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 浄土門に対する語。自力の修行によって、この世でさとりをひらくことを宗とする法門。→[[浄土門]](じょうどもん)
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 浄土門に対する語。自力の修行によって、この世でさとりをひらくことを宗とする法門。→[[浄土門]]。
  
 
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2018年6月8日 (金) 16:05時点における版

しょうどうもん

 浄土門に対する語。自力の修行によって、この世でさとりをひらくことを宗とする法門。→浄土門

出典(教学伝道研究センター編『浄土真宗聖典(注釈版)第二版』本願寺出版社
『浄土真宗聖典(注釈版)七祖篇』本願寺出版社

区切り線以下の文章は各投稿者の意見であり本願寺派の見解ではありません。

浄土門:ノートより転送

浄土門聖道門

仏教を二大別して、この世で聖者となりさとりを開く道 (此土入聖(しど-にっしょう)) と阿弥陀仏の力によってその浄土に生まれてさとりを開く道 (彼土入証(ひど-とくしょう)) とに分け、前者を聖道門、後者を浄土門という。この区別はもと唐の道綽安楽集巻上で行ったもので、浄土教ではこの説によって仏教を聖道・浄土の二門に分類する。なお源空は浄土門についてさらに正明往生浄土教と傍明往生浄土教とを分け、親鸞真実 (横超) と方便 (横出) とを分けた。→二双四重(仏教学辞典)

 一代仏教を聖道門と浄土門の二門に分けたのは道綽禅師である。

『安楽集』上、第三大門に、

問ひていはく、一切衆生みな仏性あり。 遠劫よりこのかた多仏に値ひたてまつるべし。 なにによりてかいまに至るまで、なほみづから生死に輪廻して火宅を出でざる。
答へていはく、大乗の聖教によるに、まことに二種の勝法を得て、もつて生死を排はざるによる。ここをもつて火宅を出でず。 何者をか二となす。 一にはいはく聖道、二にはいはく往生浄土なり。その聖道の一種は、今の時証しがたし。 一には大聖(釈尊)を去ること遥遠なるによる。 二には理は深く解は微なるによる。
 このゆゑに『大集月蔵経』(意)にのたまはく、「わが末法の時のうちに、億々の衆生、行を起し道を修すれども、いまだ一人として得るものあらず」と。
当今は末法にして、現にこれ五濁悪世なり。 ただ浄土の一門のみありて、通入すべき路なり
このゆゑに『大経』にのたまはく、「もし衆生ありて、たとひ一生悪を造れども、命終の時に臨みて、十念相続してわが名字を称せんに、もし生ぜずは正覚を取らじ」と。
また一切衆生すべてみづから量らず。 もし大乗によらば、真如実相第一義空、かつていまだ心を措かず。 もし小乗を論ぜば、見諦修道に修入し、すなはち那含・羅漢に至るまで、五下を断じ五上を除くこと、道俗を問ふことなく、いまだその分にあらず。 たとひ人天の果報あれども、みな五戒・十善のためによくこの報を招く。 しかるに持(たも)ち得るものは、はなはだ希なり。 もし起悪造罪を論ぜば、なんぞ暴風駛雨に異ならんや。 ここをもつて諸仏の大慈、勧めて浄土に帰せしめたまふ。 たとひ一形悪を造れども、ただよく意を繋けて専精につねによく念仏すれば、一切の諸障自然に消除して、さだめて往生を得。 なんぞ思量せずしてすべて去く心なきや。 (安楽集 P.241)、(選択集(P.1183で引用)
とあり、一切衆生にはみな仏性(因仏性)があるのに、なぜ今に至るまで、輪廻を続けて生死の世界から解脱できないのかと問う。その答えとして、聖道と往生浄土の二種類の勝れた教えによって生死を出ようとしないからであると述べる。その理由として釈尊から遠く離れていること(一由)、教えが深遠であるのに理解が浅いから(二由)という二由をあげて、末法の世では凡夫にとっては、ただ唯一 往生浄土門のみが証へ入るべき路であるとされていた。