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:Ⅳ 真実信心を得たものは、仏因円満していて、必ず仏と成るから、現生の<kana>[[正定聚]](しょうじょうじゅ)</kana>の位を「弥勒に同じ」といい、また「等正覚」ともいう。([[証巻#P--308|証巻 P.308]], [[正像末和讃#P--604|正像 P.604]], [[一多#P--679|一多 P.679]],,[[三経往生文類#P--627|三経 P.627]],[[消息上#P--758|消息 P.758]]) →[[便同弥勒]]、[[補註6]]。
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:Ⅳ 真実信心を得たものは、仏因円満していて、必ず仏と成るから、現生の<kana>[[正定聚]](しょうじょうじゅ)</kana>の位を「弥勒に同じ」といい、また「[[等正覚]]」ともいう。([[証巻#P--308|証巻 P.308]], [[正像末和讃#P--604|正像 P.604]], [[一多#P--679|一多 P.679]],,[[三経往生文類#P--627|三経 P.627]],[[消息上#P--758|消息 P.758]]) →[[便同弥勒]]、[[補註6]]。
 
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::①「正定聚の位なり」([[正像末和讃#P--604|正像 P.604]]) 
::②「まことのほとけになるべき身となれるなり」([[一多#P--679|一多 P.679]])
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::②「まことのほとけになるべき身となれるなり」([[一多#no3|一多 P.679]])
  
 
 底本 (青蓮院本) には 「等覚」 とある。 ([[往生要集下巻 (七祖)#P--1079|要集 P.1079]])
 
 底本 (青蓮院本) には 「等覚」 とある。 ([[往生要集下巻 (七祖)#P--1079|要集 P.1079]])
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魏訳の『無量寿経]では、
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:そのときに、次に仏ましましき。世自在王如来・応供・'''等正覚'''・明行足・善逝・世間解・無上士・調御丈夫・天人師・仏・世尊と名づけたてまつる。[[WD:Daikyo1#no5|(*)]]
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とあるように、等正覚は仏を指す。ところが、唐訳の『無量寿如来会』では、
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:世主仏の前無辺劫数に仏ましまして出世したまえり。世間自在王如来・応・'''正等覚'''・明行円満・善逝・世間解・無上・丈夫調御士・天人師・仏・世尊と号す。[[無量壽如來會#butu10go|(*)]]
と、等正覚を正等覚と翻訳している。そして、魏訳の第十一願に
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とある「定聚(正定聚)」を唐訳の『無量寿如来会』では、
 
とある「定聚(正定聚)」を唐訳の『無量寿如来会』では、
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:もし我、成仏せんに、国中有情、もし決定して'''等正覚'''を成り、大涅槃を証せざれば、菩提を取らじ。[[無量壽如來會#証巻引文(3)|(*)]]
 
:もし我、成仏せんに、国中有情、もし決定して'''等正覚'''を成り、大涅槃を証せざれば、菩提を取らじ。[[無量壽如來會#証巻引文(3)|(*)]]
とし、魏訳では仏の十号の一であった等正覚を唐訳では正等覚と翻訳し、定聚を等正覚と翻訳している。<br>
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とし、魏訳では仏の十号の一であった等正覚を唐訳では正等覚と翻訳し、定聚を等正覚と翻訳している。『無量寿経』では等正覚の「等」を仏と同じ意とし、『如来会』では等正覚の「等」をほぼ等しい意と解釈し[[正定聚]]のこととし等正覚(等覚)と翻訳したのであろう。<br>
 
この意を『御消息』には、
 
この意を『御消息』には、
:信心をえたるひとは、かならず正定聚の位に住するがゆゑに'''等正覚'''の位と申すなり。『大無量寿経』には、摂取不捨の利益に定まるものを正定聚となづけ、『無量寿如来会』には等正覚と説きたまへり。その名こそかはりたれども、正定聚・等正覚は、ひとつこころ、ひとつ位なり。等正覚と申す位は、補処の弥勒とおなじ位なり。弥勒とおなじく、このたび無上覚にいたるべきゆゑに、弥勒におなじと説きたまへり。([[消息上#P--758|御消息 P.758]])  
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とされておられる。御開山は、晩年には『正像末和讃』や御消息などで新訳の等正覚(正定聚)を使われることが多いので文脈によって読む必要がある。
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:信心をえたるひとは、かならず'''正定聚'''の位に住するがゆゑに'''等正覚'''の位と申すなり。『大無量寿経』には、摂取不捨の利益に定まるものを正定聚となづけ、『無量寿如来会』には等正覚と説きたまへり。その名こそかはりたれども、正定聚・等正覚は、ひとつこころ、ひとつ位なり。等正覚と申す位は、補処の弥勒とおなじ位なり。弥勒とおなじく、このたび無上覚にいたるべきゆゑに、弥勒におなじと説きたまへり。([[消息上#P--758|御消息 P.758]])  
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と、正定聚と等正覚は同義であるとされておられる。御開山は、晩年には『正像末和讃』や御消息などで新訳の等正覚(正定聚)を使われることが多いので文脈によって読む必要がある。
 
たとえば、以下の和讃の「等正覚」は正定聚のことである。
 
たとえば、以下の和讃の「等正覚」は正定聚のことである。
 
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御開山は、一般にいわれる[[WDM:さんじょうじゅ|三定聚説]]を、真仮分判の[[名目]]として転用して用いられ、「[[第十八願]]」の[[機]]を[[正定聚]]、「[[第十九願]]」の[[機]]を[[邪定聚]]、「[[第二十願]]」の[[機]]を[[不定聚]]に配当された。聖道門では、[[不退転]](正定聚)の階位を菩薩の修道階梯の種々に配当するのだが、御開山の用いられる三定聚説は「[[願海真仮論]]」によるのであって聖道門の五十二位説と混同してはならない。→[[不退転]]
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2019年12月13日 (金) 15:47時点における最新版

とうしょうがく

 等覚・正等覚ともいう。

Ⅰ 絶対平等の真如をさとった仏のさとり。→正覚。(大経 P.4,5)
Ⅱ 平等の心理をさとった者。仏。如来十号の一。→如来(にょらい)
Ⅲ 仏因円満した正覚に等しい位で仏陀の一歩手前にあるもの。菩薩の修行の五十二位あるうちの第五十一位。→菩薩(ぼさつ)
Ⅳ 真実信心を得たものは、仏因円満していて、必ず仏と成るから、現生の正定聚(しょうじょうじゅ)の位を「弥勒に同じ」といい、また「等正覚」ともいう。(証巻 P.308, 正像 P.604, 一多 P.679,,三経 P.627,消息 P.758) →便同弥勒補註6

【左訓】

①「正定聚の位なり」(正像 P.604) 
②「まことのほとけになるべき身となれるなり」(一多 P.679)

 底本 (青蓮院本) には 「等覚」 とある。 (要集 P.1079)

出典(教学伝道研究センター編『浄土真宗聖典(注釈版)第二版』本願寺出版社
『浄土真宗聖典(注釈版)七祖篇』本願寺出版社

区切り線以下の文章は各投稿者の意見であり本願寺派の見解ではありません。

等正覚と正定聚

魏訳の『無量寿経』では、

そのときに、次に仏ましましき。世自在王如来・応供・等正覚・明行足・善逝・世間解・無上士・調御丈夫・天人師・仏・世尊と名づけたてまつる。(大経P.11)

とあるように、等正覚は仏の十号の一を指す。ところが、唐訳の『無量寿如来会』では、

世主仏の前無辺劫数に仏ましまして出世したまえり。世間自在王如来・応・正等覚・明行円満・善逝・世間解・無上・丈夫調御士・天人師・仏・世尊と号す。(*)

と、魏訳の等正覚を正等覚と翻訳している。そして、魏訳の第十一願に

たとひわれ仏を得たらんに、国中の人・天、定聚に住し、かならず滅度に至らずは、正覚を取らじ。 (*)

とある「定聚(正定聚)」を唐訳の『無量寿如来会』では、

もし我、成仏せんに、国中有情、もし決定して等正覚を成り、大涅槃を証せざれば、菩提を取らじ。(*)

とし、魏訳では仏の十号の一であった等正覚を唐訳では正等覚と翻訳し、定聚を等正覚と翻訳している。『無量寿経』では等正覚の「等」を仏と同じ意とし、『如来会』では等正覚の「等」をほぼ等しい意と解釈し正定聚のこととし等正覚(等覚)と翻訳したのであろう。
この意を『御消息』には、

信心をえたるひとは、かならず正定聚の位に住するがゆゑに等正覚の位と申すなり。『大無量寿経』には、摂取不捨の利益に定まるものを正定聚となづけ、『無量寿如来会』には等正覚と説きたまへり。その名こそかはりたれども、正定聚・等正覚は、ひとつこころ、ひとつ位なり。等正覚と申す位は、補処の弥勒とおなじ位なり。弥勒とおなじく、このたび無上覚にいたるべきゆゑに、弥勒におなじと説きたまへり。(御消息 P.758)

と、正定聚と等正覚は同義であるとされておられる。御開山は、晩年には『正像末和讃』や御消息などで新訳の等正覚(正定聚)を使われることが多いので文脈によって読む必要がある。 たとえば、以下の和讃の「等正覚」は正定聚のことである。

(27)
念仏往生の願により
 等正覚にいたるひと
 すなはち弥勒におなじくて
 大般涅槃をさとるべし (正像 P.605)

御開山は、一般にいわれる三定聚説を、真仮分判の名目として転用して用いられ、「第十八願」の正定聚、「第十九願」の邪定聚、「第二十願」の不定聚に配当された。聖道門では、不退転(正定聚)の階位を菩薩の修道階梯の種々に配当するのだが、御開山の用いられる三定聚説は「願海真仮論」によるのであって聖道門の五十二位説と混同してはならない。→不退転

五十二位説の階位

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