四十七対
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(四十八対から転送)しじゅう-しちたい
御開山は「行巻」に「一乗の機教」として、
として、浄土門と聖道門の二つの「教」を比較しつつ念仏と諸善の四十七(八)対を立て、「本願の一乗海」に乗ずる〔なんまんだぶ〕は絶対不二の教法であることをあきらかにされておられた。
梯實圓和上は、
行と信は、法と機の関係として見ていくのが親鸞聖人であった。{乃至}本願の念仏を絶対不二の教法とよび、本願の信心を絶対不二の機とよばれているのは、念仏と信心は、切り離すことのできない一乗の法と機であるとみられていたからである。(梯實圓『教行信証の宗教構造』 p.265)
と示しておられた。
- 下に現代語あり。
- しかるに教について念仏諸善比挍対論するに、難易対、頓漸対、横竪対、超渉対、順逆対、大小対、多少対、勝劣対、親疎対、近遠対、深浅対、強弱対、重軽対、広狭対、純雑対、径迂対、捷遅対、通別対、不退退対、直弁因明対、名号定散対、理尽非理尽対、勧無勧対、無間間対、断不断対、相続不続対、無上有上対、上上下下対、思不思議対、因行果徳対、自説他説対、回不回向対、護不護対、証不証対、讃不讃対、付属不属対、了不了教対、機堪不堪対、選不選対、真仮対、仏滅不滅対、法滅利不利対、自力他力対、有願無願対、摂不摂対、入定聚不入対、報化対あり。
- この義かくのごとし。
- しかるに本願一乗海を案ずるに、円融満足極速無碍絶対不二の教なり。(註 199 一乗の機教)
- 現代語
- しかるに教法について、念仏と諸善とを比較し、相対して論じると、次のようになります。
難易 対、諸善は難行であり、念仏は易行である。頓漸 対、念仏は速やかに成仏し、諸善は長い時間を要する。→漸頓横竪 対、念仏は他力によって横さまに迷いを超え、諸善は自力によって、竪 さまに順を迫って迷いを離れていく。→二双四重超渉 対、念仏は迷いの世界を飛び超えるが、諸善は歩いて渡るようなものである。順逆 対、念仏は本願に順じているが、諸善は本願に背いている。大小 対、念仏は大功徳であるが、諸善の功徳は小さい。多少 対、念仏は多善根であるが、諸善は少善根である。勝劣 対、念仏は最勝の行であり、諸善は劣行である。→大多勝親疎 対、念仏は仏に親しく馴染み深いが、諸善は疎遠である。近遠 対、念仏は仏に近く、諸善は遠く離れている。深浅 対、念仏は深い法であり、諸善は浅薄である。強弱 対、念仏は強い本願に支えられているが、諸善を支える自力は弱い。重軽 対、念仏は重い願力に支えられているが、それのない諸善は軽い。広狭 対、念仏は一切を救うから広く、諸善は善人にかぎるから狭い。純雑 対、念仏は純粋な往生行であるが、諸善は三乗に通ずる行である。径迂 対、念仏はさとりに至る近道であり、諸善はまわり道である。捷遅 対、念仏は早くさとりに至る道であり、諸善は遅い道である通別 対、諸善は聖道に通ずる通途の法であり、念仏は特別の法である。不退退 対、念仏は不退転の法であり、諸善は退転のある法である。直弁因明 対、念仏は仏の出世の本意としてただちに説かれた法であり、諸善は自力の機に止むを得ず説かれた法である。名号定散 対、念仏は釈尊が付属された名号であり、諸善は付属されなかった定散二善である。埋尽非理尽 対、念仏は道理を尽くして説かれた完全な法であり、諸善は理を尽くさない不完全な説にすぎない。勧無勧 対、念仏は十方の諸仏が勧められる法であり、諸善には諸仏の勧めはない。無間間 対、念仏は他力に支えられているからその信心は途切れることがないが、諸善を修するものの信は途切れることがある。断不断 対、念仏は摂取されているから信心断絶しないが、諸善は断絶する。相続不続 対、念仏は法の徳によって臨終まで相続するが、諸善は相続しない。無上有上 対、念仏は無上の功徳を具しているが、諸善は有上功徳でしかない。上上下下 対、念仏は最も勝れた上上の法であるが、諸善は下下の法である。思不思議 対、念仏は不可思議の仏智の顕現であり、諸善は分別思議の法である。因行果徳 対、諸善は不完全な因人の行であるが、念仏は阿弥陀仏の果徳を与えられた完全な法である。自説他説 対、念仏は阿弥陀仏自身が説かれた行法であり、諸善はそうではない。回不回向 対、諸善は衆生が回向しなければ往生行にはならないが、念仏は如来回向の法であるから、衆生は回向する必要がない。護不護 対、念仏は如来に護念せられる法であるが、諸善には護念はない。証不証 対、念仏は諸仏が証明されているが、諸善には諸仏の証明がない。讃不讃 対、念仏は諸仏に讃嘆される法であるが、諸善は讃嘆されない。付嘱不嘱 対、念仏は釈迦・弥陀二尊の本意にかなった法であるから付属されたが、諸善は付属されなかった。了不了教 対、念仏は仏の本意が完全に説き示された法であるが、諸善はそうではなかった。機堪-不堪 対、念仏はどのような愚劣の機にも堪えられるように成就された法であるが、諸善は劣機には堪えられない法である。選不選 対、念仏は如来が選び取られた法であり、諸善は選び捨てられた法である。真仮 対、念仏は真実の法であり、諸善はしばらく仮に用いられる方便の法である。仏滅不滅 対、諸善のものは往生しても入滅する応化仏を見るが、念仏往生のものは永久に入滅しない真仏を見る。法滅利不利 対、法減の時になっても念仏は滅びることなく衆生を利益し続けるが、諸善は滅びるから利益がない。しかし、これを法減不滅 対と利不利 対の二対に分ける説もある。[2] →法滅利不利対自力他力 対、諸善は自力の法であり、念仏は他力の法である。有願無願 対、念仏は本願の行であり、諸善は本願の行ではない。摂不摂 対、念仏は摂取不捨の利益があり、諸善は摂取されない。入定聚不入 対、念仏は正定聚に入る法であるが、諸善は正定聚に入れない。報化 対、念仏は真実報土に往生する行であるが、諸善は化土にとどまる行である。
- 教法について念仏と諸善を比較すると、このような違いが明らかになってきます。ところで本願一乗海である念仏について考えてみると、あらゆる善根功徳が円かに融け合って、衆生の煩悩悪業にもさまたげられることなく、速やかに満足せしめていくという、比較を超えた唯一絶対の教法であることがわかります。
- ↑ 「行巻」で「行について」ではなく何故「教について」とされるのかといえば、浄土真宗では「能詮の言教、所詮の法義」といふ。『大無量寿経』は真実をあらわす「能詮の言教」(言語によって表現された教え)であり、「所詮の法義」(その教えによってあらわされている内容)の法は「行巻」であらわされている〔なんまんだぶ〕と称える往生の法である「大行」である。ここから「教法」としての「行」を説く「行巻」で「教について」とされたたのである。この教法である大行を往生の「業因」と信知することを信心正因といふのであった。→教
- ↑ 『大経』に「当来の世に経道滅尽せんに、われ慈悲をもつて哀愍して、特にこの経を留めて止住すること百歳せん。」(P.81)とあり、念仏は法滅後も滅しないが諸善は滅する「法滅不滅対」と、念仏は利益があるが諸善は利益がない「利不利対」とに分けた場合は48対となる。『愚禿鈔』(P.509)と対応。