「後生の一大事」の版間の差分
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:人間の生涯の終わりには浄土へ行けるのであり、死の帰するところを浄土におくことによって、それが生の依るところとなって、浄土を憶う心があると、その心から光がでてきて、私達に不安の只中にありながら、そこに安住の地を与えられるのであります。つまり意識はどれほど不安を感じていても、どこかその底に安らかに安住させて頂く力があり、それが本願他力であり、それが浄土の教えであるといってよいのでありましょう。(曽我量深・金子大榮著『往生と成仏』法蔵館から) | :人間の生涯の終わりには浄土へ行けるのであり、死の帰するところを浄土におくことによって、それが生の依るところとなって、浄土を憶う心があると、その心から光がでてきて、私達に不安の只中にありながら、そこに安住の地を与えられるのであります。つまり意識はどれほど不安を感じていても、どこかその底に安らかに安住させて頂く力があり、それが本願他力であり、それが浄土の教えであるといってよいのでありましょう。(曽我量深・金子大榮著『往生と成仏』法蔵館から) | ||
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2018年3月3日 (土) 09:57時点における版
ごしょうのいちだいじ
後生とは後に来るべき生涯。一大事とは最も重要なことの意。転迷開悟(煩悩の迷いを転じて、さとりを開くこと)のことで、生死の問題を解決して後生に浄土に往生するという人生における最重要事項をいう。
『御文章』5帖目第16通には「たれの人もはやく後生の一大事を心にかけて、阿弥陀仏を深くたのみまゐらせて」(御文章 P.1204)等とある。
出典(教学伝道研究センター編『浄土真宗聖典(注釈版)第二版』本願寺出版社
『浄土真宗聖典(注釈版)七祖篇』本願寺出版社
区切り線以下の文章は各投稿者の意見であり本願寺派の見解ではありません。
『浄土真宗聖典(注釈版)七祖篇』本願寺出版社
区切り線以下の文章は各投稿者の意見であり本願寺派の見解ではありません。
死の帰するところを浄土におく(帰依)
- 我々をしてその不安の世の中におりながら今日一日を落着き、今日一日を不安なるがゆえに、却ってそれを介して念仏申させて貰うことによって、有り難いという感覚をおこさせるものは一体何だろうかと、そういうような場として、私には後の世というものがあるのであります。死ねばお浄土へ行けるのであると。
- 人間の生涯の終わりには浄土へ行けるのであり、死の帰するところを浄土におくことによって、それが生の依るところとなって、浄土を憶う心があると、その心から光がでてきて、私達に不安の只中にありながら、そこに安住の地を与えられるのであります。つまり意識はどれほど不安を感じていても、どこかその底に安らかに安住させて頂く力があり、それが本願他力であり、それが浄土の教えであるといってよいのでありましょう。(曽我量深・金子大榮著『往生と成仏』法蔵館から)
大谷派の学僧である金子大榮師は、浄土を「死の帰する処、生の依って立つ処」とおっしゃったが、死ぬることの解決ができてこそ、この生をより深く味わうことができるのであろう。『論註』に「「蟪蛄は春秋を識らず」といふがごとし。この虫あに朱陽の節を知らんや」(論註P.98)とあり、今しか知らない者は今も知らないというのであった。生きることに意味があるように死ぬことにも意義を示してくださる言葉が蓮如さんの「後生の一大事」という言葉であった。