「易往而無人」の版間の差分
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: 律宗の用欽のいはく、「法の難を説くなかに、まことにこの法をもつて凡を転じて聖となすこと、なほし掌を反すがごとくなるをや。大きにこれ易かるべきがゆゑに、おほよそ浅き衆生は多く疑惑を生ぜん。すなはち『大本』(大経・下)に〈[[易往而無人]]〉といへり。ゆゑに知んぬ、難信なり」と。 ([[信巻本#no57|信巻 P.248]]) | : 律宗の用欽のいはく、「法の難を説くなかに、まことにこの法をもつて凡を転じて聖となすこと、なほし掌を反すがごとくなるをや。大きにこれ易かるべきがゆゑに、おほよそ浅き衆生は多く疑惑を生ぜん。すなはち『大本』(大経・下)に〈[[易往而無人]]〉といへり。ゆゑに知んぬ、難信なり」と。 ([[信巻本#no57|信巻 P.248]]) | ||
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2018年9月17日 (月) 21:36時点における版
いおうにむにん
阿弥陀仏の本願力によるから浄土に往生することは容易であるが、自力の心をすてて真実信心をうる人は少ないから、浄土に往生する人は希(まれ)であるということ。(行巻 P.176, 信巻 P.248,信巻 P.254)
「往き易くしてひとなし」(信巻訓)(御文章 P.1119)
出典(教学伝道研究センター編『浄土真宗聖典(注釈版)第二版』本願寺出版社
『浄土真宗聖典(注釈版)七祖篇』本願寺出版社
区切り線以下の文章は各投稿者の意見であり本願寺派の見解ではありません。
『浄土真宗聖典(注釈版)七祖篇』本願寺出版社
区切り線以下の文章は各投稿者の意見であり本願寺派の見解ではありません。
『尊号真像銘文』に、
- 「易往而無人」といふは、「易往」はゆきやすしとなり、本願力に乗ずれば本願の実報土に生るること疑なければ、ゆきやすきなり。
- 「無人」といふはひとなしといふ、人なしといふは真実信心の人はありがたきゆゑに実報土に生るる人まれなりとなり。(尊号 P.647)
とある。
往生は易きがゆえにかえって疑いを生じる者が多いので無人といふ。
- 律宗の用欽のいはく、「法の難を説くなかに、まことにこの法をもつて凡を転じて聖となすこと、なほし掌を反すがごとくなるをや。大きにこれ易かるべきがゆゑに、おほよそ浅き衆生は多く疑惑を生ぜん。すなはち『大本』(大経・下)に〈易往而無人〉といへり。ゆゑに知んぬ、難信なり」と。 (信巻 P.248)
『大経』に、
- 必得超絶去 往生安養国 横截五悪趣 悪趣自然閉。昇道無窮極。易往而無人。其国不逆違 自然之所牽。
- かならず〔迷ひの世界を〕超絶して去つることを得て安養国に往生して、横に五悪趣を截り、悪趣自然に閉ぢ、道に昇るに窮極なからん。 〔安養国は〕往き易くして人なし。その国逆違せず、自然の牽くところなり。 (大経 P.54)(信巻 P.254で引文)
とある。