「いちじょう」の版間の差分
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2011年9月24日 (土) 17:25時点における版
- 一乗海釈について
「行文類」は、他力釈に次いで、さらに「一乗海」の釈を施されています。親鸞聖人は、善導大師が念仏の法門を「頓教一乗海」(「玄義分」帰三宝偈)といわれていたものを承けて、「教文類」には『無量寿経』を「一乗究竟の極説」と讃仰し、「行一念釈」には念仏の利益をたたえて「大利無上は一乗真実の利益なり」(『註釈版聖典』一八八ー一八九頁)といわれていました。それらを承けて、大行という一乗の法を「誓願一仏乗」と呼んで広く釈されるのが、この一乗海釈です。
「一乗」の「一」とは無二の意味で、二、三に対する一ではなく、すべてを包含している一です。 「乗」とは運載の意味で、人びとを乗せて目的地へ運ぶ乗り物のことです。仏の教えは、此岸で迷っている人びとを乗せて、煩悩の濁流を乗り越えて彼岸へと渡していく船に譬えられるので、乗(乗り物)に譬えたのです。それに自分一人だけのさとりを目指す小さな乗り物と、一切の衆生を乗せて彼岸へ至らせる大きな乗り物とがあるので、大乗、小乗という名称が生まれたのです。要するに、一乗とは、一切の衆生を一人も漏れなく乗せて、完全なさとりの境地へ至らせる唯一無二の教法のことを表していました。それゆえ真実の大乗を一乗とも仏乗とも呼ばれるのです。
「一乗海」の「海」とは、その教法の徳が広大無辺であることや、あらゆる川の水を転換して、同一塩味にしていくように、一乗の法は、善人の善も、悪人の悪も、すべてを転換して如来の大智大悲に変えていくはたらきをもっているというので、海に譬えたのでした。
ところで、この一乗を釈される文章は、『勝鬘経』の文言によって造語されたものです。そこには、
- 声聞.縁覚乗はみな大乗に入るなり。大乗とはすなはちこれ仏乗なり。このゆえに三乗すなはちこれ一乗なり。一乗を得れば、阿耨多羅三藐三菩提を得るなり。阿耨多羅三藐三菩提とは、すなはちこれ涅槃界なり。涅槃界とは、すなはちこれ如来法身なり。法身を究竟することを得れば、すなはち一乗を究竟するなり。異の如来なく、異の法身なし、如来すなはち法身なり。法身を究竟することを得れば、すなはち一乗を究竟するなり。究竟とは、すなはちこれ無辺不断なり。(中略)もし如来、かの所欲に随ふは方便説なり、すなはちこれ大乗には三乗あることなし。三乗は一乗に入るなり。一乗とはすなはち第一義乗なり。 (『大正蔵』一二、二二0頁)
といわれています。親鸞聖人はこの文章を手がかりとして、誓願一仏乗の義意を開顕し、第十八願の教法が全仏教を包摂する最高の仏法であることを主張していかれたのです。
- 一乗の意味
さて、一乗とは「大乗」であるといわれていますが、これと次の「仏乗」とは一乗の異名を挙げて意味内容を詳細に示そうとされたものです。この大乗が『勝鬘経』の「一乗章」を承けていることは明らかです。大乗の「大」は「包含」の意味であって、一切衆生を分け隔てなく包含して成仏せしめる教法というのが大乗の本質ですから、大乗の大乗たる所以を、一乗とも仏乗ともいわれるわけです。次の「仏乗」とは、『選択集』に、
- 四乗の道を修し四乗の果を得。四乗とは三乗のほかに仏乗を加ふ。(『註釈版聖典』七祖篇一一八六~一一八七頁)
といわれているように、釈尊の教法を声聞乗、縁覚乗、菩薩乗、仏乗という四乗に分けたなかの、第四の仏乗のことを意味しています。実は、これは天台流の仏乗解釈でした。そのほかに三論宗や法相宗でいう仏乗解釈もあります。、それは、三乗のなかの菩薩乗を仏乗とする考え方です。
声聞乗と縁覚乗を二乗といい、両方を合わせて小乗の教えといいます。自分のさとりを第一に考えて、人びとを救おうという大慈悲心に欠けているから、小さな乗り物と貶していったわけです。 それにひきかえ、一切の衆生を救って共に仏道を完成しようという広大な菩提心をおこして、自利・利他の行を励んでいく菩薩の道を説く教えを菩薩乗といいます。このような菩薩乗は仏になる道ですから、それを仏乗ともいうというのが、三乗家の仏乗理解です。三種類の教法が各別に存在しているといいますので、これを三乗家といい、また『法華経』の火宅三車(羊車、鹿車、牛車)の譬えによって三車家ともいい、三論宗や法相宗などの立場です。
それに対して、天台宗や華厳宗などでは、本来三乗というのは未熟なものを育てるために、唯一の成仏道である一仏乗から、仮にしばらく設けた方便の教説であって、一乗のほかに実体はないというので一乗家と呼んでいます。ですから二乗(小乗)の人でも、機根が熟して、自分も本来仏性をもっていて、修行さえすれば仏になれる身であると気づけば、ただちに菩薩となって、一仏乗を歩む身になります。このように、機根が熟しさえすれば、三乗のままが一仏乗であるというように理解するのです。
それは、三乗を各別に見ていくような菩薩乗のほかに、三乗を超えて三乗を方便としてもっているような一仏乗をたてますから、四乗といいます。しかし、実際に成仏道としてあるのは仏乗だけですから、「唯一乗法のみあって、二乗・三乗あることなし」といわれています。これを三車家に対して四車家(三車というのは方便で、実際にあったのは大白牛車だけであったという『法華経』の経説による)ともいい、また三乗家に対して一乗家というわけです。
ところで、三車家のなかでも法相宗の人たちは、機根に応じて各別の三乗法があるというのが真実の教えであって、三乗には実体がなく、あるのは一乗だけであると説かれているのは方便の教説であるといい、三乗真実・一乗方便と主張しています。それに対して一乗家の人びとは、三乗には実体がなく、あるのは一仏乗だけであるというのが真実の仏教であると、一乗真実・三乗方便を主張して譲りませんでした。これを三一権実(一三権実)の諍いと呼んでいます。法然聖人や親鸞聖人は、もともと天台学者でもありましたから、天台宗の影響を受けて、基本的には四車家、すなわち三乗方便・一乗真実という一乗家の考え方をされています。
- 一乗の力用
次に「一乗を得るは阿耨多羅三藐三菩提を得るなり」といわれたのは・一乗の力用(はたらき)を表しています。まず「一乗を得るは」というのは因徳をあげ、「阿耨多羅三藐三菩提を得るなり」とは果徳をあげたもので、因果をあげることによって、一乗の成仏道としてのはたらきを明らかにされたわけです。その阿耨多羅三藐三菩提の因となる一乗とは、法からいえば大行であり、機からいえば大信であって、これが一乗の因徳なのです。それをのちに誓願一仏乗といわれるのです。
阿耨多羅三藐三菩提を、『往生論註』には「無上正遍道」と翻訳されていました。この場合の「道」とは、菩提の訳語で、聖智のことであるといわれていますから、最高のさとりの智慧(仏智)を得しめるということです。
次に、「阿耨菩提はすなはちこれ涅槃界なり」からは転釈です。涅槃界とは、智慧によって煩悩を断じて得る安らかな寂静の境地です。それを断徳ともいいます。「無上正遍知」は能証の智徳ですが、その智は知るもの(能証の智)と知られるもの(所証の境)とが一つであるような無分別智を意味していますから、智慧はそのまま涅槃の境地であるということを「阿耨菩提はすなはちこれ涅槃界なり」といわれたのです。要するに、境智一如、智断不二の領域が無上の仏果であるということを表すための転釈なのです。
次に「涅槃界はすなはちこれ究竟法身なり」とは、『勝髪経』に「涅槃界はすなはちこれ如来法身なり」といわれていたものを「究竟法身」と言い換えたものです。「究竟法身」の究竟とは、到達できる最終点のことですから、最高のさとりを表す言葉です。いわゆる理智不二、境智一如の無分別智の領域こそ究極の法身であるというので、究竟法身といわれたのです。『唯信鈔文意』の「無為涅槃界」の釈中に、
- 法性すなはち法身なり。法身はいろもなし、かたちもましまさず。しかれば、こころもおよばれず、ことばもたえたり。(『註釈版聖典』七0九~七一0頁)
といわれた法性法身にあたります。
こうして「究竟法身を得るはすなはち一乗を究竟するなり」と、はじめの一乗に帰っていきます。まことの一乗とは、仏陀のさとりの根元に証入せしめる法門であるというのでしょう。阿弥陀仏も、そこから顕現してこられた一如(法性法身)の境地に入れしめるのが誓願一仏乗であるといわれるのです。
次の「異の如来ましまさず。異の法身ましまさず」というのは、「究竟法身」を言い換えたものといえましょう。「いろもなし、かたちもましまさず。しかれば、こころもおよばれず、ことはもたえたり」といわれる究竟法身に、同とか異とかということを論ずる余地はありません。同か異かを論ずるのは、すでに分別の領域に属することだからです。如来の本体は無分別智ですから、如来はそのまま法身であるといわねばなりません。それを「如来はすなはち法身なり」といわれたのです。
そのような究竟法身の領域を、「一乗を究竟するはすなはちこれ無辺不断なり」といわれています。無辺とは、空間的に辺際のないことをいい、不断とは時間的に永久に断絶がないことですから、要するに空間を超えてあらゆるところに遍在しており、時間を超えて過去、現在、未来を充実させる、無にして一切であるような境位を、あえて法身といい、如来といい、それを万人に証得せしめるものが一乗であり、大乗であるといわれるのです。
- 誓願一仏乗
こうして最後に「大乗は二乗・三乗あることなし。二乗・三乗は一乗に入らしめんとなり。一乗はすなはち第一義乗なり。ただこれ誓願一仏乗なり。」といい二乗三乗に対して真の一乗とは誓願一仏乗であると結んでいかれます。仏が二乗とか三乗の法門を説かれたのは、唯一無二の一乗を受けいれることのできるものに育て導くために、一乗から、機根の成熟度に応じて展開された、権仮方便の教えであって、本来一乗のほかに実体としてあるものではなかったのです。
この文言は『勝鬘経』より、むしろ『法華経』「方便品」に似ています。すなわち、
- 舎利弗よ、劫の濁乱の時には、衆生は垢重く、樫貪・嫉妬にして諸の不善根を成就するがゆゑに、諸仏は方便力をもって、一仏乗において分別して三と説きたまふ。(中略)十方の仏土の中には、ただ一乗の法のみありて、二もなく、また三もなし、仏の方便の説をば除く。(『大正蔵』九、七一八頁)
といわれています。
ところで、一切の衆生は、善悪・賢愚の差別なく、ことごとく仏性をもち、成仏しなければならないものであると見抜いたのが仏知見であり、それゆえ一人も漏らさず成仏させようと願っているのが大智大悲の仏心であるとすれば、その本意を実現する教法がなければなりません。しかし一切衆生を平等に、しかも速やかに成仏得脱させることのできる法門は、衆生の自力作善を必要としない教法であり、極悪の罪業も障りとしない、完全に善悪・賢愚を超越した救済法でなければなりません。それが阿弥陀仏が成就された本願力回向の法門なのですから、これこそ真の一乗であり、第一義乗(この上なく勝れた究極の一乗)であって、ただこの真実の一乗に導くために仮に設定された方便の教説を除けば、この一乗のほかに仏教は存在しないといわれたのです。それは法華一乗でも、華厳一乗でもなくて、誓願一仏乗であると親鸞聖人は言い切っていかれたのです。
こうして誓願一仏乗を明かされたあと、その一乗といわれる意義を説明するために、『涅槃経』から四文と、『華厳経』から一文が引用されています。そして最後に、「しかれば、これらの覚語はみなもつて安養浄刹の大利、仏願難思の至徳なり」と結ばれています。『涅槃経』に説かれたような、一乗の本体である「一切衆生悉有仏性」をさとり顕し、『華厳経』に説かれているように、一道より生死を出て一法身を証得するというようなことは、無明に覆われている今生で実現することではなくて、安養浄土に至ったとき完全に実現する利益であるといい、不可思議の本願力によって与えられる究極の利益であるといわれるのです。
- 海の徳義
真実の意味で一乗といわれるのは、誓願一仏乗であるといわれましたから、次に「一乗海」の「海」の意味を釈することによって、誓願一仏乗のはたらきを譬えで顕すのが、以下の釈です。その「海」の釈が二段に分かれていて、「海といふは」から「煩悩の氷解けて功徳の水と成るとのたまへるがごとし」までの一段は、一味平等の徳を表したものであり、次の「願海は二乗雑善の中下の屍骸を宿さず」というのは、不宿死骸の徳を表した釈です。一味平等は、機の側から顕した釈であり、不宿死骸は、法の側からの釈です。
はじめの「海といふは、久遠よりこのかた、凡聖所修の雑修雑善の川水を転じ」といわれたものは、自力の善を転ずるという転善の徳を表し、次の「逆謗闡提恒沙無明の海水を転じて」というのは、転悪の徳を示したものです。そして「本願大悲智慧真実恒沙万徳の大宝海水となる」というのは、如来の功徳に変え成すことを顕した釈です。 善悪ともに転ずるというのは、人間のなす悪はもちろん、たとえ善であっても自己中心的な想念に汚染された不真実の行為でしかないからです。海には、清濁無数の河が流れこみますが、どの河の水も、海に入ればすべて同一の塩味に転換するように、阿弥陀仏の本願力は、善悪を隔てなく受けいれて、すべてを阿弥陀仏の大智大悲の功徳に転換していくはたらきをもっていますから、誓願一仏乗は海に警えられるというのです。なおここで凡聖の善を「川水」に譬え、悪業を海水に譬えられたのは、たとえ雑善であっても善人は少なく、悪人は多く、無明煩悩は海のように深広であるからでしょう。『高僧和讃』には、平等一味の利益を、
- 尽十方無擬光の
- 大悲大願の海水に
- 煩悩の衆流帰しぬれば
- 智慧のうしほに一味なり (『註釈版聖典』五八五頁)
と讃詠されています。'
「まことに知んぬ、経に説きて『煩悩の氷解けて功徳の水となる』とのたまへるがごとし」といわれたのは、暖かい太陽の光に触れれば氷がとけて水になるように、如来の大悲の智慧は、私たちの煩悩を転じて功徳に変え成してくださるといわれたのです。「経に説きて」といわれていますが、特定の経を指しているというよりも、『往生要集』助念方法に、
- 「貪欲はすなはちこれ道なり。 恚・痴またかくのごとし。 水と氷との、性の異なる処にあらざるがごとし。 ゆゑに経にのたまはく、〈煩悩・菩提は体無二なり。 生死・涅槃は異処にあらず〉と。 われいま、いまだ智火の分あらざるがゆゑに、煩悩の氷を解きて功徳の水となすことあたはず。 願はくは仏、われを哀愍して、その所得の法のごとく、定慧力をもつて荘厳し、これをもつて解脱せしめたまへ」と。(『註釈版聖典』七祖篇一0一七~一0一八頁)
といわれた言葉によって造語されたものでしょう。『高僧和讃』に、
- 無碍光の利益より
- 威徳広大の信をえて
- かならず煩悩のこほりとけ
- すなはち菩提のみづとなる
- 罪障功徳の体となる
- こほりとみづのごとくにて
- こほりおほきにみづおほし
- さはりおほきに徳おほし (『註釈版聖典』五八五頁)
といわれたものは、この転成の徳をたたえられたものです。
次の「願海は二乗雑善の中下の屍骸を宿さず」というところからは、不宿屍骸(屍骸を宿さない)という、海のもつ特徴をあげたものです。本願の世界に帰入したものは、すべて自力のはからいを離れて、阿弥陀仏の本願の大悲心を真実と仰いで生きるものになりますから、自力をたのむようなものは一人もいないといわれたものです。そのなか声聞や縁覚を中・下といわれたのは、三乗のなかで声聞を下乗、縁覚は中乗(菩薩は上乗)といい、利他大悲の心をもたない声聞と縁覚は、阿羅漢には成れるが仏には成れないという意味で、仏道の屍骸であるといわれていたからです。自力の善をたのんで往生しようとしても、真実報土には決して往生できないことから、自力の善人を屍骸に譬えられたのです。まして人や天人が行う、うそいつわりのまじった善や、煩悩の毒のまじった心をもっている屍骸のようなものを、そのままにしておくわけがありません。すべてを本願の功徳に転じていくのが、誓願一仏乗のはたらきであるといわれるのです。『高僧和讃』にはそのこころを、
- 名号不思議の海水は
- 逆謗の屍骸もとどまらず
- 衆悪の万川帰しぬれば
- 功徳のうしほに一味なり (『註釈版聖典』五八五頁)
と詠われています。
なお親鸞聖人が「海」の譬えをもって、あるいは無明煩悩の果てしないありさまを表したり、あるいは深広にして無底なる仏徳を表したり、いまのように誓願一仏乗の転成のはたらきや、不宿屍骸の徳を譬えたりされていますが、それは直接的には『浄土論』や『往生論註』にしばば用いられていたからです。しかし、さらにその元をいえば、晋訳『華厳経』第二十七「十地品」(『大正蔵』九、五七五頁)に大海の十相を説かれたものや、それを承けて天親菩薩が『十地経論』(『大正蔵』二六、二0二頁)に「大海に八種功徳あり」として詳しく釈されたものを承けておられたと思います。