「如是」の版間の差分
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とあり、「仏法の大海は、信を能入と為(な)し、智を能度と為(な)す」といわれていた。一般に仏教では<kana>信解行証(しんげ-ぎょうしょう)</kana>といい、『智度論』の「仏法の大海は、信を能入と為し、智を能度と為す」とは、仏の教えを信じ理解して修行し証(さとり)を得ることをいふのであって信は仏道へ入る初門であった。ところが御開山は、善悪・浄穢を選ばない阿弥陀仏の本願を信楽することを「信」であるとして『華厳経』を引文され、 | とあり、「仏法の大海は、信を能入と為(な)し、智を能度と為(な)す」といわれていた。一般に仏教では<kana>信解行証(しんげ-ぎょうしょう)</kana>といい、『智度論』の「仏法の大海は、信を能入と為し、智を能度と為す」とは、仏の教えを信じ理解して修行し証(さとり)を得ることをいふのであって信は仏道へ入る初門であった。ところが御開山は、善悪・浄穢を選ばない阿弥陀仏の本願を信楽することを「信」であるとして『華厳経』を引文され、 | ||
:{{DotUL|信は[[道の元]]とす、功徳の母なり}}。一切のもろもろの善法を[[長養]]す。[[疑網]]を断除して[[愛流]]を出で、涅槃[[無上道]]を開示せしむ。([[信巻本#no36|信巻 P.238]]) | :{{DotUL|信は[[道の元]]とす、功徳の母なり}}。一切のもろもろの善法を[[長養]]す。[[疑網]]を断除して[[愛流]]を出で、涅槃[[無上道]]を開示せしむ。([[信巻本#no36|信巻 P.238]]) | ||
− | + | とされ、また『涅槃経』の、 | |
− | :「しかるに『経』に「聞」といふは、衆生、「[[仏願の生起本末]]」を聞きて疑心あることなし、これを聞といふなり」([[信巻末# | + | :[[阿耨多羅三藐三菩提]]を説くに、{{DotUL|信心を因とす}}。これ菩提の因、また無量なりといへども、もし信心を説けば、すなはちすでに摂尽しぬ。([[信巻本#no32|信巻 P.237]]) |
− | + | の文を引かれ[[浄土真宗]]は[[信心]]の宗教であるとされた。それが阿弥陀如来の[[回向]]する[[菩提心]]である[[信心]]を受け容れることによって「涅槃無上道」の仏に成る成仏道であった。如是我聞の「[[聞]]」である信とは | |
+ | :「しかるに『経』に「聞」といふは、衆生、「[[仏願の生起本末]]」を聞きて疑心あることなし、これを聞といふなり」([[信巻末#no65|信巻 P.251]]) | ||
+ | の、'''「[[聞]]」'''である「[[信]]」であった。 | ||
:→[[聞思して遅慮することなかれ]] | :→[[聞思して遅慮することなかれ]] |
2019年1月17日 (木) 07:57時点における版
にょぜ
経の冒頭の「
出典(教学伝道研究センター編『浄土真宗聖典(注釈版)第二版』本願寺出版社
『浄土真宗聖典(注釈版)七祖篇』本願寺出版社
区切り線以下の文章は各投稿者の意見であり本願寺派の見解ではありません。
『浄土真宗聖典(注釈版)七祖篇』本願寺出版社
区切り線以下の文章は各投稿者の意見であり本願寺派の見解ではありません。
「信巻」信楽釈で、
とある。
『智度論』では経のはじめの「如是」を釈し、
とあり、「仏法の大海は、信を能入と為(な)し、智を能度と為(な)す」といわれていた。一般に仏教では
とされ、また『涅槃経』の、
の文を引かれ浄土真宗は信心の宗教であるとされた。それが阿弥陀如来の回向する菩提心である信心を受け容れることによって「涅槃無上道」の仏に成る成仏道であった。如是我聞の「聞」である信とは