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 『文殊般若経』の原意では、真如法性の平等一相を観ずる三昧を一行三昧と呼び、これに入るための方便として専称名字を勧励しているが、道綽禅師は阿弥陀一仏の名字を専称することを一行三昧の意とされている。 ([[安楽集 (七祖)#P--249|安楽集 P.249]])
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 『文殊般若経』の原意では、真如法性の平等一相を観ずる三昧を一行三昧と呼び、これに入るための方便として専称名字を勧励しているが、道綽禅師は阿弥陀一仏の名字を専称することを一行三昧の意とされている。 ([[安楽集 (七祖)#P--249|安楽集 P.249]]、[[往生礼讃 (七祖)#P--657|往生礼讃 P.657]])
  
  

2010年11月1日 (月) 21:43時点における版

いちぎょうざんまい

 真如(しんにょ)法界(ほうかい)の平等一相を観ずる三昧。 『文殊(もんじゅ)般若(はんにゃ)(きょう)』ではこれに入るための方便として専称名字を勧励しているが、(どう)(しゃく)(ぜん)()善導(ぜんどう)大師は阿弥陀一仏の名字を専称することを一行三昧の意とされる。 (行巻 P.163)


 『文殊般若経』の原意では、真如法性の平等一相を観ずる三昧を一行三昧と呼び、これに入るための方便として専称名字を勧励しているが、道綽禅師は阿弥陀一仏の名字を専称することを一行三昧の意とされている。 (安楽集 P.249往生礼讃 P.657)


出典(教学伝道研究センター編『浄土真宗聖典(注釈版)第二版』本願寺出版社
『浄土真宗聖典(注釈版)七祖篇』本願寺出版社

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