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眼見に対する語。<br>
 
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聞いて理解するを<kana>聞見(もんけん)</kana>、眼で見て明らかに知ることを<kana>眼見(げんけん)</kana>という。<br>
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自らの眼で見て明らかに確認することを<kana>眼見(げんけん)</kana>、聞いて理解し<kana>信知(しんち)</kana>することを<kana>聞見(もんけん)</kana>という。<br>
「見に二種あり。一つには眼見、二つには聞見なり。」([[真巻#P-356|-真巻 P.356]])といい、諸仏は一切衆生の仏性を、手のひらの上にのせた<kana>阿摩勒菓(あまろくか)</kana>(マンゴー)を見るようにはっきりと知ることができる。しかし十住の菩薩は仏の法を聞いて仏性を知るので聞見という。聞とは、阿弥陀仏の名号を聞いて信じよろこぶことをいい『無量寿経』では「諸有衆生、聞其名号、信心歓喜、乃至一念。(あらゆる衆生、その名号を聞きて、信心歓喜せんこと乃至一念せん。)」([[仏説 無量寿経_(巻下)#正しく念仏往生を明かす|大経P.41]])とある。<br>
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『涅槃経』に「見に二種あり。一つには眼見、二つには聞見なり。」([[真巻#P--356|真巻 P.356]])とあり、諸仏は一切衆生の<kana>[[仏性]](ぶっしょう)</kana>を、手のひらの上にのせた<kana>阿摩勒菓(あまろくか)</kana>(マンゴー)を見るようにはっきりと知ることができる。しかし十住の菩薩等は、仏の法を聞くことによって自らの仏性(仏に成ること)を知るので聞見(聞いて知る)という。この聞見によって仏性を信知することを信心仏性という。<br>
浄土真宗では、<kana>称即信(しょうそくしん)</kana>(名号を称えること即信心)とか、<kana>聞即信(もんそくしん)</kana>(聞くことは即信心)であるといい、聴聞をすすめるのは、阿弥陀仏の本願の生起とその躍動しているはたらきを聞くことを重視視するからである。ここを、「聞といふは、衆生、[[仏願の生起本末]]を聞きて疑心あることなし、これを聞といふなり。」([[信巻末#no65|信巻 P.251]])と、聞によって信をあらわされるのである。
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聞とは、阿弥陀仏の名号を聞いて往生即成仏せしめられることを信じよろこぶことをいい『無量寿経』には「諸有衆生、聞其名号、信心歓喜、乃至一念。(あらゆる衆生、その名号を聞きて、信心歓喜せんこと乃至一念せん。)」([[仏説 無量寿経_(巻下)#正しく念仏往生を明かす|大経P.41]])とある。<br>
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浄土真宗では、<kana>称即信(しょうそくしん)</kana>(名号を称えること即信心)とか、<kana>聞即信(もんそくしん)</kana>(聞くことは即信心)であるといい、聞くという[[聴聞]]をすすめるのは、阿弥陀仏の本願の<kana>生起(しょうき</kana>)とその躍動しているはたらきを聞くことを最も重要とするからである。親鸞聖人はこの聞を「言聞者 衆生聞仏願生起本末 無有疑心 是曰聞也。(聞といふは、衆生、[[仏願の生起本末]]を聞きて疑心あることなし、これを聞といふなり。)」([[信巻末#no65|信巻 P.251]])と、聞によって信(無有疑心)をあらわされるのである。
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参照:[http://hongwanriki.wikidharma.org/index.php/%E5%A4%A7%E8%88%AC%E6%B6%85%E6%A7%83%E7%B5%8C/4#.E2.86.92.E7.9C.9F.E4.BB.8F.E5.9C.9F.E5.B7.BB.E5.BC.95.E6.96.87.2821.29 『涅槃経』師子吼菩薩品之二 ]

2013年10月3日 (木) 14:24時点における版

もんけん

眼見に対する語。
自らの眼で見て明らかに確認することを眼見(げんけん)、聞いて理解し信知(しんち)することを聞見(もんけん)という。
『涅槃経』に「見に二種あり。一つには眼見、二つには聞見なり。」(真巻 P.356)とあり、諸仏は一切衆生の仏性(ぶっしょう)を、手のひらの上にのせた阿摩勒菓(あまろくか)(マンゴー)を見るようにはっきりと知ることができる。しかし十住の菩薩等は、仏の法を聞くことによって自らの仏性(仏に成ること)を知るので聞見(聞いて知る)という。この聞見によって仏性を信知することを信心仏性という。
聞とは、阿弥陀仏の名号を聞いて往生即成仏せしめられることを信じよろこぶことをいい『無量寿経』には「諸有衆生、聞其名号、信心歓喜、乃至一念。(あらゆる衆生、その名号を聞きて、信心歓喜せんこと乃至一念せん。)」(大経P.41)とある。
浄土真宗では、称即信(しょうそくしん)(名号を称えること即信心)とか、聞即信(もんそくしん)(聞くことは即信心)であるといい、聞くという聴聞をすすめるのは、阿弥陀仏の本願の生起(しょうき)とその躍動しているはたらきを聞くことを最も重要とするからである。親鸞聖人はこの聞を「言聞者 衆生聞仏願生起本末 無有疑心 是曰聞也。(聞といふは、衆生、仏願の生起本末を聞きて疑心あることなし、これを聞といふなり。)」(信巻 P.251)と、聞によって信(無有疑心)をあらわされるのである。

参照:『涅槃経』師子吼菩薩品之二