「如来とひとし」の版間の差分
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2019年1月28日 (月) 13:55時点における版
如来とひとし 如来と等し 与諸如来等
御開山は「信巻」信楽釈で『華厳経』入法界品の結論である偈を引文されて、
と、真実信心の徳を「もろもろの如来と等し」とされておられる。御消息では、門弟の問いに答えて、
- これは『経』の文なり。『華厳経』にのたまはく、「信心歓喜者与諸如来等」といふは、「信心よろこぶひとはもろもろの如来とひとし」といふなり。「もろもろの如来とひとし」といふは、信心をえてことによろこぶひとは、釈尊のみことには、「見敬得大慶則我善親友」(大経・下)と説きたまへり。また弥陀の 第十七の願には、「十方世界 無量諸仏 不悉咨嗟 称我名者 不取正覚」(大経・上)と誓ひたまへり。願成就の文(同・下意)には、「よろづの仏にほめられ、よろこびたまふ」(意)とみえたり。すこしも疑ふべきにあらず。これは「如来とひとし」といふ文どもをあらはししるすなり。 (消息 P.759)
とされ、本願を信楽するものは、諸仏と等しいとされておられる。
御開山は晩年に、御消息で関東の門弟に盛んにこの如来弥勒等同説を説かれる。摂取不捨の経語の上からは弥勒と同じ徳を受けているのであり、それは如来と等しいとされるのであった。愚直に本願を信じ念仏申している関東の門弟の尊厳性をあらわす意であったのであろう。
なお、等しいと同じは違う概念であることに留意。弥勒とは同じであるが決して如来と同じとはされなかった。等と同を使い分けておられるのである。ともあれ真実信心の念仏者の尊厳をあらわす語が「便同弥勒」と「与諸如来等」という語なのであった。
- ↑ 通常は「この法を聞きて歓喜し、心に信じて疑なければ、すみやかに無上道を成じ、もろもろの如来と等しからん」と読むのだが、御開山は、「この法を聞きて〔如来の〕信心を歓喜して、疑なきものはすみやかに無上道を成らん。もろもろの如来と等し」と読まれた。