「必然の義」の版間の差分
提供: WikiArc
(同じ利用者による、間の2版が非表示) | |||
1行目: | 1行目: | ||
− | + | ひつねんのぎ | |
− | + | ||
− | + | 必ずそうあること。ここでは他をして必ず自身に同化させるいわれ。([[真巻#P--358|真巻 P.358]]) | |
{{Copyright}} | {{Copyright}} | ||
---- | ---- | ||
+ | {{Tinc|ノート:必然}} | ||
+ | |||
+ | [[Category:追記]] |
2020年2月4日 (火) 08:09時点における最新版
ひつねんのぎ
必ずそうあること。ここでは他をして必ず自身に同化させるいわれ。(真巻 P.358)
出典(教学伝道研究センター編『浄土真宗聖典(注釈版)第二版』本願寺出版社
『浄土真宗聖典(注釈版)七祖篇』本願寺出版社
区切り線以下の文章は各投稿者の意見であり本願寺派の見解ではありません。
『浄土真宗聖典(注釈版)七祖篇』本願寺出版社
区切り線以下の文章は各投稿者の意見であり本願寺派の見解ではありません。
◆ 参照読み込み (transclusion) ノート:必然
「真仏土巻」で引文されておられる性功徳釈(真巻 P.358) で、浄土の本質・本性を「また性といふは、これ必然の義なり、不改の義なり」(真巻 P.358)とある。この「必然の義」という「必ずそうなる、それ以外にはありえないこと」という然の語の意から、『自然法爾』の然をしからしむと読まれたのであろう。
阿弥陀仏の「願力成就」の浄土であるから、その本願力の意を信(まこと)として受容した者の往生することは必然である意を自然法爾ともされたのであった。