆる雲のうはかき。

  神  祇

ふた代こそ跡はへだつれ神がきや、ちりとなりこしかずにもらすな。

                  法印光玄

あらしふく山また山のをのづから、はななきかたも花のかぞする。
たちまよふ霞のはてはこしの海の、なみもひとつにかへるかりがね。
つかへけむ跡こそたゆれゆふだすき、かくるたのみはいまもかはらず。

                  法印慈俊

うつろはむのちのかた見の峯の雲、しばしも花にたちなはなれそ。
あまつかり雲地はさすがたどるらむ、はなにわかるゝ心まよひに。
かずならぬ身をうらむともあはれみに、もらさむ神の名こそをしけれ。

 一門他家の緇素、自余の懐紙等並[並]社参の時の当座の短冊詩歌、繁多の閒これを載にあたはず。

第二段

昔は蓬屋に桟敷を構侍りしかば、日野故亜相ひんがし山の花林瞻望のためとて、法 印坊に人来ありてくるゝまで交遊、其時しも向寺速成就院の鐘楼の下花林の閒よ り入あひの声のきこえ侍るを当座の景気境に叶へる事よとて衆人みな感興す。す なはち尊者納言出題あれば、続哥面々同題にてよめる。

     花閒鐘            入道前大納言[俊光卿于時前中納言]
 くれかゝる梢の空にひゞくなり、はなよりいづる人あひのかね。
                    入道大納言[資名卿于時兵衛佐]
 くれやらぬ夕日のかげは霞こめて、はなに木たかき入逢の鐘。
                   法印頼宜
 いとはしきかぜのよそなる花ざかり、またをとたてゝいりあひのかね。
                    法印宗昭
 ながむとて花にくらせる程しるく、いりあひのかねを木の閒にぞ聞。

  此外の人数畧する所なり。

第三段

いにしへ秋の比あづまの方へ斗藪しけるに、松島にまうでゝのち、年へて又事のた よりありて人にともなひてみちのくにゝ下けるに、なをゆかしくてそのあたりに やどとりて面々乗船しつゝ夜のふくるもしらず浦々島々漕渡て立帰けるに、

  またもみついまはいつをかまつしまや、身さへをしまに月ぞかたぶく。
   詞  六条前黄門有光卿
   画師 沙弥如心[因幡守藤原隆章]

慕帰絵詞  第七巻

第一段

何の年記といふ事はいとさだかならず、数奇のあまりに催されてかたへの人など にさそはれ伴にもおよばず、たゞ一身都邑を出、鴑駘に鞭て紀州玉津嶋明神にまい りて、先法施をさゝげて後に詠吟にをよびける独十首の和語とてきゝ侍し其中に、

吹上浜といふ題にて、

  又やみむわすれもやらぬ浦風の、ふきあげのせとの秋のおも影。
     和哥浦
  わすれじなわかのうら波立かへり、心をよせし玉つしま姫。

第二段

貞和二年丙戌閏九月朔日の事なりしに、そのいにしへ和州菅原御所に陪てあそび しことども、老の後はいとゞ忘る間なく、又家を出にし身なれども、祖神の瑞籬、本寺 の旧棲もゆかしく、南都に下向、先寺々社々一々に巡礼せしに、春日社の宝前にて

  春日山我一かたのあとたゝで、神わざしらぬ身をしこそとへ。

これより彼御山庄へまいりければ、周甸に枝をまじふる紅葉が葉もろくなり、秦郡 に叢を混ずる黄花もはなかしげ、又中にも御苑につゞく数宇の渡殿も軒端廃て四 壁なけれども柱はたてり。黒木をまする竹屋の泉殿も水路たえて、奇石あれども苔 のみむして見しにもあらねども、むかしに似たる風流いまにのこれる地形、心をい たましめずといふことなし。とかくして日も暮なんとす。もとのやどへ帰べくもな くて、猶貴門のほとりある竹中の菴室の有にたち入て其夜をこめ侍り。而に黄経に 歩をはこべば、砌にあたれる双松はいにしへをのこす風琴の音を弾び、藍渓に志を よすれば、宿をへたる孤菴に夢をやぶる月杵の怨をつたふ。先ひるの程所々瞻望す るに、砌閒をもみぢのちりうづみつゝをしはかりに猶こえて、けしからぬ荒蕪荊蕀 のありさまなるにつけても、すゞろに哀をそへつゝすこぶるおなじこと葉がちな る様なれども、思つゞくるにまかせてよめりけるとおぼえ、哥のかずも世にこれお ほけれども、しるしおきけるをわざとはたらかさずして書載侍る、

  ふまで行かたもやあるとをしめども、ちりてぞうづむ庭の紅葉々。
  あれはてゝ見し世にかはる菅原や、ふしみの夢になるむかしかな。
  老はてゝ八十の坂にむかふまで、いきて昔の跡をこそ見れ。

其夜のたび所にては、

  夢さむる老の枕にきこえけり、うちおどろかすあさのさ衣。
  なき人の面影のみは身にそへて、なさけをかくるをとづれもなし。
   詞  黄門入道宋世
   画師 掃部助藤原久信

慕帰絵詞  第八巻

第一段

当年神無月中の六日、迎講結縁のために大原の別業へ越侍りしに、勝林院五坊に尋 ゆきてしばらく休息しけり。この五坊といふは、池上闍梨の御旧跡、顕真座主の発起 にて楞厳院安楽の谷をこゝにうつして新安楽となづけられけるとぞ。件坊は五名 内第一番の号なれば、性智房とて今の一和尚円覚居住し侍るにや、それより立帰と きかの障子にかきつけをきける、

  すまばやとこゝろとゞめて山ふかみ、しぐれてかへる空ぞものうき。

第二段

同歳臘月中旬の侯、■内にをいて一室をかまへ竹杖菴となづけて、辺畔の塵外に擬 して方丈の檐端をさゝげつゝ常には間居せり。そのいほりの障子に書貽し侍る詠 哥云、

  ながらへて世のうきふしにたへもせし、竹のいほりをなにむすぶらむ。

第三段

おなじき三年は丁亥にあたる八月一日水精の念珠を厳師の法印にをくりつかは すとて、

                   法印慈俊
  君のみぞかぞへもしらむ崑崙の、名もしら玉のかずをつくして。
    返しに
  崑崙のたまのひかりもわがあとに、のこらむ君が身をぞてらさむ。

さきの数珠のかへしに蔡紙をつかはすとてそへける、

  おいまじるよもぎが嶋の白麻は、名におふ不死の君がくすりぞ。

つぎのとしは貞和箸雍困敦の暦にや、きさらぎ下の四日事とぞ櫻を花瓶にたてゝ 部屋にをきつゝ、

                   伯耆守宗康[于時大夫童名光養]
  ふく風にしらせじとたてゝをく花に、ちらぬをひさにみむとおもへば。

とよみて花枝につけたるをみて、

                   法印

  たをりをく花のあるじの行末は、さかゆくべしと春ぞしるらむ。
  たのむぞよ老木の花はちるとても、さきつゞくべき万代の春。
   詞  少将為重朝臣
   画師 沙弥如心[因幡守藤原隆章]

慕帰絵詞  第九巻

第一段

貞和四年卯月初比、法印都を出で聊路次に逗留のことありて、おなじき中の四日、年 来ゆかしくも見まほしく思ひわたり侍る丹後の海、橋立に赴に、みちに雲原といふ 深山の中にて郭公をきゝて、

  はるばると葉山のすそにわけいれば、木しげきかたになく時鳥。

同日かの国府に下着しけるに、人々さそひ伴にもおよばず、少々わかき僧など相具 して心もとなさのあまりに、まづ成あひの麓大たにの辺巡見し侍れば、寺僧に何の 律師とやらむきゝしかども忘却し侍り、僧形ふと来て道をきり行むかひ、三遅風情 儲けり、けしかる便宜の堂舎の傍へ引入て種々にもてなしければ、事のほかになさ けなさけしく覚て、次の早晨に藤花書たる扇に張箱体の物とり居て、いづこよりとも なく遣侍とて。

                   散位宗康[于時童形光養是也]
  きのふこそおもひもかけねふぢ波の、この花さかば後もわすれじ。

事々しげに松本房兵部律師尭暹と位署名字書載て返しに、

  おもひきや心にかけしふぢなみの、わすられがたき花をみむとは。

その日は雨にさはりて帰路にもおよばず、又見べき本意の成相寺にもいまだ臨ま ず、仍次の十六日に彼寺へ詣で堂の正面の舞台の様なる所の柱に書付侍ける法印 詠歌、

  雲のなみいくへともなきすさきより、ながめをとおす天の橋たて。
                   州縣宗康
  をとにのみきゝわたりつるすゑ有て、浪まにみゆるあまのはし立。

この寺の体たらく、後に■嶺峨々として塵土聞をへだて、前に蒼海漫々として雲濤 眼にさへぎる。万物こゝに生て繁栄をのづから備れり。別当坊は金剛薩埵院となづ けて厳麗を宗とし奇玅を先とす、富有潤沢にして独歩世会せり。堂舎は餝に珠玉瓔 珞をもてかゞやかし、床席は用に綾羅錦繍を装てことゝす。こゝに垂髪を一両人相 伴侍れば、都よりなどきゝて心悪や思けむ、寺務なにがしの僧都といふ七十有余に 闌たるが、まことに威徳たうとく体法かしこき老者出会て、ひたすらやがて請じい れ、茶をけたみ八珍の肴をまうけ三清の酒をすゝめつゝ、同宿共もその事となく房 中を走回り、すゞろに庭上に倒伏ておかしきさまに貴寵すれば、そゞろはしさかぎ りなし。山上をとかく逃出て面白く速望しつる串戸ぞ、当所名誉の骨目、勝地遊覧の 肝心と思へば、おなじくはまぢかくて見まほしさにこゝろざして道をへ麓へくだ る。それまでは路次仮令四五十町許もや有らむと申す、そのあひに大谷といひてき こゆる迎講のところに到れり。此所も誠にゆゝしげにみえて佛閣梵宇棟をならぺ、 第宅松門巷にあふる。こゝを通て嶋崎に程なく行つき、しばらく逍遥して三酌に及 び万年を延に、後をはるばると顧ば、過つる大谷に当てかすみたる江路に船一二艘 ありとみるところに、酒盛の砌、串戸に漕付けり。誰なるらむと思へば、昨日の朝扇を をくり遣侍りし尭暹律師とぞ見なしける。同宿五六人相伴て玉樽を随身、銀觴を懐 中するもあり、或僧は山臥筒をぬきいだし、或族は田楽節をうたひかけつゝ垂髪を 賞翫しければ、思の外なる当座の遊宴をそへて面白ともいふばかりなし。若輩共と りどりに歌笛の芸を施し舞曲の能を尽す。境に叶へる笛のねゝたかく、哥の声こゑ すみ、廻雪の衫を翻し、易水の曲を詠ず。この松樹の底、蘋蘩の湄なれば、神に徹りきゝ にめでゝ、天人もや来下すらむ、若又冥衆などもや影向し給ふらむとまで覚て心辞 も覃れず、肝腑に銘ぜしめけり。さる程に既に日映もすぎ晡時になりければ、用意し 儲たる二艘の舟の迎者ども、あながちに相待と聞ば、さしも避がたき座席なれども、 こゝを立て今夜のとまり宮津をさしてぞゆく。ありつる僧等しばしは汀に船をと めて、早暮の興をおしみ余波の袖をしぼりながら、廻浦を凌ぎ長流を超つゝ、さのみ は争その面影ものこるべき。これは彼津へ行程をそしと、海路に舟を呼けれども、な を睦地に馬を扣させて笙の八音をふき哥の六義をのべ、言を形し情を動すこと、筆 につくしがたく巻にしるしがたし。からくして日をかぎりに衝黒に至て宮津へは 落付侍にけり。

第二段

なを第六年庚寅の孟春廿一日、十三歳にして身まかれりし光長童子、初七日にあた るあした、雪のいたくふりけるにも、をりにふれ事にふれつゝ人々恋慕しあふなか に隆存阿闍梨一首をよみて出しければ、当座にをのをの和答し侍りし。次第不同

                    大法師隆存
  跡つけむ人は昨日のわかれにて、こゝろのまゝにつもるあは雪。
                    筑後守平胤清
  とはるべき人はあとなく成ぬるに、たれゆへかふるけさのあわ雪。
     法印よめる
  あけくれは今や今やとおもふ身を、のこしをきてもきゆるあわ雪。
                    法印慈俊
  淡ゆきのきゆるより猶あだなるは、あとをもとめぬいのちなりけり。
                    藤原宗康
  あはれやなあわ雪よりも消やすき、人の命ぞ跡かたもなき。

第三段

かのえ寅の歳の二月日、改元して観応と号するに、かよひところ西山久遠寺にまふ でつゝ、としごろ同宿の禅尼の墓所にて心しづかに佛像に向ひねむごろに名号な ど書て経木のうらに恋慕のこゝろざしをしるしつけ侍ける。

  こゝにのみ心をとめし跡ぞとて、きてすむわれもあはれいつまで。
  おりにふれ事につけつゝきし方を、老のこゝろにわすれかねぬる。
     已下は画図を略す

暦応元載抄秋二十二日、常楽寺法印[光玄]むろにて読侍る当座三十首のなかに、

                      老法印
     原月
  あだなりなしめぢがはらの秋かぜに、させもみだれて月ぞこぽるゝ、
     暮秋紅葉
  秋ははやくれなゐ深くたつたひめ、もみぢの錦きてやゆくらむ。

同二のとし八月十五夜良辰に大谷のいへにて講じ侍る哥中に

     閑庭月
  よもぎふのしげるを月のかごとにて、露わけわふる影のさびしさ。

其歳暮に寄木述懐を題にしてよめる、

  七十地に身はみつしほのすゑの松、このとしなみもまたやこえなむ。

尚三の年庚辰の春やよひはじめつかたにはいさゝかまぢかき城外に思立侍に同 九日の事なりけるとぞ、国吏宗康そのとし大夫とて八歳になり侍を都におもひを きければ、おなじくともなひ下ける偕老の禅尼、

  ながき日をいかに忍てくらせども、春しも人の恋しかるらむ。
     返して            法印
  こひしさはおとらぬものを長日に、おもひくらすと人のいふらん。

件月の中旬にたよりをえて末寺の照光寺へ越侍る。次に彼寺僧障子の色紙形を所 望し、ことさら筆を染てあたふべきよし申ければ、ふるき詩哥など書侍るに、曩祖の 御作に「詞林功少難凝露、栄路運遅被咲花」といふ詩を和して書侍る哥とて、

  ことの葉の露もろくなるくらゐ山、のぽりかぬれば花もはづかし。

彼大歳大荒落の季夏九日といふに、新熊野瀧後の中納言禅師、いまだ光徳と号せし 童形にて備前国に下向のあひだ、季札をのぽせ侍る返しにつかはしける、

                    老法印
  ながらへば又といひてもなにかせむ、老の命のたのみなければ。
     返事[後時送之云云]      伝灯満位房宋
  いくたびかなをもあひみんちよふべき、君がよはひのかぎりなければ。

年来竹馬の比より連枝のごとく申かよはす聖衆、来迎院長老[空恵上人]のもとより、なやむ こと侍がこゝろよからぬなどしめす鴈書のついでに二首を送りけるに、

  けふまではともなひきつる老のみち、われさきだゝばあはれとやみむ。
  なれきつる人のなごりのおほえ山、にしにいく野のみちまでもとへ。
     返事             寺務法印
  むかしよりともにおいきて別ぢも、たれかさきにと涙をちけり。
  うき事はさぞなこの世におほえ山、こえていく野の西もかはらじ。

一条前源黄門[雅康卿]亭の七百番の歌合に、

     落花
  ちる花にたぐふなみだのもろさこそ、おいぬる春のしるしなりけれ。

又すぎにし貞和二戌の歳上冬晦、日野弁入道[房光朝臣法名明寂]家の月次三首歌の中に、

     冬月
  しぐれつる雲ものこらぬたかねより、あらしに出る月ぞさやけき。
     初逢恋
  さこそ又おもひしづまめ恋々て、あひそめ河のふちせかはらは。

そのころ壬生宮内卿入道冬隆朝臣もとへ歌の点のために文をつかはし侍れば、こ ぞの八月に卒しぬと答とて、むなしくもち皈けるはかなさ、今更あはれにかなしく て、すなはち経の料紙に用侍らむとてかの消息にかき副ける大和尚位歌、

  なき跡としらでをくるもはかなきは、ありしまゝかとたのむ玉づさ。

おなじき三年二月に身まかれりし入道黄門[雅康卿]皈泉の跡を訪はむとて前源相公 [雅顕卿]法印にすゝめし一品経歌に、『法華経』法師品「吾滅後悪世、能持是経者」の心を

  にごる世ののりのながれをむすぶ手の、しづくまでをもいかゞもらさむ。

その年の重陽に頭左中弁[時光朝臣于時蔵人左衛門権佐]もとより送ける、

  しらぎくの花もてはやす君がやどよ、さかへむ千代のすゑぞ久しき。
     返事             法印昭公
  いとゞなを君がさかへときくの花、かさねてちよのすえひさしかれ。

小倉相公羽林[実名卿]勧侍る『法花』勧持品に、

  身はかくてあだしうき世にさすらへど、こゝろまことのみちにいりぬる。

「心外无別法」を題して、

  なにとたゞはじめもはてもなしときく、心ひとつをおさめかぬらむ。

「佛心者大慈悲是」のこゝろを、

  あはれみをものにほどこす心より、ほかに佛のすがたやはある。

「生死涅槃猶如昨夢」をよめる、

  かはらじな弥陀の御国にむまれなば、昨日の夢もけふのうつゝも。

法印往年む月のはじめ賀章を送ついでに亜相拝任あるべき華祝をそへける家督 への歌、

  のぼるべきわが家きみのくらゐ山、はるのひかりの日野ぞかゞやく。
     返事に           入道前大納言[俊光卿于時大宰権帥]
  この春のひかりは日野にあらはれて、ゆかりの草も時にあふらし。

宗匠二条入道前亜相[為世卿]『言葉集』を家に撰せしは、勅撰に擬して且はのぞまむ輩は 向後作者の下地たるべしなど、御所さまも御沙汰あるよしきこえしかば、その打聞 に法印加り侍ける、

  ふゆきぬといふよりやがて神無月、老の涙ぞまづしぐれける。

ちかごろ『藤葉集』とて小倉入道前亜相[実教卿]撰する打聞の雑春部に入哥、

  山の葉にちかきよはひやくらべまじ、くるゝやよひのけふの春日に。

これも同『集』雑下に載り侍る、

  つたひくるかけひのすゑをせきためて、水に心をまかせてぞすむ。

彼亜相のもとへ法印或土産を送事侍る返状にそへて遣けるとて、

                   入道前大納言[実教卿]
  おもはずよおいの命のながらへて、いま又人のなさけみむとは。
     返事            法印宗昭
  きえかゝる露のいのちのうちにまた、このことの葉をみるぞうれしき。

ひととせ貞和己丑のとしみな月一日母儀中陰に故入道中納言[雅康卿]後室もとより 消息して黄門にわかれてもはや三年になり、高堂にをくれてもすでに七日はすぎ ぬ。つながぬ月ひのうつりやすさ、ことにおやの御なごりのみすゞろに悲くて、かつ は都護嫡男頭弁[宗光朝臣]に哭せしを、青蓮院二品大王、御なさけふかくも世のためしをも てねむごろに慰つかはさるゝとき送見せしめ給ふ慈鎮和尚御記には、建久五年大 理兼光卿最愛無双の子息基長をうしなひて、なげきの涙川にをぼれ日野の別庄に こもりゐ侍るかの卿もとへ、和尚たびたびの御音書ありける先蹤を御目にふるゝ あひだ黙止がたくてこれを遣さると[云々]。その一巻に副らるゝ竹園御哥賜て日野 前亜相申ける御返事、むかしいまの御贈答までもいみじくをよばぬ身ながら、ふと 心に浮などゝてあまた歌を読て厳親老法印に送侍ければ、誠かの父子の哀傷もあ ひ同くこの母女の別離も異さらにやと身にも知られて、いとゞ涕泣にたへぬ中に も、家門今古の勝躅をおもふに宦学眉目の美談にあらずや、彼後室詠哥のなかに

  さめやらぬ三とせの夢のうちに又、ゆめよりゆめをみるぞ悲しき。
     法印返事
  夢ぞとはおもひなせども別にし、つらさばかりは猶うつゝかは。

この詠篇を見かの頭弁ことを思ひてそへ侍る、

                   法印慈俊
  とをからぬあはれにたえぬみな月に、うきわかれそふ比ぞかなしき。

おなじき年には法印満八十なりしに、いさゝか病のゆかに臥侍る事ありしとき、お もひつゞけゝるとて、

  かぞふれば釈迦と祖師とのよはひまで、いける八十の身さへたうとし。

  うごきなき心をもとのあるじぞと、しるこそやがてさとりなるらめ。 この和哥どもはすこぶる狂言綺語なればしるし載るにあたはざれども、かつは讃 佛乗の因、転法輪の縁ともいへるうへ、亡者あさゆふ翫しことゝおもふばかりを存 して、あながちに年月日時の前後をまもらず、自他僧俗の官位をたゞさず、たゞ見及 分を以て便宜能に随てその段々翰にまかせこの処々墨をつく、書ちらせしは定て しどけなき事ぞ多侍らむ。

  詞   桓信阿闍梨
  画師  摂津守藤原隆昌

慕帰絵詞  第十巻

第一段

いにしへ元弘初暦冬中下旬の事歟、大和尚六十二にて丹波国に一人の僧侶清範法 眼と号するあり。三宗のうち教外別伝の宗門に入り、かねては『法華』読誦の懇露を 凝しめけり。その性岐嶷にして一代佛教の腑蔵を捜識ばやと心にかけ、無量内外の 典籍を博覧せんと志をはこびつゝ、採用するに智勇口弁にして詞林に花をさかせ、 清談するに讃義妙述にして学海に潮のたゝへたらむもかくやと、かつは尾羽そろ ひたる鳥のそらを翔におそれなく、肢爪かたき馬の石を蹋めども、をそくれざる様 に、たゞよろづに数奇ほけ侍るあひだ、尊儀の座下に常随給仕の往日、宿因純熟し善 縁相応せるにや、彼法眼同心して頓教のひとつ乗ものにこそ伴たてまつらめと、季 諾のあまり決了のうへは、三経一論を伝受し五部九巻を提携す。其外本願先徳集記 したまふ『教行証』六帙の大綱をも請益するのみにあらず、をりをり所望しければ、 かの歳序に当てロ筆せしめて『ロ伝鈔』と題する三帖の文を製作す。これは鸞聖人 より随分の禀承、如信御房受持の法要たるに依て授与[云云]。

而又其後かさねて申羞 侍とて、建武四年九月日春秋六十八にして『改邪鈔』といふ一巻書をつくれるは、末 寺の名をつり当流に号をかる花夷のあひだ貴賎のたぐひ、大底僻見に任して恣に 放逸無慚の振舞を致し、邪法張行の謳歌に就て外聞実義しかるべからず、ことさら 本寺として禁遏厳制のむね、条々篇目をたてゝ是も口筆せらる。且はもはら向後傍 輩のために張文に准擬する所也[云云]。

さてこの法眼草創し侍る丹州の佛閣をも本 願寺寄附の儀として毫摂寺と題額の号を申なづけ、おなじく筆生の字を書くだし けり。就中多年の懇念を謝し将来の素意を表せむがためにとて、尊下の存日より、或 は画像を丹青に顕し或は木像を彫刻せしめて、居所の洛中にしても渇仰し、管領の 城外にも安置す。すなはちこの『行状画図』の発起もかの法僧張行の所為なり。これ によて随分連々の懇曲もだしがたき所望なれば、旨趣段々の右筆かたのごとく注 付訖。本文を料見に、無徳不報無言不酬と云へる歟、世には恩を戴てかつて報ぜざる 人のみあり、徳を荷てすべて酬ざる事のみおほきに、加様に義を正くし信を守るに をいてはむべなれや過去に五戒をよくたもちければこそ、はたして今生に五常を かしこくはしれゝとおぼゆ。重ておもへらく、「流長則難竭、根深則難朽」とも見たり。し かれば仰べきかの福田の冥応も因果むなしからず、嗜べきこの比丘が生計も自然 にともしからざる哉など申伝侍れば、ありがたく感嘆し随喜せらるゝ者也。亦製草 あり、四十八願簡要の願々を選てめのこたきに註釈せり、是を製する年紀は暦応三 歳[支干庚辰]九月廿四日[云云]。

すなはち名字ありて七十一と奥書あり。願主は江州伊香の別 莊に崇光寺管領の成信と号する苾蒭、望申に依て書たびけりとみえたり。本は無名 のあひだ、今『願々鈔』と題号し侍るは是也。 今は一むかしにもおほく余れるらん、嘉暦の初丙寅の年、其季商の節上旬の侯、飛弾 国に願智房永承といふ禅徒申請ければ、『執持鈔』となづけたる文をつくりて与け り。或は『最要鈔』とて小帖あり、先年法印風痾に侵しとき目良寂円房道源[関東駿河法印栄海舎兄] 訪来れりし次に臥ながらしめしゝ法語を口筆す、第十八の願意を釈する文なり。此 目良は多年先代の所属として沙汰かねといはれ、右筆かたにも達者の誉ありけり。 そのうへ真諦門に臨て諸宗通達法愛第一なるのみにあらず、俗諦門に在ても万事 宏才名望無双なり・在洛の後は大略弊房に経廻、数年同宿の作法なれば、共に老体な がら日来辛苦の行業を閣て往生浄土の願念を蓄ふ。あはれなる事は我法将は其大 蔟の春八十二にして別をつげ、件老者は同大呂の冬八十八にして滅にいる。生前芳 契も同心也、最後終焉も同年也。不思議といふべし、果而是も今度一大事の本懐を相 違なく遂侍けり。又『本願鈔』と名て自筆を染るは、名字各別なれども義理大旨さき の『最要』におなじき物歟。このほかに『法華念佛同体異名事』といへる薄双紙有之。 近くはまた貞和三歳[丁亥]十二月廿八日のことなりしに、鸞聖人作せしめ給ふ『浄土』・ 『高僧』等三帖和讃内の肝要を選抜侍る一帖を『尊師和讃鈔』と号するもあり。事繁 ければさのみは存略するところなり。

 こゝに先段の中聞に於て、年号聊以次第を守といへども、是等の終頭に至て歳序立還、又錯乱に及ぶ。しかれども聖教の述作をゝなじく一所によせて、真俗の混合

をなを分別せんがための故なり 凡又聞法血脈の名字を釣輩は、有昭・善教・覚浄・教円・乗智・成信・行如・承入・唯縁・道慶・寂定 等なり。斯外自余修学の門徒たりといへども、其志ありて遠国よりも上洛随逐して 所化と成て稽古を致し提撕に堪たるもあり、所謂如導・助信・善範・想賢・順教・順乗・空性・ 宗元・智専ごときの類をや。猶これあれども委するにあたはず。

第二段

観応二載[辛卯]正月十七日の晩より、いさゝか不例とて心神を労くし侍れば、たゞ白地 におもひなすうヘ、天下の騒もいまだをちゐぬほどなれば、医療を訪べき時分もな きに、十八日の朝よりなをおもりたる景気なるに、世事はいまより口にものいはざ れども、念佛ばかりはたえず息のしたにぞきこゆる。さりながら身をはなれぬ僧の むかへるに、この二首をかたりける。

  南無阿弥陀佛力ならぬのりぞなき、たもつ心もわれとおこさず。
  八十地あまりをくりむかへて此春の、花にさきだつ身ぞあはれなる。
 おもひつけたる数奇にて最後までもよはよはしき心地に一両首をつゞけらる
 よと安心のむねもいまさらたうとくおぼゆる中に花のなさけを猶わすれずや

 と誠に哀にぞ覚る。

おほよすこのたびは今生のはてなるべし、あへて療医の沙汰あるべからずと示せ ども、さてしもあるべきならねば、あくる十九日の拂暁に医師を招請するに脈道も 存の外にや指下にもあたりけむ。なむるところの良薬も験なく侍れば、面々たゞあ きれはてゝ瞻り仰ぐよりほかの事ぞなき。つゐに酉刻のすゑほどに、頭を北にし面 を西にし、眠がごとくして滅を唱るぞ心うき。つらつら頓卒の儀をおもふに、縡の楚 忽なる有待のさかひとはいひながら、今更不定のならひにまよひ侍れば、常随給仕 の僧侶、別離悲歎の男女、喩をとるにものあらむや。釈迦如来涅槃の庭には、禽獣虫類 までも啼哭したてまつりけり、大和尚円皈の砌には、上下士女までも傷嗟するこ とかぎりなし。さても不思議を現ぜしは発病の日より終焉の時に至まで始中終三 ケ日がほど蒼天を望に紫雲を拝するよし所々より告しめす。そもそも三日彩雲の 旧蹤を尋るに、いにしへ高祖聖人の芳躅にかなひ、いまは先師霊魂の奇特をあらは す是なり。事切ぬれども、つきせぬ名残といひ、かはらぬ姿をもなを見むとて、両三日 は殯送の儀をもいそがねども、かくてもあるべき歟とて、第五ケ日の暁知恩院の沙 汰として彼寺の長老僧衆をたなぴき迎とりて、延仁寺にしてむなしき煙となしけ るはあはれなりし事の中にも、廿四日は遺骸を拾へりしに、葬するところの白骨一 々に玉と成て佛舎利のごとく五色に分衛す。これをみる人は親疎ともに渇仰して 信伏し、これを聞人は都鄙みな乞取て安置す。まのあたり此神変に逢るは歎の中の 悦ともいひつべく、迷の前の益ともいひつべし。宜哉、弥陀の本願をたのむ外には、純 浄勇猛の修行もなにゝかはせん。極楽の往生をねがふまへには賢善精進の威儀も いつはれるにや、法印平生の振舞もたゞよのつねに順じて、安心の治定もそゝぐベ きならねば、まめやかに人ためならず念佛して一大事の本意を遂ぬるに、としごろ 偏執せし人もこのたび改悔し、日ごろ悪厭せし族もいまさら帰敬す。もともありが たき事どもなるべし。

 右十帙之篇目、一部之旨趣、記先師之行迹課当時之画匠偏依中懐之難黙、不顧外見之所嘲者也。可慙可慙、可憚々々矣
                      辺山老襟大和尚位慈俊記
   詞   前左兵衛佐伊兼朝臣
   画師  摂津守藤原隆昌

覚如上人御病中の枕元には三具足と阿弥陀仏の絵像が掛けられている。


慕帰繪々詞 10巻. 巻10 - 国立国会図書館デジタルコレクション


  1. 唯善は、覚信尼公の再婚相手である小野宮禅念との間の子で親鸞聖人の孫。覚如上人とは、文中に「舅甥」とあるように甥と叔父の関係である。なお『歎異抄』の著者と目される唯円とは師弟とも、あるいは唯円は小野宮禅念の先妻の子であるともいわれる。後に異父兄の覚恵と息である覚師との間で大谷廟堂の相続について争い敗れて鎌倉へ逐電したという。唯善にしてみれば大谷廟堂の地は元来、実父の禅念が残したものであるという意識だったのであろう。
  2. 禅念坊。覚信尼公の再婚相手である小野宮禅念のこと。出家して禅念と名乗った。この禅念の遺した土地を後に覚信尼公は関東の同行の御中へ提供し、御開山の直弟子の顕智なども協力も得て自らは留守職(るすしき)として本願寺の濫觴となった。
  3. 真弟(しんてい)。実の子で、仏法上の継承者。父を法の上の師とした僧のこと。
  4. 覚師は、『無量寿経』に十方衆生とあるのに、何ゆえ本願を信受する機と信受しない機があるかを宿善という名目を用いることで解そうとされたのであろう。また信心正因説(信一念義)を強調するにあたっての鎮西浄土宗による以下のような論難に対する為に「宿善」という名目を導入されたのであろう。弁長の『浄土宗名目問答』中に、一念義系のものが、数遍(多念をたのむもの)は自力難行、一念は他力易行道といって、全分の他力を主張するものに対して、
    答此事極僻也(答ふ、この事極めて僻(ひが)ごとなり。)
    其故 云他力者全馮他力一分無自力事 道理不可然(その故は、他力とは全く他力を憑みて一分の自力無しと云ふ事、道理しからざるべし。)
    云雖無自力善根依他力得往生者一切凡夫之輩于今不可留穢土皆悉可往生淨土(自力の善根無しといへども、他力に依て往生を得ると云ふならば、一切凡夫の輩、今に穢土に留まるべからず、皆な悉く淨土に往生すべし。)
    又一念他力數遍自力者何人師釋耶(また一念は他力、數遍は自力とは何(いか)なる人師の釋ぞや?)
    善導釋中 有自力他力義 無自力他力釋 一念他力數遍自力釋難得意(善導の釋の中に自力他力の義有れども自力他力の釋無し。一念は他力、數遍は自力の釋、意(こころ)得難し。)[1]
    と批判している。自力の善根が一分もなくても全分他力のみによって往生をうるならば、穢土に留まるものなど一人もいない筈ではないかというのである。これに対して「宿善」という名目を導入して、過去世の行者の宿善が開発した機と未だ開発しない機の違いによって往生の遅速があるのだと応答される意があったのであろう。
  5. 法然聖人の『往生浄土用心』には、「弥陀は、悪業深重の者を来迎し給ふちからましますとおぼしめしとりて、宿善のありなしも沙汰せず、つみのふかきあさきも返りみず、ただ名号となふるものの、往生するぞと信じおぼしめすべく候。」とあり、唯善の言葉は間違っていない。むしろ御開山が使われていない宿善という名目を導入された覚如師が説明不足であろう。
  6. もし人、善本なければ、この経を聞くことを得ず。 清浄に戒を有てるもの、いまし正法を聞くことを獲。むかし世尊を見たてまつりしものは、すなはちよくこの事を信じ、謙敬にして聞きて奉行し、踊躍して大きに歓喜す。驕慢と弊と懈怠とは、もつてこの法を信ずること難し。宿世に諸仏を見たてまつりしものは、楽んでかくのごときの教を聴かん。◇『無量寿経」下巻の往覲偈の文。現在にこの法を聞き得たのは、過去世における遇法の縁であったという意。
  7. もし人善本なければ、仏の名を聞くことを得ず。驕慢と弊と懈怠とは、もつてこの法を信ずること難し。宿世に諸仏を見たてまつりしものは、すなはちよくこの事を信ず。謙敬に聞きて奉行し、踊躍して大きに歓喜す。◇『往生礼讃』p.674の文。ここでも「宿世に諸仏を見たてまつりしものは」とあり、現在から過去を振り返って感佩する意である。
  8. この唯善師の表明は正しい。ただ、覚師は法に遇い得た処の信を論ずるのであり、唯善師は念仏往生の願である行について語るのであって、そもそも議論が噛み合っていない。
  9. 「その名号を聞きて、信心歓喜せんこと乃至一念せん。」『無量寿経』の本願成就文。◇覚師は、本願成就文から法義を論じ、唯善師は第十八願の念仏往生の願の意に立ち論じているのである。覚師は一念義的傾向が強く、唯善師は本願に選択された名号を重視する立場であったのであろう。
  10. 覚信尼公なき後、覚恵が異父弟の唯善を京へ呼び戻し彼のために大谷の南地(南側)に土地を用意し住まわせたので南殿と呼ぶ。