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「哀愍摂受」の版間の差分

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正像末史観によって、末法の救いは『無量寿経』流通分の以下の止住百歳の阿弥陀仏の本願しかないということ。
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仏のたまはく、「われいまもろもろの衆生のためにこの経法を説きて、無量寿仏およびその国土の一切の所有を見せしむ。まさになすべきところのものは、みなこれを〔尋ね〕求むべし。わが滅度ののちをもつてまた疑惑を生ずることを得ることなかれ。当来の世に経道滅尽せんに、われ慈悲をもつて'''哀愍'''して、特にこの経を留めて止住すること百歳せん。

2012年9月29日 (土) 04:58時点における版

あいみん しょうじゅ

 【左訓】(異本)「あはれみたまへとなり。われらを受けたまへとなり」(正像 P.610)

出典(教学伝道研究センター編『浄土真宗聖典(注釈版)第二版』本願寺出版社
『浄土真宗聖典(注釈版)七祖篇』本願寺出版社

区切り線以下の文章は各投稿者の意見であり本願寺派の見解ではありません。

正像末史観によって、末法の救いは『無量寿経』流通分の以下の止住百歳の阿弥陀仏の本願しかないということ。

仏のたまはく、「われいまもろもろの衆生のためにこの経法を説きて、無量寿仏およびその国土の一切の所有を見せしむ。まさになすべきところのものは、みなこれを〔尋ね〕求むべし。わが滅度ののちをもつてまた疑惑を生ずることを得ることなかれ。当来の世に経道滅尽せんに、われ慈悲をもつて哀愍して、特にこの経を留めて止住すること百歳せん。