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「諸仏称名の願」の版間の差分

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とある。また、「行巻」冒頭 ([[P:140|註 140]]) に第十七願を標し、さらに
 
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:「しかるにこの行は大悲の願より出でたり。すなはちこれ諸仏称揚の願と名づく、また諸仏称名の願と名づく、また諸仏咨嗟の願と名づくべし、また往相回向の願と名づくべし、また選択称名の願と名づくべきなり」 ([[P:141|註 141]])  
 
:「しかるにこの行は大悲の願より出でたり。すなはちこれ諸仏称揚の願と名づく、また諸仏称名の願と名づく、また諸仏咨嗟の願と名づくべし、また往相回向の願と名づくべし、また選択称名の願と名づくべきなり」 ([[P:141|註 141]])  
と述べ、『文類聚鈔』には「往相正業の願」という願名も用いている。これらは第十七願は真実行を誓った願とするもので、浄土真宗における行が第十七願に誓われる名号にあることを示している。なお、願文の「悉咨嗟称我名」について、諸仏が阿弥陀仏の名号の徳を広く讃えることであるとする解釈と、諸仏が阿弥陀仏の名号を称えることとする解釈とがある。たとえば『唯信鈔文意』には「第十七の願に、十方無量の諸仏にわがなをほめられん、となへられんと誓ひたまへる」とある。→[[大行]]、[[教]]。(浄土真宗辞典)
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と述べ、『文類聚鈔』には「往相正業の願」という願名も用いている。これらは第十七願は真実行を誓った願とするもので、浄土真宗における行が第十七願に誓われる名号にあることを示している。なお、願文の「悉咨嗟称我名」について、諸仏が阿弥陀仏の名号の徳を広く讃えることであるとする解釈と、諸仏が阿弥陀仏の名号を称えることとする解釈とがある。たとえば『唯信鈔文意』には「第十七の願に、十方無量の諸仏にわがなをほめられん、となへられんと誓ひたまへる」([[P:703|註 703]])とある。→[[大行]]、[[教]]。(浄土真宗辞典)
 
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2020年1月30日 (木) 01:20時点における版

しょぶつしょうみょうのがん 諸仏称名の願

 阿弥陀仏の四十八願の中、第十七願のこと。『大経』第十七願文には

「たとひわれ仏を得たらんに、十方世界の無量の諸仏、ことごとく咨嗟して、わが名を称せずは、正覚を取らじ(設我得仏十方世界無量諸仏不悉咨嗟称我名者不取正覚)」(註 18)

と説かれている。親鸞は、第十七願の意義は、本願の名号のすぐれたはたらきを説き示し、信心獲得への教導となることにあるとみている。『御消息』第10通には

「諸仏称名の願と申し、諸仏咨嗟の願と申し候ふなるは、十方衆生をすすめんためときこえたり。また十方衆生の疑心をとどめん料ときこえて候ふ」(註 776)

とある。また、「行巻」冒頭 (註 140) に第十七願を標し、さらに

「しかるにこの行は大悲の願より出でたり。すなはちこれ諸仏称揚の願と名づく、また諸仏称名の願と名づく、また諸仏咨嗟の願と名づくべし、また往相回向の願と名づくべし、また選択称名の願と名づくべきなり」 (註 141)

と述べ、『文類聚鈔』には「往相正業の願」という願名も用いている。これらは第十七願は真実行を誓った願とするもので、浄土真宗における行が第十七願に誓われる名号にあることを示している。なお、願文の「悉咨嗟称我名」について、諸仏が阿弥陀仏の名号の徳を広く讃えることであるとする解釈と、諸仏が阿弥陀仏の名号を称えることとする解釈とがある。たとえば『唯信鈔文意』には「第十七の願に、十方無量の諸仏にわがなをほめられん、となへられんと誓ひたまへる」(註 703)とある。→大行。(浄土真宗辞典)