「依詮談旨」の版間の差分
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− | + | <kana>依詮談旨(えせん-だんし)</kana>/廃<kana>詮談旨(はいせん-だんし)</kana>。詮はあきらかする意。 | |
説きあらわしがたいことを、言葉に依って強いてあらわすのを依詮談旨といい、言葉に依っては説きあらわすことができないとして否定的に示すのを廃詮談旨という。真如(さとりの本体)はさとりの智慧によってのみ知られ、相対的な言語ではあらわし得ない(廃詮談旨)が、これを強いて言語で示す(依詮談旨)ようなものである「百法問答抄感四」(仏教学辞典) | 説きあらわしがたいことを、言葉に依って強いてあらわすのを依詮談旨といい、言葉に依っては説きあらわすことができないとして否定的に示すのを廃詮談旨という。真如(さとりの本体)はさとりの智慧によってのみ知られ、相対的な言語ではあらわし得ない(廃詮談旨)が、これを強いて言語で示す(依詮談旨)ようなものである「百法問答抄感四」(仏教学辞典) | ||
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+ | 因分、原因となるものは説くことができる「<kana>因分可説(いんぶん-かせつ)</kana>」が、仏のさとりそのものについては言葉を超えているので説くことが出来ない「<kana>果分不可説(かぶん-ふかせつ)</kana>」ということ。仏教ではよくさとりへの因として譬喩が用いられるのだが、仏のさとりを示す同譬はないといわれる。 | ||
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2016年2月24日 (水) 14:07時点における版
説きあらわしがたいことを、言葉に依って強いてあらわすのを依詮談旨といい、言葉に依っては説きあらわすことができないとして否定的に示すのを廃詮談旨という。真如(さとりの本体)はさとりの智慧によってのみ知られ、相対的な言語ではあらわし得ない(廃詮談旨)が、これを強いて言語で示す(依詮談旨)ようなものである「百法問答抄感四」(仏教学辞典)
因分可説/果分不可説
因分、原因となるものは説くことができる「