「如来」の版間の差分
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梵語タターガタ(tathāgata)の漢訳。真如(真理)より現れ来った者、あるいは真如をさとられた者の意で、仏のこと。十種の称号がある(如来の十号)。 | 梵語タターガタ(tathāgata)の漢訳。真如(真理)より現れ来った者、あるいは真如をさとられた者の意で、仏のこと。十種の称号がある(如来の十号)。 | ||
:①<kana>応供(おうぐ)</kana>。供養を受けるに値する者。 | :①<kana>応供(おうぐ)</kana>。供養を受けるに値する者。 | ||
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との二種類の読み方のためである。如去は、如に至(去)った者という意で、初期仏教ではこれが本義とされる。<br /> | との二種類の読み方のためである。如去は、如に至(去)った者という意で、初期仏教ではこれが本義とされる。<br /> | ||
− | 「如来」の語で、三世諸仏の[[道]] | + | 「如来」の語で、三世諸仏の[[道]]を成じた仏をいうのは、大乗仏教で一切衆生を救済する大悲の願いのために如から娑婆世界に出世(如-来)した仏であるとするからである。 |
なお如来は一般名詞であり、阿弥陀如来という場合は固有名詞になる。<br /> | なお如来は一般名詞であり、阿弥陀如来という場合は固有名詞になる。<br /> | ||
ただ御開山は、以下の「和讃」のように三世十方の諸仏を統率する根本の仏が、法蔵菩薩の相をとり阿弥陀如来と顕現した仏であるとみられている場合がある。<br /> | ただ御開山は、以下の「和讃」のように三世十方の諸仏を統率する根本の仏が、法蔵菩薩の相をとり阿弥陀如来と顕現した仏であるとみられている場合がある。<br /> | ||
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: 本願選択摂取する ([[浄土和讃#no56|同p.565]]) | : 本願選択摂取する ([[浄土和讃#no56|同p.565]]) | ||
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:しかれば弥陀如来は如より来生して、報・応・化、種々の身を示し現じたまふなり。([[証巻#no1|証巻 P.307]]) | :しかれば弥陀如来は如より来生して、報・応・化、種々の身を示し現じたまふなり。([[証巻#no1|証巻 P.307]]) | ||
と「如より来生」するとされておられる。御開山は、ここで衆生の弥陀同体のさとりと還相の意義をみておられるのであろう。 | と「如より来生」するとされておられる。御開山は、ここで衆生の弥陀同体のさとりと還相の意義をみておられるのであろう。 |
2017年7月31日 (月) 19:29時点における版
にょらい
釈尊のこと。(正像 P.613)
巻末註
梵語タターガタ(tathāgata)の漢訳。真如(真理)より現れ来った者、あるいは真如をさとられた者の意で、仏のこと。十種の称号がある(如来の十号)。
- ①
応供 。供養を受けるに値する者。 - ②
等正覚 。平等の真理をさとった者。 - ③
明行足 。智慧と行とが共に完全な者。 - ④
善逝 。迷界をよく超え出て再び迷いに還らない者。 - ⑤
世間解 。世間・出世間のことをすべて知る者。 - ⑥
無上士 。最上最高の者。 - ⑦
調御丈夫 。衆生を調伏・制御してさとりに導く者。 - ⑧
天人師 。神々と人間の師。 - ⑨仏。覚れる者。
- ⑩世尊。世間で最も尊い方。
この十号は、如来を入れると十一号になる。それを合わせて十号と呼ぶ数え方に諸説がある。
『浄土真宗聖典(注釈版)七祖篇』本願寺出版社
区切り線以下の文章は各投稿者の意見であり本願寺派の見解ではありません。
- 仏の十号は『涅槃経』梵行品に詳しい。 →梵行品
梵語タターガタ(tathāgata)の漢訳で、多陀阿伽度(陀)、怛薩阿竭、怛他誐他、多阿竭と音写し、如去、如来とも訳される。如去や如来と訳されるのは、
- tathā-gata 如に達した人(如去)
- tathā-āgata 如から来たった人(如来)
との二種類の読み方のためである。如去は、如に至(去)った者という意で、初期仏教ではこれが本義とされる。
「如来」の語で、三世諸仏の道を成じた仏をいうのは、大乗仏教で一切衆生を救済する大悲の願いのために如から娑婆世界に出世(如-来)した仏であるとするからである。
なお如来は一般名詞であり、阿弥陀如来という場合は固有名詞になる。
ただ御開山は、以下の「和讃」のように三世十方の諸仏を統率する根本の仏が、法蔵菩薩の相をとり阿弥陀如来と顕現した仏であるとみられている場合がある。
- 弥陀成仏のこのかたは
- いまに十劫とときたれど
- 塵点久遠劫よりも
- ひさしき仏とみえたまふ (大経讃p.565)
- 南無不可思議光仏
- 饒王仏のみもとにて
- 十方浄土のなかよりぞ
- 本願選択摂取する (同p.565)
御開山は、このような真如のさとりの界(さかい)から来生する阿弥陀仏を、
- しかれば弥陀如来は如より来生して、報・応・化、種々の身を示し現じたまふなり。(証巻 P.307)
と「如より来生」するとされておられる。御開山は、ここで衆生の弥陀同体のさとりと還相の意義をみておられるのであろう。
参考用に『智度論』から「多陀阿伽陀(如来)」についてを引用した。「大正蔵」
問曰。婆伽婆正有此一名更有餘名。
- 問うて曰く、婆伽婆は正に此の一名のみ有りや、更に余の名有りや。
答曰。佛功徳無量。名號亦無量。此名取其大者。以人多識故。復有異名。名多陀阿伽陀等。
- 答えて曰く、仏は、功徳無量なれば、名号も亦た無量なり。此の名は、其の大なる者を取る、人の多く識るを以っての故なり。復た異名有り、多陀阿伽陀等と名づく。
云何名多陀阿伽陀。如法相解如法相説。如諸佛安隱道來。佛亦如是來更不去後有中。是故名 多陀阿伽陀。
- 云何が、多陀阿伽陀と名づくる。法相の如く解し、法相の如く説き、諸仏の安穏の道を来たるが如く、仏も亦た是の如く来たりて、更に後有の中に去らず。是の故に多陀阿伽陀と名づく。
復名阿羅呵。云何名阿羅呵。阿羅名賊。呵名殺。是名殺賊。如偈説
佛以忍爲鎧 精進爲剛甲
持戒爲大馬 禪定爲良弓
智慧爲好箭 外破魔王軍
内滅煩惱賊 是名阿羅呵
- 復た阿羅呵と名づく。云何が阿羅呵と名づくる。阿羅を賊と名づけ、呵を殺と名づけて、是れを殺賊と名づく。偈に説けるが如し、
- 仏は忍を以って鎧と為し、精進を剛甲と為し、
- 持戒を大馬と為し、禅定を良弓と為し、
- 智慧を好箭と為して、外に魔王の軍を破り、
- 内に煩悩の賊を滅す、是れを阿羅呵と名づく。
復次阿名不。羅呵名生。是名不生。佛心種子後世田中不生。無明糠脱故。
- 復た次ぎに、阿を不と名づけ、羅呵を生を名づけ、是れを不生と名づく。仏心の種子は、後世の田中に生ぜず、無明の糠を脱するが故なり。
復次阿羅呵名應受供養。佛諸結使除盡得一切智慧故。應受一切天地衆生供養。以是故佛名阿羅呵。
- 復た次ぎに、阿羅呵を応に供養を受くべきと名づく。仏は、諸の結使除き尽して、一切の智慧を得たまいしが故に、応に一切の天地の衆生の供養を受くべし。是を以っての故に、仏を阿羅呵と名づく。
復名三藐三佛陀。云何名三藐三佛陀。三藐名正。三名遍。佛名知。是名正遍知一切法。
- 復た、三藐三仏陀と名づく。云何が、三藐三仏陀と名づくる。三藐を正と名づけ、三を遍と名づけ、仏を知と名づくるに、是れを正遍知一切法と名づく。