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仏が法を説く場合、自分のさとりのままに説くことを'''随自意説'''という。また相手の考えに順応して説くことを'''[[随他意説]]'''といい、相手の考えに順応して説くことが仏のさとりに反せず、相手と同一の説き方を'''[[随自他意説]]'''という。(涅槃経 迦葉菩薩品之二)<br />
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仏教の教説を分類批判する時は、真実の教えを自分の意にかなっているから随自意といい、方便の教えを随他意という。<br />
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例:まさに知るべし、随他の前にはしばらく定散の門を開くといへども、随自の後には還りて定散の門を閉づ。(選択本願念仏集)
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古来、『阿弥陀経』は問なくして、釈尊自身が自ら語られるので無問自説の経として随自意の経とされる。
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2018年12月19日 (水) 08:21時点における最新版

ずいじいせつ

 仏がみずからの本意に随って説いた教え。(真巻 P.355)

出典(教学伝道研究センター編『浄土真宗聖典(注釈版)第二版』本願寺出版社
『浄土真宗聖典(注釈版)七祖篇』本願寺出版社

区切り線以下の文章は各投稿者の意見であり本願寺派の見解ではありません。

仏が法を説く場合、自分のさとりのままに説くことを随自意説(仏の自意に随って説く)という。また相手の考えに順応して説くことを随他意説(他者の意に随って説く)といい、相手の考えに応じて説くことが仏のさとりに反せず、相手の意に応じて説く説き方を随自他意説(自と他の意に随って説く)という。(涅槃経 迦葉菩薩品之二
仏教の教説を分類批判する時は、真実の教えを仏自身の本意にかなっているから随自意説といい、仏の本意にかなわない権仮方便の教えを随他意説という。
『選択本願念仏集』では、

まさに知るべし、随他の前にはしばらく定散の門を開くといへども、随自の後には還りて定散の門を閉づ。一たび開きて以後永く閉ぢざるは、ただこれ念仏の一門なり。弥陀の本願、釈尊の付属、意これにあり。行者知るべし。 (選択集 P.1273)

と、『観経』で韋提希の要請(随他意)によって定善散善という法門を説かれたが、釈尊の意(随自意)によって定散の門を閉じ、阿弥陀仏の本願念仏の一門を付属されたとする[1]。『観経疏』名号付属釈に、

上来定散両門の益を説くといへども、仏の本願に望むるに、意(こころ)、衆生をして一向にもつぱら弥陀仏の名を称せしむるにあり。(散善義 P.500)

とあるからである。→念仏付属

なお、古来から『阿弥陀経』は、釈尊自身が仏弟子の問いなくして自ら語り出されるので無問自説の経として随自意の経とされる。舎利弗が釈尊に「於汝意云何(舎利弗、なんぢが意においていかん)」と、再三問われながらも答えることは出来なかったので無問自説経とされるのであった。
なお『阿弥陀経』の問いなくして説かれた意義を善導大師は『法事讃』に、

釈迦如来、身子(舎利弗)に告げた まふは、すなはちこれあまねく苦の衆生に告げたまふなり。(法事讃 P.563)

と「あまねく苦の衆生に告げたまふ」とあり、『阿弥陀経』は、苦悩の有情である、わたくしの為に説かれた経典であるとする。その意味では『阿弥陀経』に頓出する「舎利弗」の文には、わたくし(林遊)の名を入れて拝読すべきであろうといわれる。

随自意説
随他意説
随自他意説

  1. 『観経疏』玄義分に、
     問ひていはく、定散二善はたれの致請による。答へていはく、定善の一門は韋提の致請にして、散善の一門はこれ仏の自説なり。
    とあり、これを「唯請定善 自開散善」といふ。(玄義分 P.306)
    なお『観経』付属においては「なんぢ、よくこの語を持て。この語を持てといふは、すなはちこれ無量寿仏の名を持てとなり」と「弘願」の念仏を付属された。